第10話:基礎の基礎と、クッキーの奇跡
「……リリア様。今朝、城の給湯システムが一時停止いたしました。原因は、地下の研究室から漏れ出した貴女の冷気が、城全体の魔導パイプを氷結させたためです。今朝、ヴァルハラ様は冷水シャワーを浴び、『これも修行だ!』と叫びながら心肺停止しかけておられましたよ」
セバスチャンの冷ややかな報告が、リリアの寝室に響く。リリアは毛布に潜り込み、震える声で返した。
「……不可抗力です。私はただ、メフィストさんの話が難しすぎて、脳がオーバーヒートしたのを冷やしたかっただけなんです。城全体を冬にするつもりなんて、一ミクロンもありませんでした」
「言い訳はメフィスト様に直接おっしゃってください。彼は現在、溶けない氷に閉じ込められた貴重な実験器具を、一本の爪楊枝で削り出そうとするという、狂気的な作業に没頭されています」
リリアは再び連行された。ただし、今回の場所は研究室ではない。城の屋上にある、何もない、壊れても被害が少ない石造りの広いテラスだ。
そこには、クマのひどいメフィストが、充血した目で待ち構えていた。その手には、魔法の杖ではなく、一本のロウソクが握られている。
「リリア様……昨日は、私の完敗でした。貴女の魔力は、計測器や論理で測れるものではない。……ですが、このままでは、貴女がクシャミをしただけで魔界が氷河期を迎えてしまう。……いいですか。今日は『魔法』を使いません」
メフィストは、リリアの目の前にロウソクを置いた。
「魔法を使おうと思うから、世界の理が反転するのです。……イメージしてください。これは魔法ではなく、『おやつのじかん』です」
「……おやつ、ですか?」
リリアの瞳が、わずかに光った。
「そうです。貴女の中に眠る莫大な魔力を、一切れのカステラ、あるいは一枚のクッキーだと思ってください。昨日の貴女は、その巨大なクッキーを一気に口に詰め込み、部屋中を粉だらけにしたのです。……今日は、そのクッキーから、ほんのひと欠片……小指の先ほどの甘いカスだけを取り出すのです。そのカスを、このロウソクの芯に、そっと乗せる……。それだけでいい」
リリアは、ロウソクをじっと見つめた。
(……おやつの、カス。食べこぼしの、小さな一片。……それなら、私にもできそうです。私は食べこぼすのだけは、得意ですから)
リリアは深呼吸をした。プラチナブロンドの髪が風に揺れる。
彼女は、自分の体の中に渦巻く、あの重たくて、ドロドロした、制御不能の何かに意識を向けた。それは普段、リリアを重力で苦しめ、猫背にさせる原因となっている巨大な塊だ。
(……この中から、ほんの少し。……バター一片分の、熱量を)
リリアの指先が、微かに震える。
彼女は昨日の失敗を教訓に、意識を極限まで小さく、小さく絞り込んだ。
(熱いのは怖い。でも、冷たいのも疲れちゃう。……なら、おばあちゃんが焼いてくれる、焼きたてのクッキーの、あのポカポカした温度だけ。……えいっ)
ポフッ。
小さな、本当に小さな音がした。
リリアの指先から、豆電球のような、淡くて頼りないオレンジ色の光が漏れ出した。
その光は、ロウソクの芯に吸い込まれるように移り、……そして、静かに、一筋の炎となって灯った。
「…………ついた」
リリアは、目を丸くした。
爆発もしない。氷も張らない。ただ、そこにあるべき火が、そこにある。
「…………灯りました。セバスチャン、メフィストさん! 見てください! 私の指、まだ焼き鳥になってません! ロウソクが、ちゃんとロウソクの仕事をしています!」
リリアは、飛び跳ねるようにして喜んだ。彼女にとって、これは魔界の支配よりも、はるかに大きな成功体験だった。
メフィストは、その小さな火を見つめたまま、膝から崩れ落ちた。
「……ああ。……ああ、なんという純粋な……。属性の反転も、因果の歪みもない。ただ、主の慈愛だけが結晶化したような、汚れなき種火……。リリア様、貴女は今、己の強大すぎる力に、初めて手綱をかけられたのです……!」
メフィストの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは研究資料を失った悲しみではなく、主の成長を目の当たりにした、歪んだ忠誠心の結露だった。
「リリア様。……今、貴女が感じたその感覚。それが制御です。……魔王という座は、時に世界を焼き尽くす力が必要になります。ですが、真に恐ろしい王とは、その火をティーカップ一杯分にまで絞り込み、優雅に茶を飲むことができる者のことなのです」
メフィストは、リリアの手をそっと取り、真剣な眼差しで続けた。
「私は、貴女のその怠惰を愛しています。なぜなら、怠惰とは、無駄な魔力消費を嫌う効率の究極体だからです。……貴女がもっと魔法を使いこなせば、指先一つでパジャマを洗濯し、念じるだけでおやつを口元まで運べるようになるでしょう。……そのために、私はこの身を捧げて貴女を教育します」
「……洗濯とおやつが自動化されるんですか!? それ、最高じゃないですか! メフィストさん、私、やる気が出てきました! 腹筋は無理ですけど、魔法の指パッチンでクッキーを呼ぶ練習なら、一万回でもやります!」
「その意気です、魔王様!」
リリアとメフィストの間に、奇妙な師弟関係の絆が芽生えた瞬間だった。セバスチャンは傍らで、その様子をやれやれと眺めながら、手帳に「目標:魔法による家事の完全自動化」と書き込んだ。
夕暮れ時。テラスでの特訓を終えたリリアを、他の四天王たちが待ち構えていた。
「リリア様! 聞きましたぞ! ついに指先から火を放ち、メフィスト殿を感泣させたとか! 流石は我が主! その火で、いずれは世界全土を焼き払いましょうぞ!」
ヴァルハラが、岩のような拳を叩きつけて叫ぶ。
「違うんです、ヴァルハラさん。焼き払うのは、せいぜいトーストの表面くらいです」
「リリアちゃん、すごいじゃない! 魔法が使えるようになったなら、次はその火で透ける魔法のドレスを作りましょうよ! 私がデザインを手伝ってあげる」
リリムが、リリアの頬にすり寄る。
「……火で服を作ったら、それ、燃えてるだけじゃないですか!?」
四天王たちの期待は、相変わらず的外れで巨大だったが、リリアは今日の小さな成功のおかげで、少しだけ胸を張っていた。
「リリア様。成功に浸る時間は終わりです。魔法の基礎の次は、いよいよ対人関係……つまり、社交術のレッスンです。明日からはリリム様が、貴女のその人見知りを物理的に破壊しに参ります」
セバスチャンの宣告に、リリアの顔から血の気が引いた。
「……人見知り、破壊。……物理的。……リリムお姉さん。……嫌な予感しかしません。セバスチャン、私、やっぱりさっきの火で、自分を氷漬けにして冬眠してもいいですか?」
「却下です。さあ、明日に備えて、今日はたっぷりとクッキーを食べて英気を養ってください」
リリアは、ロウソクに灯した小さな火を、大切に消さないように(実際にはもう消えていたが)部屋へと戻っていった。
一歩進んで二歩下がるような成長。だが、引きこもり魔王リリアの物語は、この小さな火から、確実に動き始めていた。
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