運の通帳

浜野アート

運の通帳

ある日、F氏は路地裏で奇妙な看板を見つけた。「運命銀行」。

好奇心から中に入ると、受付の男が恭しく頭を下げた。


「当行では、お客様の『運』をお預かりしております。日常の小さな幸運を我慢して預金すれば、利子がつき、将来に莫大な幸運として引き出すことができるのです」


F氏は興味を持った。彼は今まで、自分がいかに不運かを嘆いていたからだ。

「では、今から不幸を耐え忍べば、後でいいことがあるのだな?」

「左様でございます。嫌なことがあればあるほど、残高は増えていきます」


その日から、F氏の生活に対する感情は一変した。

道で転んでも「これで預金が増えた」と喜び、財布を落としても「素晴らしい積立だ」と笑った。宝くじが外れ、恋人に振られ、会社を解雇されても、彼は通帳の数字が増えていくことだけに生き甲斐を感じていた。


彼は、人生における全ての楽しみを放棄し、ひたすら不運と不幸を貯め込んだ。結婚もせず、友人も作らず、粗末なアパートで寒さに震えながら、ボロボロの服を着て過ごした。全ては、最後にとびきりの幸運を手にするためだ。


数十年が経ち、F氏は老人になった。

彼の通帳の残高は、天文学的な数字になっていた。もはや、これ以上の不幸など存在しないほど、彼は人生の苦汁を舐め尽くしていた。


「よし、満期だ。全てを引き出そう」


震える足で銀行へ向かうと、受付の男は変わらぬ笑顔で彼を迎えた。

「おめでとうございます。これほどの残高は、創業以来初めてです。直ちに、全額を『最高の幸運』として払い戻しいたします」


「それで、私は何になれるんだ? 大富豪か? それとも若返ることができるのか?」

F氏は期待に胸を膨らませた。


男は静かに首を振った。

「いえ、運というものは、確率の操作に過ぎません。お客様には、これから起きる出来事において、天文学的な確率を引き当てていただきます」


その直後だった。

空が突然赤く染まり、大地が激しく揺れた。ニュース速報が、巨大隕石の衝突と、それに伴う人類の滅亡を伝えた。パニックに陥る人々、崩れ去る建物、燃え上がる街。世界は瞬く間に地獄絵図と化した。


しかし、F氏だけは無傷だった。

倒壊するビルの隙間に奇跡的に入り込み、爆風は彼を避けるように吹き抜け、飛来する破片は彼の数ミリ横を通り過ぎた。


数日後。

灰になった世界で、F氏はたった一人、瓦礫の上に立っていた。水も、食料も、話し相手も、何一つ残っていない静寂の世界。


そこに、銀行の男が現れた。彼もまた、平然としていた。


「素晴らしい。人類が絶滅する確率は99.999...%。その中でただ一人生き残る確率、これこそまさに、お客様が貯めた全財産に見合う『究極の幸運』でございます」


男は恭しく一礼すると、煙のように消えた。


F氏は、空っぽになった通帳を握りしめたまま、どこまでも広がる荒野を見渡した。

誰一人いない世界で、彼は、人類で一番運が良い男として、これからを生きていかねばならなかった。

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