Epi.9-1: 凛の密かな楽しみ

美咲がいつものように部屋で日本酒を嗜んでいた。

すると、音もなくドアが開き、市松人形が顔をのぞかせた。


「あら、凛じゃない。どうしたの?」


美咲は優しく声をかけると、凛は難しい顔をしたまま答えた。

「美咲……今日も酔ってる?」


「酔ってないわよ! 失礼ね。

ほら、髪を梳いてあげるから来なさい」


美咲が道具を取りに立ち上がると、凛は音もなくドアを閉めてテーブルのそばに駆け寄った。




「あんた、着物がだいぶ汚れたわね」


全体的な埃を刷毛で払い、乾いた布で顔を拭く。

そうしたあと、髪を梳きながら美咲が声をかけた。

凛は返事をしなかったが、手足をリズミカルに動かしているあたり、喜んでいるようだった。


「新しい着物を用意しなきゃね」


一段落したところで美咲がスマホを操作し、凛に画面を見せた。

そこには市松人形用の着物が表示されていた。


「今のもいいけど、これなんかいいんじゃない?似合うと思うわよ?」


凛は画面を無言で見つめ、視線を美咲に移し「……いらない……」と素っ気なく答えた。


「その着物に思い入れがあるのね。じゃあ、クリーニングに出してあげるから、その間の着替えとして似たようなのを買うわね」


特に思い入れと呼べるものもなかったが、わざわざ話す必要もなかったので黙っていた。

凛の冷めた目線に気づかないのか、気にしていないのか、美咲は楽しそうに着物を選び続けていた。

――酒を飲む手を止めてまで。


「どうして構うの?」


――どうしても何も、自分からここに足を運んだのだ。髪を梳いてもらうために。

そう思ったが、すでに口からこぼれていた。


「んー? 娘がいたらこんな感じかなって」

美咲が優しく微笑みかけた。


「……人形なのに?」


「人形でもかわいがってる人はたくさんいるわよ。それに、あんたはこうやって話もできるし触れるんだから、人間に近いわね」


――そうなのだろうか?

凛は自身の過去を思い返してもこんな人間はいなかった。

少し動いただけ、少し声を発しただけ――それだけで手放されたことは何度もあった。


「さゆりとしのぶにも触れればね……」

そう言った美咲の表情は、凛からは寂しそうに見えた。


「……さっきの……青いやつがいい」


ぽつりと呟いた。


「あら、そうなの。似合うと思うわよ。

あと、髪飾りとかどうかしらね?」


「それはいらない……まだ……」


なぜ「まだ」をつけたのだろう?

凛は自分でも分からなかった。


「じゃあ、興味が出たらね」

美咲は上機嫌でスマホを操作していた。


「美咲……怪異にはもう慣れた?」


自分でも自分らしくないセリフだと思った。

他人を気遣うなど、以前の自分からは考えられないことだった。


「さゆりがみんなに言ってくれてるのかしらね?ほとんど出会うことはないわ。エントランスでたまに見かけるけど、気を使ってくれてるのか、すぐにいなくなるしね」


少し微笑んだが、その微笑みは自嘲のそれに姿を変えた。


「でもさ、それって私が生活してることによって、その子たちに不便を強いてるんじゃないか、とも思うのよね……」


凛は理解した。

美咲は他の怪異にも自由に過ごして欲しいのだ。

自分さえ良ければ良い、そういう人間ではない。

だから、自分のような人形にもこんな風に接してくれている。


「……そう。じゃあ『気を使わなくていい』と言っておく」


「そうじゃないわよ」

表情の消えた顔で凛を見据えた。


……何を言っているのだ?

まさに今、気を使わせていることを憂いていたではないか。

なのに、もう逆のことを言っている。


凛は確信した。

――やはり、この女は酔っている。

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