第二話 優しすぎる君の、残酷な答え
日曜日。空は突き抜けるように青く、絶好のデート日和だった。しかし、私の心は、その青空とは裏腹に、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。
「詩織、このポップコーン、キャラメル味でよかったよな?」
隣を歩く炎堂隼人が、大きなポップコーンのLサイズカップを抱えながら、馴れ馴れしく話しかけてくる。私は、ただ曖昧に笑って頷いた。
「うん、ありがとう」
湊を嫉妬させる。その一心で、私は炎堂を映画に誘った。彼は二つ返事で了承し、今日、こうして二人で駅前のシネコンに来ている。湊には「友達と買い物に行く」と嘘をついた。スマホにメッセージを送るたびに、胸の奥がちくりと痛む。でも、これも全部、湊のため。私たちの未来のためなんだ。そう自分に言い聞かせる。
映画が始まった。流行りの恋愛映画だったけど、内容は全く頭に入ってこない。スクリーンに映し出される主人公カップルの甘いやり取りを見るたびに、私の頭に浮かぶのは湊の顔ばかりだった。
湊と初めて映画に行ったのは、いつだったっけ。中学生の時、ヒーロー映画で、興奮した湊が子供みたいにはしゃいでいたっけ。付き合い始めてからは、二人でホラー映画を見て、私が怖がるたびに、彼がぎゅっと手を握ってくれた。その手の温かさを思い出して、不覚にも涙が滲みそうになる。
「なあ、この主人公、俺に似てね?」
隣から聞こえてきた炎堂の囁き声で、私は現実に引き戻された。スクリーンの中の爽やかなイケメン俳優と、目の前の自意識過剰な男を比べて、思わずため息が出そうになるのを必死にこらえた。
「……そうだね」
適当に相槌を打つと、彼は満足そうに鼻を鳴らした。映画が終わるまでの二時間、それは私にとって拷問に近い時間だった。彼の自慢話、他の女子生徒の噂話、どれもこれも退屈で、早くこの時間が終わってほしいと願うばかりだった。
映画が終わり、私たちはショッピングモールをぶらぶらと歩いていた。炎堂は「なあ、あそこのカフェ行こうぜ」とか「この服、俺に似合うんじゃね?」とか、絶えず話しかけてくる。その度に、私は頭の中で湊と比べてしまっていた。
湊なら、「詩織、疲れてない?少し休むか?」って、先に私のことを気遣ってくれる。
湊なら、「その服、詩織に似合いそうだな」って、私のことを一番に考えてくれる。
比べるまでもない。私にとって、世界で一番素敵な人は藍月湊だけだ。その事実を、こんな男とのつまらないデートで再確認するなんて、皮肉にもほどがある。
「あ、やべ。そろそろ塾の時間だ。じゃ、俺行くわ! 今日はサンキュな、詩織。次はどこ行く?」
ようやく解放の時が来た。私は「また連絡するね」とだけ言って、足早に彼と別れた。背後から「藍月からの乗り換え、大歓迎だぜー!」なんて軽薄な声が聞こえた気がしたが、振り返らずに駅へと急いだ。
湊との待ち合わせ場所は、いつもの公園のベンチ。約束の時間まで、あと三十分。ここからが、今日の計画の本番だ。心臓が早鐘のように鳴り、手のひらにじっとりと汗が滲む。
練習してきたセリフを、頭の中で何度も反芻する。
『他に、本当に好きな人ができたの』
『ごめん。もう、湊とは付き合えない』
この言葉を言った時、湊はどんな顔をするだろう。きっと、信じられないって顔で、すごく悲しんで、怒ってくれるはずだ。「誰だよ、そいつ!」って、私の腕を掴んで、問い詰めてくれるかもしれない。そしたら、私は少しだけ意地悪に笑って、「教えない」って言うんだ。焦って、私の大切さを思い知ればいい。
そして、数日後。十分に彼を反省させたところで、「ごめんね、嘘だよ。私が好きなのは湊だけだよ」って、抱きしめてあげるんだ。きっと彼は安心したように笑って、私を許してくれる。だって、湊は優しいから。私のことが、大好きなんだから。
そんな甘い想像をしながら、私は待ち合わせの公園へと向かった。夕暮れの公園には、オレンジ色の光が満ちていた。ベンチに座って、文庫本を読んでいる湊の姿が目に入る。いつもの、見慣れた光景。その姿を見た瞬間、胸がずきりと痛んだ。本当に、こんなことをしていいのだろうか。今からでも、「ごめん、やっぱり何でもない」と言って、彼の隣に座ってしまいたい。
いや、だめだ。ここで引いたら、また同じことの繰り返し。湊が他の女の子に優しくするたびに、私が不安になるだけ。この関係をより強固なものにするためには、この試練が必要なんだ。
私は深く息を吸い込み、決意を固めて彼の前に立った。
「湊」
私の声に、彼は本から顔を上げた。そして、私の姿を認めると、ふわりと、いつもの優しい笑顔を浮かべた。
「詩織、お帰り。買い物、楽しかったか?」
「……うん」
その屈託のない笑顔が、罪悪感となって私の胸に突き刺さる。だけど、もう後には引けない。
「湊、話があるの」
いつもと違う、私の硬い声と真剣な表情に、湊の笑顔がすっと消えた。彼は黙って本を閉じ、まっすぐに私を見つめてくる。その真摯な瞳から逃げるように、私は少しだけ視線を逸らした。
「……どうしたんだよ、改まって」
さあ、言うんだ、響木詩織。練習してきた通りに。感情を込めて。彼を絶望の淵に突き落とす、呪いの言葉を。
「他に……」
声が、震える。
「他に、本当に好きな人が、できちゃったの」
言った。ついに、言ってしまった。湊が息を呑む気配が伝わる。彼の表情が、みるみるうちに強張っていくのが見えた。計画通りだ。いいぞ、もっと傷つけ。もっと絶望させて。
「だから……ごめん。もう、湊とは付き合えない」
追い打ちをかけるように、最も残酷な言葉を紡ぐ。さらに、今日一日、炎堂という男と過ごしたという事実が、私に悪魔の囁きをさせた。肉体関係があったかのように匂わせれば、彼の独占欲はさらに刺激されるはずだ。プライドはズタズタになり、彼は私に執着するだろう。
「もう……前の私じゃないの。ごめんね」
これで完璧だ。さあ、怒って。泣いて。私に縋り付いて。「行かないでくれ」って、言ってよ。
私は、彼の反応を待った。数秒が、永遠のように長く感じられた。
やがて、うつむいていた湊が、ゆっくりと顔を上げた。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
そこにあったのは、私が想像していた怒りや絶望ではなかった。
彼の瞳は、確かに悲しそうに揺れていた。まるで、大切なガラス細工が目の前で砕け散ってしまったのを見るような、深い、深い哀しみの色。だけど、そこには怒りも、嫉妬も、憎しみもなかった。
そして、彼は――笑ったのだ。
全てを諦めて、全てを受け入れてしまったかのような、静かで、儚い微笑みを浮かべて。
「そっか……」
か細い、絞り出すような声だった。
「詩織に、本当に好きな人ができたんだな」
「……え?」
予想外の言葉に、私の思考が停止する。違う。そうじゃない。なんで、そんなに落ち着いているの? なんで、そんなことを言うの?
「なら、仕方ないよ」
湊は、壊れそうに微笑んだまま、言葉を続けた。
「俺が詩織を縛り付けるわけにはいかない。今まで、俺みたいなのと付き合ってくれてありがとう。その人のこと、大事にしろよ」
違う、違う、違う! 誰がそんな言葉を言ってほしいって言ったのよ!
私の頭の中が、パニックで真っ白になる。どうして。「俺みたいなの」って何よ。あなたは、私にとって世界で一番の人なのに。
「詩織が幸せなら、俺は……それでいいから」
彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。でも、彼はすぐに手の甲でそれを乱暴に拭うと、無理やりに笑顔を作った。それは、今まで見た彼のどんな顔よりも、痛々しくて、悲しい笑顔だった。
「さ、帰ろ。もう暗くなるしな。送ってくよ。……今日が、最後だから」
祝福の言葉。
それは、私がこの世で最も聞きたくなかった言葉だった。
彼の異常なまでのお人好しさと、極端な自己評価の低さが、私の浅はかな嘘を、完璧な真実へと仕立て上げてしまった。
彼は、嫉妬するどころか、私の「幸せ」を心から願い、そのためにあっさりと、自ら身を引くことを選んだのだ。
計画通りのはずだった。彼に私の大切さを思い知らせるはずだった。なのに、どうして。どうして、私の胸にはこんなに大きな穴が空いてしまったんだろう。冷たい風が、その穴をびゅうびゅうと吹き抜けていく。
「湊……待って、違うの……」
何か言わなければ。これは嘘なんだと、本当はあなただけが好きなんだと、伝えなければ。でも、喉が張り付いたように、声が出ない。彼のあまりにも純粋な自己犠牲を前にして、私は自分がどれほど愚かで、醜い嘘をついたのかを思い知らされた。
彼の優しさが、今この瞬間、最も鋭く、最も残酷な刃となって、私の心をズタズタに切り裂いていた。
公園からの帰り道、私たちは一言も話さなかった。繋がれることのなかった手のひらが、やけに心細い。いつもはあっという間に着いてしまう私の家の前が、今日は果てしなく遠く感じられた。
家の前で、湊は立ち止まった。
「じゃあ、な。元気で」
そう言って、彼は私に背を向けた。その背中が、今まで見たどんな時よりも小さく、頼りなく見えた。
「待って!」
私は、ほとんど無意識に叫んでいた。彼の服の裾を、必死に掴む。
「待って、湊……! 話を聞いて!」
「……もう、話すことはないだろ」
彼は振り返らない。彼の肩が、小刻みに震えているのが分かった。
「ある! あるの! あのね、さっきの、は……」
『嘘だったの』
その言葉が、喉まで出かかっていた。でも、言えなかった。彼のあの悲しい笑顔が、脳裏に焼き付いて離れないから。彼の涙が、私の罪の重さを物語っているから。今、この場で「嘘でした、ごめんね」なんて、軽々しく言えるはずがなかった。そんなことをすれば、彼の純粋な想いを、さらに踏みにじることになる。
私が言葉に詰まっていると、湊は私の手をそっと、しかし力強く振り払った。
「さよなら、詩織」
その声は、もう震えていなかった。そこには、揺るぎない決意が込められていた。
彼は、一度も振り返ることなく、夜の闇の中へと歩いていく。その背中が完全に闇に溶けて見えなくなるまで、私はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
足元から、力が抜けていく。私は、その場にへなへなと座り込んだ。
何かが終わってしまった。絶対に終わらせてはいけなかったものが、私のたった一言の嘘で、完全に終わってしまった。
嫉妬させるはずだった。私の大切さを分からせるはずだった。それなのに、手に入れたのは、彼のいない未来と、胸を苛む後悔だけ。
「あ……あぁ……」
声にならない嗚咽が、喉から漏れる。
自分の愚かさに、涙が止まらなかった。
湊の優しさを、私は当たり前のものだと思っていた。彼が私から離れていくなんて、ありえないと信じ込んでいた。その傲慢さが、この最悪の結末を招いたのだ。
失って初めて気づく、彼の存在の大きさ。
もう、あの優しい笑顔も、不器用な言葉も、温かい手のひらも、私のものじゃない。
私が、この手で、全てを壊してしまったのだから。
夜の冷たい空気が、独りになった私の身体を容赦なく冷やしていく。
この後悔が、絶望の始まりに過ぎないということを、この時の私はまだ知る由もなかった。
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