第9話:火の玉を求めて三千里


 「……死んでいます。今の私は、法的には死体として扱われるべき存在です。セバスチャン、今すぐ私を棺桶(ふかふかのベッド)に入れ、永遠の眠り(二度寝)に就かせてください」


 リリア・フォン・ダークネスは、自室の床に力なく伸びていた。


 「リリア様。残念ながら死体安置所への移動は却下です」


 セバスチャンが、リリアの首根っこを子猫のように摘み上げる。


 「本日の予定は、メフィスト様による『第一回・魔力制御講習』でございます。魔王として、指先から火を灯すことすらできない現状は、暗殺者にどうぞ私を料理してくださいと招待状を送っているようなものです」


 「火なんて魔導具で十分です! 私は、自分の手から火が出るなんて怖くて耐えられません! 自分の指が焼き鳥になったらどうするんですか!」


 「ご安心を。そのために、メフィスト様が数千の防御結界を張った特別演習場をご用意しております。さあ、知の迷宮へ」



 連行されたのは、城の最深部にあるメフィストの研究室。


 そこには、怪しく光るフラスコ、巨大な魔導計算機、そして、これを触ったら魔界が半分消えそうなオーラを放つ魔法陣が所狭しと並んでいた。



 「――お待ちしておりましたよ、魔王様」


 メフィストが、眼鏡の奥の瞳をギラリと光らせて現れる。その手には、巨大な水晶――魔力測定器が握られていた。


 「リリア様。貴女はまだ、ご自身の真の力を自覚されていない。今日は、まずその『器』の底を測らせていただきます」


 「……底なんて、おちょこ一杯分くらいしかないですよ。メフィストさん、私、昨日から知恵熱で頭がポワポワしてるんです。測定中に寝ちゃっても怒らないでくださいね」


 リリアは、言われるがままに測定用の水晶に手を置いた。


 (……とりあえず、適当にポフッって感じで念じればいいんですよね。あんまり頑張ると、明日の筋肉痛が増えそうだし)


 リリアは目を閉じ、昨日の夕食に出た「黄金のバタークッキー」のサクサク感を思い浮かべた。


 (……クッキー。甘いクッキー。口の中で溶ける、優しいお味……)


 その瞬間。


 ピキッ。


 不穏な音が、静かな研究室に響いた。


 「……おや? 測定器の感度が良すぎたかな? もう少し出力を下げて……」


 メフィストが調整しようとした瞬間、水晶が太陽のような光を放ち始めた。


 「あ、熱い! メフィストさん、水晶が怒ってます! 私のクッキーへの執念を拒否してます!」


 「……バカな。計測限界だと!? 私はこれに、魔王級の魔力を10回分重ねても壊れない防護を施して……ひっ、数値が……数値がオーバーフローして、逆流している!?」



 巨大な水晶は、リリアのおやつへの情熱という名の無意識の魔力に耐えきれず、粉々に砕け散った。

 爆風でリリアのプラチナブロンドが激しく舞い、メフィストの眼鏡はフレームだけに、セバスチャンの髪型はわずかにオールバックになった。


 「…………。……割れちゃいました。セバスチャン、これ、私の給料から天引きですか?」


 「…………いいえ。備品損壊の責任は、リリア様の底知れぬ魔力を見誤ったメフィスト様に帰結します」


 メフィストは、粉々になった水晶の破片を見つめ、ガタガタと震えながら笑い出した。


 「クク……クハハハハ! 流石だ! 流石はリリア様! 計測器ごときで測れるはずもなかった! 貴女の魔力は、もはやこの世界の法則を書き換えるレベルの深淵にある!!」


 (※実際は、魔力の出し方が分からず、全門開放状態でクッキーを念じたため、魔力が逆流」して壊れただけである。)



 「器が無限であることは証明されました。では、次に実技です」


 メフィストは、焼け焦げた白衣を着替え、新しい演習用のダミー人形を取り出した。


 「リリア様。基本中の基本、『ファイア・ボール』を試しましょう。イメージしてください。掌に、小さな……太陽のように激しく、全てを焼き尽くす炎の核を生成するのです。……さあ、どうぞ」


 「太陽なんて怖いです……。私は、マッチの火くらいで満足なんですけど……。えーと、えいっ」


 リリアは、先ほどの爆発で少しビビっていた。


 (……火は熱い。怖い。私は、冷たいものが好き。アイスクリームとか。冷えたミルクとか。……そう、冷たくて、静かな……)


 リリアが掌を突き出した瞬間。


 研究室の温度が、一気にマイナス50度まで急降下した。


 「……え?」


 リリアの指先から出たのは、可愛らしい火の玉ではなかった。


 それは、絶対零度の冷気を纏った超巨大な氷の塊だった。


 「ひゃっ!? 氷!? なんで!? 私、火を出そうとしたのに!」


 氷の塊は、リリアの無意識の魔力を受けて急成長を続け、ダミー人形を一瞬で粉砕。さらに、メフィストの秘蔵の研究資料、実験器具、そしてリリアの脱走を防止するための鉄製の扉までもが、一瞬でガチガチの氷漬けになった。


 「……あ、あ、あああ……私の30年分の研究データが……魔界最古の魔導書が……ダイヤモンドより硬い永久氷壁の中に封じ込められていく……!」


 メフィストが、氷漬けになった棚を抱きしめて絶叫する。


 「リリア様! なぜ『火』の呪文で『氷』が!? しかもこれ、神話級の凍結魔法ですよ!?魔神の吐息コキュートスすら超えている!!」


 「そんなこと言われても! 私、アイス食べたいなって一瞬思っただけです!!」



 研究室は、完全に極寒の監獄へと変貌した。


 セバスチャンは、氷漬けになった部屋の中で、リリアの肩に温かい毛布をかけた。


 「リリア様。火を出そうとして氷が出る。……これは、魔力が高いというレベルではありません。貴女の意思が、世界の魔素の属性を拒絶し、勝手に書き換えてしまっているのです。……つまり、貴女が熱いのは嫌だと思えば、火の魔法は氷の魔法へと反転する。……魔王としての、『絶対的なワガママ』が具現化していますね」


 「ワガママじゃないです! 安全を求めているだけです!」


 リリアは、凍りついたメフィスト(物理的に膝から下が氷に埋まっている)を見て、申し訳なさそうに身を縮めた。


 「メフィストさん、ごめんなさい……。あの、これ、ドライヤーとかで溶かせますか?」


 「……無理です。リリア様の魔力が込められたこの氷を溶かすには、恒星の核と同等の熱量が必要になります。……つまり、私の研究室は、今後一万年は『魔界最大の冷凍庫』として運営するしかありません……」


 メフィストは、氷の中で美しく保存された自分の論文を見つめ、虚空を仰いだ。


 「リリア様……貴女は、魔法を学んでいるのではない。……魔法という概念そのものを、今、破壊しているのです……」


 「本日はここまでにしましょう。メフィスト様の精神が、リリア様の魔力によって氷結してしまいましたから」


 セバスチャンが、震えるリリアを抱き上げる。


 「ですが、リリア様。明日は続きです。今度は、氷ではなく、せめて爆発しない程度の光を出せるようになりましょう。……でないと、城中の部屋が氷漬けになり、リリア様のパジャマが全てカチコチになってしまいますよ」


 「それは困ります!! 私のシルク100%のパジャマが凍ったら、私は一生、全裸で過ごさなきゃいけなくなります!!」


 「それはリリム様が喜びそうですね。……さあ、部屋に戻って、今日の大惨事という名の修行を振り返ってください」


 リリアは、後ろ髪を引かれる思いで(そして氷に足を滑らせながら)、壊滅した研究室を後にした。


 プラチナブロンドのあどけない魔王の背後で、メフィストの「なんて美しい絶望だ……!」という叫びが、氷の洞窟に虚しく響き渡っていた。

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