第2話:3倍の対価
第2話:3倍の対価
I. 鉄の感触と熱い紙幣
2001年7月。東京の夏は、アスファルトの熱気と湿気を孕み、街全体が重苦しい蒸気に包まれていた。
神崎雅之のオフィス。巨大な窓から射し込む午後の光に目を細めながら、彼はデスクの上に散らばる書類の山を見下ろす。契約書に押された朱色の印鑑が、異様に鮮烈に視界に浮かんだ。
「常務、今日の送金、完了したか?」
神崎は傍らに立つ秘書に尋ねる。
「はい、社長。予定通り、華山氏の指定口座へ初回分割金、無事入金完了しております」
胸の奥に、軽く高揚感が湧き上がる。投資というより、まるで**「特権」**を手に入れた気分だった。しかしその隅には、冷たい鉄の感触のような違和感がまとわりつく。
(1株120万……破格だ。)
契約書に視線を落とす。市場価格の3倍。華山は「特別ルートの対価」と説明したが、その根拠は、華山の自信と人脈という曖昧な言葉だけ。
「常務、もう一度、あの医療関連会社の財務資料を出してくれ」
「社長、もう何十回も確認されてますが」
「構わん。目で確かめたいんだ」
神崎は資料を指の腹で撫でた。紙の乾いた感触、印字の凹凸。それは完璧に見える。未来の成長性、需要の高さ。しかし、胸の奥で警鐘が鳴る。長年の不動産経営で培った、成功者の嗅覚かもしれない。
(いや、華山を信じよう。あの目は本物だ。これは「価値」への先行投資だ)
椅子に深く背中を預け、目を閉じる。浮かぶのは、華山の自信に満ちた笑み。彼は、その笑みに賭けるのだった。
II. 札束の静かな笑い声
都心を離れた高級マンションの一室。華山秀樹は、リビングで一人、窓の外の鬱蒼とした緑を眺めていた。エアコンの低いうなりだけが静寂を破る。
テーブルには銀行から引き出された現金が、整然と積まれている。初回入金からブローカーへの支払いを差し引いた取り分。それでも、その山は彼の背丈より低いが、圧倒的な質量を持っていた。
「ハハッ……」
華山は札束に語りかける。まるで愛しい恋人に触れるように、指先でゆっくりと撫でた。パリッとした紙の乾いた感触。インクとわずかに鉄の匂いが混じる。
「1株40万を、120万で買わせる。3倍の対価……ハハッ、これぞ蜜の味だ」
冷たい笑いが静かに部屋に広がる。テレビで見せていた華やかな笑顔の裏に、傲慢で冷たい欲望が潜んでいた。
彼は携帯電話を取り出す。西脇へ連絡する。
「少し多めにな、あいつも、この味を忘れられないだろう」
華山の声は滑らかで明るく、札束を数える指先のように、完璧に制御されていた。全てが計算された悦楽の一部。
III. 隠された真実の重さ
季節は巡り、2001年10月。神崎は4回目の分割支払いを終えた。総額、およそ3億7000万円。
「社長、全額送金完了です」
秘書の声が響く。神崎は目の前の数字に、息を止める。自分の人生で最も大きく、最もリスクの高い投資を、たった一人のタレントに委ねてしまったのだ。
「華山さんから連絡は?」
「はい、すぐに電話があり、『感謝しています。株の公開情報も近いうちに入るでしょう』とのことです」
安堵する神崎。しかし、その**「待つ」**時間が、成功者である彼にとって、何よりももどかしく、不安をかき立てるものだった。
夜。自宅の庭に出ると、夜露で冷えた芝生の葉が手のひらに触れる。その冷たさが、心にまとわりつく違和感を、ほんのわずかに緩めてくれる。
(なぜだ。心が晴れない……)
神崎の知らぬところで、華山はすでに、支払われた金額の3分の2、約2億円を不正な利益として確定させていた。
彼が手に入れた株の価値は、すでに揺らぎつつあり、その事実が口から出ることは決してない。
神崎は深く夜空を見上げる。無限の闇が広がる空の下、心に落ちた小さな不安の種は、まだ言葉にならず、確実に根を張っていく。やがて、彼を苦しめることになるだろう。
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