猜疑心

窓の外は相変わらず鉛色の空に覆われ、雨は一向に止む気配を見せない。


ガラスを滑り落ちる雨粒が、まるで涙のようにも、あるいは誰かの囁きのようにも見えた。


湿度をたっぷり含んだ空気が重い毛布のように教室全体を包み込み、薄暗い空間に生温い淀みを作り出している。


梅雨のじめじめとした不快感が肌にべったりとまとわりつき佐野愛の苛立ちを募らせた。


彼女の視線は無意識のうちに井川楓の背中に向けられていた。


楓はまるで周囲の音も光も遮断しているかのようにじっと机に向かっている。


その背中は普段よりも小さくひどく萎縮しているように見えた。


佐野は元々楓のことなど気にも留めていなかった。


楓は自分の世界の装飾にさえなりえない取るに足らない存在。


彼女の視野にすら入ることは滅多にない。だが最近の楓はどうにも奇妙だった。


ここ数日顔色は血の気を失ったように青白く、まるで夜通し悪夢に苛まれたかのように、常に目の下には濃い隈ができていた。


目は虚ろで授業中もノートを取るどころか、ぼんやりと一点を見つめていることが多い。


時折何かに怯えるかのようにびくっと体を震わせたり、突然何もない空間に視線を走らせたりする。


「何なのよ…」


佐野は内心で舌打ちをした。その無気力で陰鬱な雰囲気は、佐野が作り上げていた完璧なクラスの秩序にひどく不調和だった。


自分の支配下にあった空間に得体の知れない澱が広がっていくような不快感。


それが佐野の好奇心――というよりも、排除したいという衝動を掻き立てていた。


雛川小夜がいなくなってからこの学校は、ひいてはこのクラスはどこかおかしくなってしまった。


以前のような活気はなく誰もがどこか怯えているようにも見える。


まるで小夜の死が校舎全体に呪いのように染み渡っているかのようだった。


そして楓の奇妙な行動はその呪いの顕れのように佐野には思えた。


佐野は腕を組み長い爪を立てた指先が制服の袖を強く握りしめた。


楓の異常な様子は小夜の呪いの噂のせいだと、佐野の被害妄想は容易に結論付けた。


ひょっとして楓もまた小夜の幻影に取り憑かれたのだろうか?


あの何もかもを見透かすような虚ろな瞳で小夜はまだこのクラスに存在しているのだろうか?


そんな馬鹿げた考えが佐野の胸の奥底にじわりと冷たい油を垂らしていく。


佐野はちらりと周囲に視線を走らせた。取り巻きだった女子たちは、その目にはどこか生気がなく、会話もどこか心ここにあらずといった様子だった。


まるで操り人形のようにうわべだけの笑みを浮かべている。


誰もが何かに怯えている。だがその怯えの正体を誰も口にしない。


口にできない。それがまた佐野の猜疑心を増幅させた。


ひょっとしてこの子たちも小夜の呪いに触れてしまったのだろうか?


だとしたら自分はどうなのだ? 小夜を排除しようとした自分こそが一番最初に呪われるべき存在なのではないのか?


以前は圧倒的な自信に満ちていた佐野の心に、今は得体の知れない不安が渦巻いていた。


あの冷たい生気のない小夜の顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。


「まさか、私が……」


佐野は小さく呟き、喉の奥がひりつくような感覚に襲われた。


まるで魂を抜き取られるかの様な視線で見つめてくる小夜の幻影。


それは佐野の心の奥深くに拭い去ることのできない恐怖を植え付けていた。


自分が作り上げた完璧な世界の中心から自分が弾き出され、その中心に小夜の呪いが鎮座しているように思えた。


佐野はゆっくりと立ち上がり窓辺へと歩み寄った。曇りガラスの向こう、雨に霞む校庭には、誰もいない。


晴れの日は誰かしらが談笑しているグラウンドも連日の雨で生命の気配を失い、ただ雨に打たれているだけだ。


冷たいガラスに指先を押し当てると外の冷気と湿気が伝わってきた。


肌に張り付くような梅雨の不快感が一層強く感じられる。


「どうすればいいの……」


小夜の呪いをどうにかしなければならない。


そうしなければこの陰鬱な空気は永遠にこの学校を支配し続け、自分もその中に飲み込まれてしまう。


佐野の頭の中には様々な思考がごちゃ混ぜになって渦巻いていた。


だが具体的な解決策は何も見つからない。


物理的に小夜を排除することはできた。だがその残滓が、まるで毒のようにクラスを侵食し続けている。


目に見えない、触れることのできないものにどう対処すればいいというのか。


佐野はもう一度楓の背中を見た。


楓は依然として微動だにしない。まるで何かに囚われているかのように。その姿は佐野自身の未来を暗示しているかのようでもあった。


自分もいつかあのようになるのだろうか?


小夜の呪いに絡め取られ、魂を抜き取られた人形のように、ただ生きているだけの存在になってしまうのだろうか?


恐怖が佐野の胸の内でざらざらとした塊となって膨れ上がっていく。


この教室にいる誰もがもう昔の自分たちではない。小夜の死が全てを変えてしまった。 


そしてその変化の波は確実に、佐野自身にも押し寄せている。


彼女はこの状況から逃れたいと強く願ったが、その願いは梅雨の終わらない雨音にかき消されていくばかりだった。


佐野は膝を抱えるように座り込んだ。いつも堂々と振る舞っていた彼女が、まるで小さな子供のようにその場で小さくなっていた。


外の雨はさらに激しさを増し、窓ガラスを叩きつける音が佐野の鼓膜を直接揺らす。


全てが小夜の呪いのせいだ。佐野の心は得体の知れない恐怖と猜疑心で満たされ、この閉鎖された空間の中で出口のない迷宮に閉じ込められたかのような絶望感に苛まれていた。


彼女はもはや誰も信じられない。そして何よりもこの状況を作り出した自分自身を憎むしかなかった。


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