第2話 地獄の満員電車と、高嶺の悪魔

 逃げるようにして家を飛び出した。

玄関で見送ってくれた美咲の笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。愛嬌のある笑顔、と言えば聞こえはいい。だが、今の俺の目には、締まりのない顔でニタニタと笑う小太りの女性にしか見えなかったのだ。口の端には、乾いたよだれの跡までついていた。


「……嘘だろ。美咲は、もっとこう、天使みたいな……」


 俺は自己嫌悪で吐きそうになりながら、駅への道を急いだ。


 昨日までは、この通勤路も「ランウェイ」だった。すれ違う人はみな、モデルのようにスタイルが良く、肌はアプリで加工したようにツルツル。近所の田中さん(60代)でさえ、チップの補正によってロマンスグレーの紳士に見えていたはずだ。


 だが今はどうだ。背中の曲がった老人、目ヤニがついたままの学生、顔色が悪く死にそうなサラリーマン。街全体から色彩が失われ、生々しい「寝起きの人間」たちが蠢いている。


 駅前の巨大ビジョンが、いつものように輝いていた。そこに映し出されているのは、政府広報のCMだ。


『世界はもっと、美しくなれる。脳内インプラント"アイ・レンズ"』


 白々しいキャッチコピーと共に、美しい男女が微笑み合う映像が流れる。国民への装着が義務化されてから、もう三十年近く経つだろうか。俺たち二十代は、物心ついた時からこのチップを通して世界を見ている「ネイティブ世代」だ。


 視覚野に直接干渉し、他人の容姿を「所有者の好ましい形」に補正する技術。  このチップのおかげで、人類はルッキズムから解放された――はずだった。誰もが美しく見えるから、誰も容姿に悩まない。化粧なんて前時代の文化は廃れ、ダイエットも美容整形も意味を失った。だって、何もしなくても、相手の目には「最高に美しく」映るのだから。


「……最悪の副作用だな」


 俺はビジョンの下で大あくびをしているOLを見ながら、毒づいた。チップが壊れてわかったことがある。人間は、見られる緊張感を失うと、ここまで堕落するのか。


 彼女の口元には、うっすらと産毛――いや、ヒゲが生えていた。見えていないから、手入れもしないのだろう。当然だ。今の日本で、鏡を見ながら眉毛を整えたりムダ毛を処理したりする奴なんて、よほどの変人しかいない。


 本当の地獄は、電車の中にあった。満員電車。昨日までは「美男美女の園」だった車内は、いまや「身だしなみを放棄した野生動物の檻」と化していた。


 ボサボサの髪。あちこちから伸び放題の、眉毛、鼻毛、ヒゲ。毛穴の黒ずみまで鮮明に見える。視覚情報と、顔の良さで昨日まで気にならなかった隣の男の加齢臭がダイレクトに脳を揺らす。


「うぷっ……」


 俺は口元を押さえ、必死に胃液が逆流するのを堪えた。早く、早く会社に着いてくれ。会社に行けば、美咲もいないし、この密室からも解放される。それに、うちの部署には……そう、少なくとも営業職だ。身だしなみには気を使っている連中が多かったはずだ。


 三十分の拷問のような通勤時間を耐え抜き、俺はオフィスビルの自動ドアをくぐった。エレベーターで二十五階へ。営業部のフロアに足を踏み入れる。


「おはようございまーす……」


 力なく挨拶をする俺に、返ってきたのは罵声だった。


「遅い!」


 鋭い声が飛んでくる。ビクッとして顔を上げると、仁王立ちしている女性の姿があった。


 西園寺(さいおんじ)麗華(れいか)。俺の同期であり、営業成績トップのライバル。そして、俺がこの世で最も苦手とする「性格ブス」の女だ。


 彼女はいつも高圧的で、ミスをした俺を徹底的に論破してくる。チップ越しの彼女の顔は、性格のキツさが反映されたのか、いつもケバい厚化粧の意地悪そうな顔に見えていた。だから俺は、彼女の顔を見るのも嫌だったのだが。


「ちょっと高坂、聞いてるの? 今日の会議資料、まだコピー取ってないわよね?」


 カツカツとヒールを鳴らして、彼女が近づいてくる。俺は、息を呑んだ。


「…………え?」


 思考が停止した。そこに立っていたのは、さっきまでの「堕落した人類」とは、明らかに別次元の存在だった。


 透き通るような白磁の肌には、一点のシミもくすみもない。眉は完璧なアーチを描いて整えられ、長いまつ毛が大きな瞳を縁取っている。髪は丁寧にブローされたのか、天使の輪が輝くほど艶やかだ。服装も、周りの社員がシワだらけのシャツを着ている中で、彼女だけがパリッとしたブラウスを完璧に着こなしている。


 美しい。いや、そんな安っぽい言葉では足りない。今までチップが見せていた「人工的な理想像」すら霞むほどの、圧倒的な造形美。そして何より、そこには確かな「意思」があった。美しくあろうとする、高潔な努力の跡が見えた。


「なにボケっとしてんのよ。気持ち悪いわね」


 彼女は眉をひそめ、ゴミを見るような目で俺を見た。その冷ややかな視線ですら、背筋がゾクゾクするほど艶めかしい。


 どういうことだ。誰もが努力をやめ、ブサイクになったこの世界で。俺が一番嫌いなはずのこの女だけが、なぜか輝いて見えるなんて。

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