第1話 勇者枠、満席
透は、怒鳴られていた。
受話器の向こうで男の声が割れている。
通信障害、料金、担当者の態度、説明不足。
「お前が悪い」と結論を先に置き、そのための根拠を後から積み上げる話し方。
透は声の温度を下げ、要素を分解した。
原因、被害、要求。
怒りは乱暴でも、構造はいつも同じだ。
左手が無意識に机の角をなぞっている。
触れていないと、現実の輪郭が曖昧になる。
声に飲まれないための癖だった。
「申し訳ありません。状況を整理します」
言いながら、メモ帳にペンが走った。
書くつもりのない文字が、一行だけ残る。
勇者枠、満席。
透はペン先を止めた。
意味が分からない。分からないのに、書いた。
疲労のせいだと片づけようとして、眉間を指で押した瞬間――
モニターが一度だけ暗転した。
通信画面の中央に、見慣れない表示が浮かぶ。
404
「……は?」
声が漏れたのと同時に、耳の奥がぐらりと傾いた。
胃がわずかに浮く。
椅子の肘掛けを掴もうとして、手が空を切った。
世界が“引っ張られる”。
受話器が指先から滑り落ちたはずなのに、床に当たる音が遠い。
視界が白く滲み、喉の奥に鉄の味が立った。
落下ではない。
選別――そんな単語が頭をよぎる。
次の瞬間、足が硬い石に触れた。
膝が沈みそうになり、透は反射的に片手を床についた。
冷たい。ざらつく。掌に石の粉がつく。
その“質感”が、かえって現実味を増やした。
吸い込んだ空気が違う。
蝋燭の煤、鉄、古い布、湿った石。
肺の奥まで、知らない匂いが入ってくる。
透は、まず周囲を見た。
状況把握が先だ。恐怖は後から来る。
巨大な広間。
高い天井。左右に松明。赤い絨毯が玉座へ一直線に伸び、その両脇に甲冑の兵士が整列している。
――中世だ。
見て分かる。否定の余地がない。
視線が集まっている。
透はゆっくり立ち上がり、両手を少しだけ開いて掌を見せた。
意図がないという提示。
その合理性とは裏腹に、指先が微かに震えていた。
玉座には、王冠を戴いた男が座っていた。
五十前後。顔には疲れが刻まれているのに、眼だけが鋭い。
「召喚は成功したか」
低い声が石に跳ね返り、広間に響く。
透は言葉を飲み込んだ。
言葉が通じることが、背中を冷やした。
夢なら通じないはずなのに。
玉座の横に立つ老人――宮廷魔術師らしき者が、透を見て眉を寄せる。
手元の水晶板を撫で、焦ったように首を振った。
「……違う。勇者の波形ではない」
老人の声に、奇妙な確信が混ざる。
「発話魔力波形がA帯域に乗っておらん。座標が……ずれている」
王が眉を動かす。
「ずれた?」
老人は紙束を繰り、喉を鳴らした。
「勇者枠が……満席です」
透は反射的に息を止めた。
さっき自分が書いた言葉が、他人の口から出た。
脳が追いつかず、視界が一瞬だけ狭まる。
王の隣に控える文官が、淡々と読み上げる。
「現時点で召喚済み勇者、定員到達。
新規召喚は、既存勇者の安定化が完了するまで停止――」
王が肘掛けを叩いた。
「馬鹿な。世界が揺れている。勇者なしにどう耐える」
「耐えます」
文官は感情のない声で答えた。
「増やせば、さらに揺れます」
透はそこに“会議の匂い”を嗅いだ。
現場の悲鳴より、統制と数値を優先する言葉。
吐き気にも似た既視感がある。
王の視線が透に刺さる。
「では、こいつは何だ」
老人が、恐る恐る答えた。
「……代替です。
満席のため、召喚儀がフォールバックした」
老人は水晶板を見つめ、唸る。
「E帯域……異常波形。勇者ではない。だが――声の適性がある」
文官が続けて紙を掲げた。
魔法で刻まれたように整った文字。
召喚役職:苦情処理補助(クレーム係)
配属先:勇者療養院(安定化部門)
目的:発話由来の魔力不均衡の抑制
透は文字を追い、最後の行で視線が止まった。
発話。抑制。
仕事の言葉だ。職場の言葉だ。
その現実味が、この広間を本物にする。
王が顎で示した。
「連れていけ。勇者を壊す前に、使えるなら使え」
兵士が左右を固める。
甲冑の冷たさが腕に触れ、透は反射的に肩を引いた。
逃げたいのに、逃げ道を探す前に“従う動き”をしてしまう。
その自分の反応が、少し遅れて怖くなる。
広間を抜け、石造りの城内を進む。
鎧の擦れる音、遠くの鐘、湿った石の冷気。
透は心の中で環境要素を箇条書きにした。
――王権。軍。魔術。
――言語は通じる。拘束は最小限だが圧は最大。
――逃走経路未確保。武装差あり。
観察は現実逃避ではない。生存のための手順だ。
やがて城の一角、白い扉の前で止められた。
扉には控えめな文字が刻まれている。
勇者療養院
扉が開くと、空気が変わった。
薬草と消毒に似た匂い。壁は白く、光は柔らかい。
清潔で、静かで、眩しいほど整っている。
――整いすぎている。
透の背中に、遅れて鳥肌が立った。
「ここは檻ではありません」
白衣の男が現れ、淡々と告げる。
「勇者を守る場所です」
回廊の先、半開きの扉の向こうから低い声が漏れる。
「反応、低下。発話魔力、乱れています」
「遮断処置を。追加で」
透は一歩だけ前に出て、扉の隙間から覗いた。
寝台に男が横たわっていた。
鎧は外され、首元と手首に刻印。
目は開いているのに焦点が合っていない。
透は声が出る前に、質問を整えた。
「……喋れないんですか」
白衣が答える。
「正確には、喋らせていません」
「医療?」
「医療でもあり、魔法的処置でもあります」
白衣は迷いなく言う。
「勇者波形Aは世界に刺さる。希望なら正相で循環を安定させる。
しかし負の感情が声になると逆相になり、負魔素が漏れます」
白衣は言葉を切らず、続けて“揺れ”を定義した。
「“揺れる”というのは地震だけではありません。
結界が薄くなり、治癒が不安定になり、魔物が活性化する。
その余波で、人の心も荒れやすくなる――それをまとめて揺れと呼びます」
透は喉が乾くのを感じた。
理屈が通りすぎていて、腹が立つ。
「だから、声を……」
「預かっています。本人同意のもとに」
白衣は書類束を示した。署名が並んでいる。
言葉は丁寧だ。優しさの形をしている。
その優しさが怖い。
透は観察として言った。
「勇者なら、逃げられるはずです」
白衣は頷く。
「力だけなら、ここを壊せます」
「なら、なぜ」
「勇者は知っています」
白衣は少しだけ声を落とした。
「逃げて叫べば、世界が揺れる。自分の言葉で誰かが死ぬ可能性を、耐えられない」
透は勇者の喉元の刻印を見た。
そこに“医療”の顔をした拘束がある。
「逃げる者も、いますよね」
白衣は一拍置いた。
「ゼロではありません」
「国は、どうする」
「戦って捕まえるのではありません。叫ばせない」
白衣は淡々と言う。
「召喚紋は声の指紋です。波形は追跡できます。
そして逃亡者ほど負の言葉を漏らす。――世界が揺れるほど、見つけやすい」
透の喉が冷えた。
「回収は?」
「封声符と沈黙結界。鎮静。保護搬送」
白衣は書類束を指で揃える。
「国は“英雄を殴って連れ戻した”とは言いません。
“守った”と言います。事実、壊したくないので」
透は、言葉が牢の格子になっていることに気づいた。
逃げ道を塞ぐのは鎖ではない。
“世界のため”という語彙だ。
白衣が続ける。
「あなたの役割は、勇者が声を預ける前に、話を聞いて整理し、
世界を揺らさない形に落とすことです」
――クレーム係。
透の胃が微かに痛んだ。
職業適性で召喚された。英雄でも救世主でもない。
現実的すぎる理由。
「……なぜ僕なんです」
白衣は答えた。
「あなたはEです。世界と同期しない。だから刺さらない」
そして鏡のように淡々と続ける。
「ですが、あなたの声の癖は特殊です。
負の言葉を受け止め、分解して、温度を下げる。
それはこの世界では“負相の拡散を抑える波形制御”に近い」
透は思い出していた。
怒鳴り声を浴び、謝罪し、整理し、相手の言葉を別の形にする。
あれは仕事だ。習慣だ。
まさかそれが“召喚理由”になるとは。
「404は……」
白衣は短く頷く。
「本来のA受信が満席で弾かれ、代替ルートに落ちたコードです。
“いない”のではない。“いるのに入れない”。だから404」
透は息を吐いた。
笑えない冗談のように筋が通っている。
「……帰れますか」
白衣は一拍だけ間を置いた。
「制度上は可能です。
ただし、あなたが“安定化”に寄与した場合に限る」
条件付き。契約。
交渉ではない。
透は寝台の勇者をもう一度見た。
目だけが開いている。
拒否すれば、こういう人間が増える。
それがこの世界の“正しい運用”として進む。
そして自分は、この場を“見たまま”持ち帰れない。
観察者でいようとするほど、怯えが細い針になって胸に刺さる。
それでも透は言った。
「……分かりました。僕にできることがあるなら、やります」
言った途端、自分の声が石壁に跳ね返って戻ってくる。
その反響が、なぜか怖い。
白衣はほんのわずかに頷いた。
「では、苦情処理室へ」
透は歩き出した。
戻りたい。帰りたい。
そのはずなのに足は止まらない。
この世界では、言葉が人を救うのではなく、世界を壊す。
だからこそ、言葉を扱う仕事が必要になる。
筋が通りすぎていて、腹が立つほど――
納得できてしまった。
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