ダメな王子さまの躾け方

零壱

ダメな王子さまの躾け方








「婚約を解消するわ」


いよいよ結婚式まで一年を切ったある日。

婚約者との週に一度の茶会で、私はそう、切り出した。

今の今まで言わなかった言葉だ。

公式の場ではないけれど、口に出した以上後戻りはできない。そして、する気もない。

表には出さないように、頬の内側を噛んだ。私だけはこの婚約者を許してはいけないのだ。


「……理由を、聞いても?」


返事はひどく硬い声だった。

普段の朗らかさはまったくなく、低い分だけ聞き取りにくい。


「あなたが一番よくわかっているはずだけれど?」


私はカップを手に取り、一口含む。

好きなダージリンであるのに味がしない。すぐにソーサーに戻した。


その間、婚約者は何も言わない。

答えを期待していたわけではないから、それでも構わなかった。

私は視線を外し、周囲を眺める。


我が公爵家自慢の中庭は、表門の反対側にある。毎回私と婚約者、そして周りに控えたそれぞれの従者のみの、静かな空間だ。

五歳の時に婚約が結ばれてから十三年。

一度も欠かしたことのない二人きりの茶会は、天気が悪くなければいつもここだった。


色鮮やかな花々は季節ごとに咲くものが違う。ここは冬が来ても鮮やかだ。

その移り変わりが好きで、今日は天気も良い。

だからいつも通りに中庭にしたけれど、室内の方が良かったかもしれない。ほんの少し冷えてきた空気に短く息を吐き出す。


襟周りの閉じた濃紺のワンピースは厚手でも、冬を迎えようとしている今時分には足りなかったようだ。

羽織っているショールをそっと引き寄せる。

金色の刺繍が施された、ヴェールのような繊細な布だ。爪が引っかかってはいけない。


と、そこまで考えて眉が寄った。

この国にはない品種を多く抱く花壇。

そしてワンピースにショール。

そのすべてが、この婚約者からの贈り物だと思い出したからだ。


「オリィ」


襟足をすっきりと整えた金髪がふわりと揺れる。

かたりと椅子が鳴り、婚約者が立ち上がった。


「中で話そう。風邪を引いたらいけない」


白いジャケットから不器用に腕を抜いたと思えば、私の肩に羽織らせる。先程とは打って変わった柔らかな口調だ。

伝わる温もりに安堵しそうになり、視界に入った左肩にグッと眉間に皺を刻んだ。


シャツにベスト。

その生地はけして薄くなく不自然さもないけれど、その下にあるものに気づかない愚か者などとみくびられては堪らない。


「ここでいいわ。すぐに済むもの」


屋敷には父や母、そしてこの婚約者を義兄と慕って止まない弟がいる。

家族のことは愛している。

でも、誰もがこの婚約者の肩を持つのだ。

あれこれ宥められて曖昧にされるのはもう真っ平だった。


(惚けさせたりしないわ)


テーブルの下、膝の上で拳を握る。

隣を見上げようとするより早く芝生に片膝を着いた影に、思わず詰まった。


「昨日の夜会を欠席したことを怒っているのなら謝る。だから中に入ろう?」


白い手袋を嵌めた指がそうっと私の指を掬う。

そしてそこに触れる、唇。

同じようにグローブを着けているから、肌には触れていない。いないのに、カッと頬が熱を持った。


「オリィ、お願いだ」

「ッ、」


上目遣いは、卑怯だ。

私は勢いよく顔を逸らした。


この婚約者は国一番と誉れ高い美丈夫なのだ。

男らしい顔立ちで、背はすらりと高い。

日常的に剣術を嗜む肉体が見た目ほど痩せてはいないことを私は知っているが、垂れ目であるせいか雰囲気が中性的だ。


一つ下の弟と共に参加した昨夜の夜会で、口元の小さな黒子が大変にいかがわしいと話していたのは一人や二人ではなかった。

この優しげな美貌に微笑まれ、身を崩しかけた男女がどれほどいることか。


おかげで私まで護身術に精通してしまった。

この婚約者目当ての不埒な輩に、常に一緒にいた私もひとまとめにされ拉致されかかることが多かったからだ。見えていない護衛が山ほど配置されていた為に、実害には遭っていないけれど。


「お嬢様……」


控えめにかかった侍女の声に、流れかけた思考を止める。

ここでこの顔に意識を奪われては思うツボだ。

私は手を引き、絶対に触らせない意志を示すためにショールを握り直した。


「気安く触らないで。わたくしは婚約を解消すると言ったのよ」

「オリィ、聞いてくれ。俺は」

「言い訳は結構だわ」

「…………」


ぴしゃりと切り捨てる。

目の前の顔から表情というものが抜け落ちたが、問題ない。これもこの狡賢い婚約者の常套手段だ。皆が皆、その微笑みを期待して持ち上げるものだからこういう小技を覚えてしまった。


「(駄目!駄目ですオリヴィア様!止まって!)」


婚約者の後ろ、彼の侍従が必死に口を動かしているのが見えた。

彼の侍従だが、私の従兄弟でもある。だからこその馴れ馴れしさだ。

知ったことかと思う。

私の侍女からネタは上がっている。侍従も共犯だ。

私はより一層の冷ややかさを意識して、二人を見据えた。


「ご存知ないなら教えて差しあげるわ、アレックス殿下」


わざとらしく突き放すと、オリィ、と婚約者───アレックス第二王子が掠れた呟きを落とす。

行き場を見失った白い手袋が、弱々しく握られた。


(そんな小手先に負けないわ)


今日という今日は誤魔化されたりしてやらない。

腹に力を込めた。


「騎士団長様から聞いたのよ。騎士達があなたを取り合って任務に支障が出ているらしいじゃないの」

「……」


父と同級の騎士団長は立派な方だ。

弱きを助け強きを挫く。

私が知る限り騎士達も皆素晴らしい男達であったはずなのに、何故道を誤っているのか。びくりと震え、俯いた婚約者のせいだ。


「それに、我が家の使用人たちが日替わりで休暇申請を出してきて仕事にならないわ。連れ出しているのはあなたでしょう」


朝早くからコソコソと出掛け、髪や衣服が乱れた姿でまたコソコソと帰って来る。

私と会うと白々しく言い逃れをするけれど、その服から漂う香水はこの婚約者が愛用しているもの。

目の前の男は着いた膝の上で、手袋に皺ができるほど強く拳を握った。


「昨夜はお楽しみだったのでしょうね?夜会に欠席したと思えば、郊外で馬鹿騒ぎだもの」


青い顔をした執事と侍女が届けてくれた、今朝の新聞。

紙面をデカデカと飾った婚約者の姿に、三年耐えていた堪忍袋の緒がついに切れた。


何度も釘を指してきた。

その度にこの男はもうしないと約束し、その舌の根も乾かない内にまた破る。

私はもう、耐えたくなかった。


「これで婚約解消されないとでも思っているの?」

「オリヴィア、聞いてくれ。俺は……ッぅ……!」


立ち上がろうとした婚約者の左肩を掴む。

強い力ではない。

軽くだったけれど、彼は呻き、その場に両膝を着いた。


「オリヴィア様!鬼畜ですかあなたは!」


駆け寄って来たのは婚約者の侍従だ。

私を睨みつけながら、じわりと血が滲み始めた肩に顔を青くしている。


「止めろ、オリィは悪くない……」

「えぇ、わたくしは悪くないわ。悪いのは約束を破るあなたよ」


寄って来た侍女から清潔な布を受け取る。

それを傷口へそっと宛てながら、脂汗を滲ませている婚約者に言い放つ。

指先がみっともなく揺れるのを、グッと奥歯を噛んで堪えた。


「……魔物を駆除して回るのは止めるって約束したはずよ。守れないなら婚約解消だとも」


様子を伺っていたのだろう。

控えていた老医師がゆっくりと歩み寄って来て、婚約者の横にしゃがみ込んだ。その横顔の険しさに胸が騒ぐ。血が、真白いシャツをどんどんと汚していく。


騎士達はこの婚約者と並び立って魔物を屠ることに喜び、過保護な使用人たちは私に万一があってはならないからと、出没場所を案内する。

夜に活性化する魔物のせいで、夜会や晩餐会を欠席されたことも一度や二度じゃない。


翌日になって詫びをしに訪れる婚約者はいつだって青白い顔だ。

いつもいつもそんな顔で、私の前では笑うのだ。


「公爵家は魔の森が近すぎるだろう?」

「我が家にも騎士はいるわ。第二王子のあなたが身を挺して狩り回る必要はないの」


何度も繰り返してきた言葉。苛々する。

けれど込み上げた怒りは長くは持たなかった。

侍従と医師により露わになった傷の深さは、想像以上だったのだ。ヒュッと息を呑む。


ざっくりと抉られたような、真新しい傷口だった。

無理やり包帯で止血しただけの雑な処置しか施されていない。


「グリフィンの爪痕ですな。王宮医師に診せなかったのですか」


医師の声には責めが滲む。

婚約者は気まずそうに眉を下げた。


「そうしたら大袈裟に閉じ込められるだろう?オリィとの茶会を欠席するわけにはいかないから」

「アレックス、あなたという人は……!」


大袈裟なものか。

私はいよいよ我慢ならなくなった。


魔物が出たと聞けば夜会は平気で欠席するくせに。

毎週の茶会など、他愛もない話をするだけなのに。


立ち上がった拍子で椅子が倒れたが、構ってなどいられない。


「怪我をしたなら治療を受けてとも言っているでしょう!何度約束を破れば気が済むの!?」

「俺はただ、君に会いたくて」

「会いたい!?笑わせないで!」


肩にあったジャケットを足元に叩きつけた。

令嬢としてはあるまじき行為にか、目の前の男が僅かに怯んだ。


「そんな顔色で会いに来られたって迷惑だわ!」

「……ご令嬢には、酷な傷ですぞ」


援護は老医師だ。

公爵家お抱えで、私たちは揃って昔から世話になっている。いつもはこれで反省した素振りを見せる婚約者に私が折れて、終わり。

でも今日こそ許さないと滲む視界で睨めつけたら、婚約者は秀眉を寄せた。


「わかってるよ、そんなこと……!」


医師の手を払い、声を上げる。

立ち上がって私を見下ろす顔は怒っているようで、驚きに瞬いた瞬間涙が溢れた。泣きたかったわけじゃない。この婚約者が声を荒げた姿など、見たことがなかったから。


「わかってるんだ、君に心配をかけているのは。でも怖いんだ。君が魔物に攫われたらって……!」


悲痛が滲む声に続き、私を引き寄せ閉じ込める腕。

呆れ返った息は老医師か、私の侍女か。

それとも私が吐いたのだろうか。

力強い腕と布越しに届く心音に気を取られ、頭が上手く働かない。


「……魔物は、人間を攫ったりしないわ」

「人間は攫わなくても妖精は攫うかもしれないだろう!?」


傷に障らないようにと腕を押す。

びくともしない。


「アレックス、わたくしは人間よ」

「こんなに可愛らしい人間がいるものか!」

「アレックス」


(本当に、この人は……)


これを真顔で言っているのだから頭が痛くなってくる。

背の高いこの男と並び、肩より高い位置にある私の目線。

護身術を習い続けた身体も華奢とは程遠く、日焼けを恐れず婚約者と駆け回っていたせいでそばかすだらけの顔。

美しい母よりも厳しい父に似た顔立ちは不美人とまでは思わないけれど、特別綺麗なわけじゃない。母似の弟の方がよっぽど可憐だ。


それを妖精だなんて、贔屓目にも程がある。

身じろぎを諦めた私に、アレックスの侍従が身を乗り出して来た。


「オリヴィア様、一体何がご不満なのです!殿下はこんなにもあなたに尽くしていらっしゃるではありませんか!ご婚約者なら労わるべきでしょう!」


この侍従とも長い付き合いだが、呆れてものが言えない。主人が主人なら侍従も侍従だ。

呆気に取られた私に代わり、ずいっと横に並んだのは侍女のメアリ。


「お嬢様にそのような口を聞かれるとは、あなたこそどのような神経をなさっているのですか?大体、主人の無茶を嗜めるのは私どもの勤めでしょう。それをせずに一緒になって怪我をして」


侍従が一歩たじろいだ。

重心がおかしいから、怪我をしたのは右足かと納得する。


「あなた、魔物狩りではないと言いましたよね?」

「め、メアリ、それは……!」

「言い訳は結構です」


私と同じく婚約者を跳ね除けたメアリと目が合った。強く頷き合う。私たちはこのダメな婚約者たちを許してはいけないのだ。

ましてやぎゅうぎゅうと抱き締められ、髪に鼻先を埋めて匂いなどを嗅がれてはならない。私は婚約者の顔面を全力で押し返した。


「やめなさい」

「オリヴィア、オリィ、愛する君を守りたいだけなんだ」


匂いを嗅ぐのをやめたと思えば、片手で頬を包まれ覗き込まれる。

今にも決壊しそうに揺れる瞳に、グッと眉根を引き寄せた。

自分のせいで侍従がフラれそうなのはどうでも良いらしい。本当に、自分勝手でどうしようもない。


「駄目よ。約束は約束よ。思いつきで周りを振り回して、魔物駆除三昧。剣聖なら何しても良いと思っているの?」

「そんなことは」

「思っていないだなんて言わせないわ。あなたはそういう立場なんだから」

「………」


唇を結び、項垂れる。

私の肩に額を押し付けて、心配なんだと言い訳ばかり。

その横では老医師がせっせと手当を進め、いつの間にか離れたメアリの後を半泣きの侍従が追っているが、私はあえて見ないことにした。


傷とは逆側で私を閉じ込める腕。

シャツから片腕を抜いた肉体は逞しく、私だって鍛えてきたはずなのにちっとも敵わない。


女と男。

身体の作りが違うと言われればそれまでだけれど、すぐに無茶をするこの人を守るだけの力がない弱いこの身が、憎たらしい。


昔から鍛錬に勤しみ、怪我をしても泣き言ひとつ漏らしたことのない婚約者だ。

その努力が生半可なものでなかったことは、誰よりも近くで見て来たから知っている。


でもその剣を奮うのは民の為ではないのだ。

私の為。

私を守る為ならば、この婚約者はどんな痛みも厭わない。それでは駄目なのだ。

今だって力を入れては痛いだろうに、傷を気にせず私ばかりを構う。私の方が痛くて、瞼を伏せた。


「……アレックス、わたくしはあなたが好きよ」

「オリヴィア……!」

「だから、婚約を解消するの」


パッと上がった顔から目を逸らさずに宣言する。

これ以上そばにいたらきっといつか、取り返しのつかないことになる。

私はこの考えなしで約束破りのどうしようもない男を、失いたくはない。

引き裂かれそうな胸には蓋をして、私は再び肩を押した。


「……離してちょうだい」


やはり、びくともしない。

もう少し力を入れる。


「アレックス」


逆に私の腰を抱く力が強まった。


(わたくしが、どんな気持ちで言っていると……!)


神妙だった内心は苛立ち、顔を上げた瞬間に唇を塞がれた。

騒いでいたメアリと侍従の声が掻き消え、老医師が肩を竦めて離れていく。


「んん!んーーー!」


遠慮なく胸板を叩く手首は簡単に囚われた。

私たちは長く婚約しているが、未婚だ。唇同士が触れ合っているだけだとしても有り得ない。


私は全力で、それはもう必死で、渾身の力を振り絞り右手の拘束を解いた。

パァンと乾いた音が鳴る。


「最低……!」


(ファーストキスを!公衆の面前で!!)


ムードも何もあったものじゃない。

この男は本当に、美しくて繊細なのは外見だけだ。

抜けそうな腰を叱咤しながら、赤くなっていく頬を睨み上げた。


「……好きだ、オリヴィア」

「好きなら何をしても良いと思っ!?」


昏い目をした男の、怪我をしていない方の肩に担ぎ上げられ、言葉が途切れる。


「で、殿下!さすがにそれは不味いと思いますが!」

「旦那様をお呼びして!!」


慌てふためく侍従とメアリに構わず歩き出す先は、婚約者が乗って来た馬車方面。

私は容赦なく暴れ、背中を叩く。

まったく堪えていないようで、足は止まらない。


「下ろしなさいったら!」

「君と結婚出来ないなら嫌われた方がマシだ。このまま俺の宮に閉じ込めて……あぁ、そうしたら魔物を気にしなくて済むし、ちょうどいいじゃないか」


ぶつぶつと呟く声は淡々としていた。

その内容に、ふと瞬く。

何度言っても聞かなかったこの男が、魔物を気にしないと口にしなかったか、今。


「………アレク、聞きたいのだけれど」

「うん?」


騒ぎを聞きつけて屋敷から駆け出して来た父が、般若の形相で追って来ているのを眺め、私は人攫いに向けて疑問を投げる。


「わたくしがあなたの宮にいれば、あなた、安心するの?」

「当たり前だろう?」

「公爵領を駆けずり回って魔物狩り尽くそうとしたりしない?」

「君に危険がないなら生態系を崩すようなことはしないよ」


(なんで気が付かなかったのかしら)


私は神妙に頷いた。

この婚約者は馬鹿なのだ。

見た目に反して脳みそまで筋肉が詰まっている。


「私の娘を!!下ろしていただきたい!!!」


追いついた父と決死の表情をした我が家の騎士の総勢五人が、周囲を囲んで剣を抜く。

ようやく足を止めるかと思った婚約者は、私をしっかりと担ぎ直した。


「婚前の無体、いかに殿下といえど許されませんぞ!!」

「……今日結婚すればいいだけだろう?」


真っ当に憤る父を振り返り、するりと右手で剣を抜く。

魔物=私を攫うという思考回路からして察して余りあるものがあるが、心底から考え方が狂っていると思う。


(なんだか疲れたわね)


こうなっては手足をバタつかせるのも無意味だ。

私は力なくダラリと垂れ下がった。


睨み合い、緊張感漂う庭で。

アレックス様と素っ頓狂な悲鳴をあげたのは間抜けな侍従だった。

だからこの男に帯剣を許すなとあれ程口煩く言ったのに、話を聞かないからこうなる。


父がきっとどうにかしてくれるだろう。

この暴走男が落ち着いたら縛り上げて念書を認めさせようか。


そんなことを考えていた私の耳に、場にそぐわない軽やかな笑いが響いた。


「いくら義父上でも、俺のオリヴィアを奪うおつもりでしたら手加減できませんよ」

「やめなさい。舌を噛み切るわよ」


私は無感情に言った。

いくら父とて剣聖を相手にしたら死ぬ。


騒ぎは一瞬でおさまった。








「無理ごめんなさいもうしないお願い捨てないで死なないで」

「…………」


場を暖かな室内に移した。

私の身体を横抱きにし膝に座らせ、号泣する男。

拭っても拭ってもボタボタと涙が溢れてキリがないと、私は呆れ果てていた。


そしてまだ庭にいるメアリと侍従に代わり、ニコニコと機嫌の良い弟とその侍女がいる。

危険な発言しかしない男と二人きりにするわけにはいかないのはわかるけれど、アレックス贔屓の弟じゃ役に立たないのではないか。

私は何度目かわからない溜め息を吐いた。


「アレックス、離してちょうだい」

「むり」

「アレックス」

「むり。なんでアレクって呼んでくれないんだ。むり。つらい」


(この駄々っ子……!)


私は小柄ではないけれど、背が高くて筋肉質な身体でぎゅうぎゅうと抱き締めてくるのだから苦しくて堪らない。肩の怪我にだって障るだろう。

苛立つ私に、ソファに座っている弟が笑みを深めた。


「姉上、もう許してあげたら?義兄上も反省なさってるよ」

「お黙り」


そうやって周りが甘やかすからこの婚約者はいつまでも成長せず、同じ過ちを繰り返すのだ。

私に睨まれた弟は肩を竦め、口を噤んだ。


社交界の華、アレックスの真実の愛の相手。

そんな風に噂されては嘲笑う嫌な性格をしている弟だが、中身はただのシスコン、ブラコンだ。

いずれ公爵家を継ぐのだからいい加減に姉、義兄離れをして、自分の婚約者の令嬢を労われと思う。私の周りの男はこんなのばかりだ。碌でもない。


「うぅ、オリィ、今日結婚して。好きなんだ、君だけ愛してるんだ」

「……はぁ」


頬を伝う涙にハンカチを押し当てながら、私は何度目かわからない溜め息を逃した。

びくりと身体が跳ねる。

この婚約者が私を骨の髄から愛し依存しているのは、身に沁みている。そうなった理由もわかっている。


兄の王太子殿下は子どもの頃、随分と身体が弱かった。その上、婚約者の二年後に可憐な姫が誕生した。

両陛下や周囲は王太子殿下と姫殿下に構いきりで、この婚約者はしばらくの間放置されてしまったのだ。いや、正しくは教師や侍女はついていたのだが、その人選があまりにも良くなかった。


第二王子は両陛下に見放された不要な存在だと解釈した不届者たちは、与えられた予算を横領し、婚約者を鞭打った。

理由などない。

ただの腹いせだ。


茶会で会った婚約者が不自然に背中を庇うのに気がついた私が叫び、父に泣き喚いて訴え、すべてが発覚したのだが。


その頃にはこの男は私以外を信じることをやめてしまっていて、両陛下との溝も埋まらないまま今に至る。

付き従っている唯一の侍従は私の従兄弟。

アレックスは、宮に使用人を置いていない。

背中の傷は綺麗に消えても、心に負った傷は一生ついて回るのだ。


そういった事情があるからこそ、私を失うことを過度に恐れて暴走する。

けれど怖いのはこの男だけじゃない。

私だって恐ろしいのだ。

盲目で純粋なこの男が私のせいで死んでしまいそうで、だから離してあげたいのに。


「オリィ……」


はらはらと泣く男に、今日こそはと奮い立たせた決意が崩れていく。

私は結局、婚約解消をする気などないのだろうと他人事のように納得した。


「アレク」


両手で頬を包む。

額を合わせると、アレックスの金髪に私の金髪が混ざった。

私の方が少しだけ色が薄い。そんな風に見比べられる位置に、ずっといたい。


「一人で暴走しないで。駆除するなら、お父様と騎士団長に必ず相談すること。怪我をしたならきちんと治療を受けること。……今度こそ、約束できるかしら?」

「する」


即答だ。

いつだって返事だけはいいのだ、この婚約者は。

その返事がまったく信用できないことは痛感しているから、私は目を細めて言葉を重ねる。


「次に破ったら私、目の前で死んでやるから」

「オリヴィア!」


わかりやすく顔色を変えた男に、なるほど最初からこう言えば良かったのかと今更知った。


「神父様に誓ってちょうだい。一生私を大切にするって。もう二度と、約束を破らないって」

「っ、誓う!誓うよ、オリィ……!」

「苦しいわ、離して」


駄目な男が容赦なく私を抱き締めるものだから、せっかくのワンピースもショールも涙で濡れてしまっているじゃないか。

気に入っているのにと眉を寄せながら背中を撫でていたら、密やかな笑い声が響いた。もちろん弟だ。


「姉上、義兄上、ご結婚おめでとうございます。すぐに神父様を拉致……お呼びしますね」

「丁重によ。攫うんじゃないわよ!」

「わかってますって」


鼻歌混じりに出て行った背中に嫌な予感しかしないけれど、動けない私は神父様の無事を祈るしかない。

剣聖に憧れる弟は小柄で華奢だが、その分敵を一撃で屠る技に長けているのだ。


二人目の問題児を見送り、残った侍女は私たちを見ている。

両手を組んで目を輝かせる様は実に素直で、可愛らしいけれど。


(暢気なものね)


公爵家だけでなく、この国の妙齢の女性たちは口を揃えて私が羨ましいと言う。

この惨状を知らないわけでもあるまいに、溺愛だとかいう甘ったるい幻想が崩れない理由が知りたいと常々思っている。

外見や剣の腕前以外に、アレックスに良い部分などあるだろうか。否、無い。


疑問が募り、耐えられなくなった私はいつだったかメアリに聞いたことがある。

乙女心はわからないと真顔で返された。

彼女は信頼できる。


「オリヴィア、俺の妖精。愛してる。本当にほんとうに、愛してる」


涙でぐしゃぐしゃになった顔がゆっくりと傾く。

髪の毛先程も信用ならないが、とりあえず、約束を守るという言質は取った。


(誓いが終わったら念書も書かせなきゃ)


私はこの婚約者を心から愛している。

けれど、散々約束を破られた恨みつらみは簡単には消えないのだ。

安心させる為に一年も婚姻を前倒しにすることを受け入れる分、徹底的に守らせてみせる。


「……仕方ない王子さまね、あなたは」


そうっと重なろうとした唇を、指先で止めた。

長い睫毛が涙に濡れて、綺麗だ。

オリィと懇願する声は非常に甘く、何故だか腰がぞわぞわとし、鼓膜に良くない。しかし雰囲気は良い。少なくとも先程のよりは、ずっと良い。


ファーストキスの記憶を都合良く改竄するには打って付けだったが、躾けには飴と鞭を提示しておくことが重要だ。

私はとびきり優しく、口を開いた。


「ちゃんと守るなら、毎日キスしてあげるわよ」

「……まもる……」


アレックスは涙を引っ込め、ほわりと頬を赤らめる。

この男の情緒はどうなっているのだろう。

そんな風に内心で呆れながら、後頭部を引き寄せる。

唇が触れ合う直前。


「大好きだよ、オリヴィア」


花のように笑った婚約者に、それは私の役目だと眉間に皺が寄った。

顰めっ面のファーストキスも、当然ノーカウントだ。







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