幼馴染が浮気したので彼女の幸せを願って身を引いたら、なぜか学年一の美少女生徒会長に「ここからは私の番です」と溺愛されることになった
@flameflame
第一話 崩壊へのプレリュード
放課後のチャイムが鳴り響き、一日の授業が終わったことを告げる。ざわめきと喧騒が教室を満たし、生徒たちは解放感に満ちた表情で帰り支度を始める。部活へ向かう者、友人たちと駅前のカラオケへ向かう者。その喧騒の中で、俺、藍月湊(あいづき みなと)は、隣の席で教科書を鞄に詰めている幼馴染の姿をぼんやりと眺めていた。
「湊、まだ終わんないの? 早くしないとクレープ屋、混んじゃうよ」
唇を少し尖らせて俺を急かすのは、響木詩織(ひびき しおり)。物心ついた時からずっと隣にいた、俺の幼馴染であり、一年前に恋人になった大切な彼女だ。少しウェーブのかかった明るい栗色の髪が、窓から差し込む西日に照らされてきらきらと輝いている。
「ごめんごめん、すぐ終わるから」
慌ててノートを鞄にしまいながら、俺はふと気づいた。
「あれ、詩織。今日、髪留め変えた?」
「えっ」
詩織は驚いたように目を丸くして、自分の髪にそっと触れた。いつもはシンプルなリボンなのに、今日は小さな星の飾りがついたシルバーのヘアピンだ。ほんの些細な変化だったが、毎日見ている彼女のことだから、すぐに分かった。
「……よく気づいたね。昨日、雑貨屋で見つけて、つい買っちゃったんだ。似合うかな?」
「うん、すごく似合ってる。可愛いよ」
素直な感想を口にすると、詩織は「そ、そうかな」と顔を赤らめ、嬉しそうに俯いた。こういうところがたまらなく愛おしい。俺みたいな平凡な男に、こんな可愛い彼女がいるなんて、いまだに夢みたいだと思うことがある。
「ほら、行くよ!」
照れ隠しのように俺の手を引き、詩織が立ち上がる。彼女のスクールバッグと、ついでに自分の鞄も右肩に担ぎ、俺たちは賑やかな教室を後にした。
「もう、湊はすぐそうやって荷物持つんだから。私、そんなにひ弱に見える?」
「ひ弱だなんて思ってないよ。ただ、俺が持ちたいだけ。それに、詩織の手、空いてた方がいいだろ? ほら」
そう言って空いている左手を差し出すと、詩織は「しょうがないなあ」と口では言いながらも、嬉しそうにその指を絡めてきた。柔らかくて、少しだけひんやりとした彼女の指先の感触が、俺の心を満たしていく。
学校から駅へ向かう途中にあるクレープ屋は、俺たちのお気に入りの場所だった。季節限定のメニューを二人で覗き込み、あれこれと悩む時間もまた、幸せな日課の一つだ。
「私はやっぱりイチゴチョコクリームかなあ。湊はどうする?」
「俺は……じゃあ、ツナサラダで」
「また甘くないやつ! たまには同じのにしようよー」
「いや、甘いのも好きだけど、詩織が一口ちょうだいって言うだろ? その時、甘いのとしょっぱいの、両方あった方が楽しいかなって」
俺がそう言うと、詩織は一瞬きょとんとした後、「……ばか」と小さく呟いて、顔を背けてしまった。その耳がほんのり赤く染まっているのを見逃しはしない。
付き合って一年。幼馴染としての期間が長すぎたせいで、最初はどこかぎこちなかったけれど、今ではこんな風に、穏やかで甘い時間が当たり前になっていた。この当たり前が、ずっと、永遠に続いていくのだと、俺は何の疑いもなく信じていた。
その均衡が、脆くも崩れ始める兆候に、この時の俺はまだ気づくことができなかった。
*
数日後、俺たちの学校は二週間後に迫った文化祭の準備で、どこか浮かれたような熱気に包まれていた。俺たち二年生は、クラスごとに演劇や模擬店などを企画し、放課後はその準備に追われることになる。
俺のクラス、二年三組の出し物は、定番のお化け屋敷に決まった。教室を暗幕で覆い、段ボールで迷路を作り、脅かし役の生徒を配置する。単純なようでいて、これがなかなかの重労働だった。
「藍月ー、悪いけど、そこの段ボール、美術室まで一緒に運んでくれー」
「おう、分かった」
クラスの中心グループにいる男子に声をかけられ、俺はすぐに立ち上がった。勉強も運動も人並みで、特に目立つ存在ではない俺にできることと言えば、こういう力仕事くらいだ。黙々と段ボールを数枚重ねて抱え、廊下を歩く。
美術室で段ボールを降ろし、教室に戻る途中、女子生徒が数人で集まって、教室の壁に貼るための模造紙に絵を描いているのが目に入った。その中の一人が、高い位置に飾り付けをしようと、椅子の上に立って背伸びをしていた。
「うーん、もうちょっと右かなあ……。あ、やばっ」
バランスを崩し、彼女の身体がぐらりと傾く。
「危ない!」
考えるより先に身体が動いていた。駆け寄って、落ちてきた彼女の身体を腕で支える。幸い、完全に倒れる前だったので、大した衝撃はなかった。
「だ、大丈夫か?」
「あ、うん……。ご、ごめん! ありがとう、藍月くん!」
腕の中のクラスメイトは、顔を真っ赤にしてお礼を言った。
「藍月くん、優しいねー」
「ほんと、助かったよー。ありがとう!」
周りで作業していた他の女子たちからも、感謝の言葉が飛んでくる。俺は「いや、別に……」と頭を掻きながら、その場を離れた。特別なことをしたつもりはない。ただ、困っている人がいたら助ける。昔から、そう教えられてきただけだ。
教室に戻って作業を再開すると、今度は別の女子生徒に声をかけられた。
「藍月くん、このお面の色塗り、センスなくて分かんないんだけど、どっちの色がいいと思う?」
「え、俺に聞くのか? うーん、そうだな……こっちの赤の方が、血っぽくて怖い感じが出るんじゃないか?」
「あ、ほんとだ! さすが! ありがとう!」
そんな些細なやり取りが、準備期間中は頻繁にあった。俺自身は誰かの役に立てるならと、特に何も考えずに応じていた。それが、ある一人の人物の心を、静かに苛立たせているとは思いもせずに。
そして、運命の日がやってくる。
文化祭準備も大詰めを迎えた放課後。教室の飾り付けも、残すは大物だけとなっていた。その時、教室の入り口がすっと開き、凛とした空気をまとった一人の女子生徒が入ってきた。
腰まで届く、銀色の光沢を放つような艶やかな黒髪。透き通るように白い肌。人形のように整った顔立ち。県立千鳥高校に入学した者なら、誰もがその名を知っている。二年生にして生徒会長を務める、才色兼備の完璧超人。白鷺氷華(しらさぎ ひょうか)その人だった。
「各クラスの準備状況の確認に来ました。何か問題はありますか?」
静かだが、よく通る声。その一言で、騒がしかった教室が一瞬にして静まり返る。クラスの責任者が慌てて彼女のもとに駆け寄り、進捗を報告していた。
「ふむ……。概ね順調のようですね。そこの天井の装飾は、もう少し補強した方が安全かもしれません」
氷華は教室全体を見渡し、的確な指示を出す。その視線が、教室の隅に立てかけられた脚立の上で止まった。どうやら、一番高い位置にある蜘蛛の巣のオブジェの角度が気になったらしい。
「少し、失礼します」
彼女はそう言うと、制服のスカートを気にする様子もなく、すたすたと脚立に登り始めた。周囲の生徒たちは、完璧な生徒会長の意外な行動に、ただ息を飲んで見守っている。
「やはり、少し傾いていますね。これをもう少し、こちらに……」
氷華がオブジェに手を伸ばし、ぐっと力を込めた瞬間だった。おそらく、重心がずれたのだろう。彼女が乗っていた脚立が、ガタン、と大きな音を立ててぐらりと傾いだ。
「きゃっ……!」
完璧な彼女が、初めて見せた隙。悲鳴と共に、その華奢な身体が宙に投げ出される。誰もが凍りついた、その一瞬。
「――危ないっ!」
まただった。俺は、気づけば走り出していた。落下してくる氷華の真下に滑り込み、衝撃に備えて歯を食いしばる。ずしり、とした重みと、シャンプーの清々しい香りが、俺の腕の中に飛び込んできた。
なんとか彼女の身体を受け止めたものの、勢いを殺しきれず、俺たちは二人で床に倒れ込む形になった。俺が下敷きになり、氷華を腕で庇うような体勢だ。
しん、と静まり返った教室に、心臓の音だけが大きく響く。腕の中の氷華は、驚きに見開かれた大きな瞳で、至近距離から俺の顔をじっと見つめていた。
「……だ、大丈夫ですか。白鷺さん」
先に我に返った俺が、声を絞り出す。彼女はしばらく瞬きを繰り返していたが、やがて状況を理解したのか、慌てて俺の身体から離れた。
「……ええ。……すみません。私が不注意でした」
立ち上がった彼女は、乱れた制服を直し、いつも通りの冷静な表情を取り繕う。だが、その白い頬が微かに上気しているのを、俺は見逃さなかった。
「いえ、怪我がなくてよかったです」
「……ありがとう、藍月くん。助かりました」
静かに、しかし芯のある声で告げられた感謝の言葉。彼女は俺の名前を知っていた。その事実に少しだけ驚きながら、俺も床から立ち上がる。
「今の見たか!?」
「藍月くん、まじヒーローじゃん!」
「生徒会長、助けちゃうとか、やば……」
周囲が途端に騒がしくなる。賞賛と興奮が入り混じった囁き声が、あちこちから聞こえてきた。俺はただ、どうしようもない気恥ずかしさに俯くことしかできなかった。
その時、教室の隅で、すべての光景を冷たい目で見つめている視線があったことに、浮かれていたクラスの誰も、そして俺自身も、気づいてはいなかった。
*
響木詩織は、ただ黙って、その光景を焼き付けていた。
自分の恋人である湊が、クラスの女子生徒に優しくするだけでも、面白くない。胸の奥がちりちりと焦げるような、不快な感覚。それなのに、今、彼は何をしていた?
学校中の男子の憧れである、あの白鷺氷華を、まるで物語の王子様みたいに助けていた。腕の中に抱きしめて、感謝されて、クラス中の注目を浴びていた。湊の隣は、私の場所なのに。彼の腕の中にいるべきなのは、私だけなのに。
「藍月くん、優しいね」
「ほんと、いざという時頼りになる」
「彼女さん、幸せだろうなあ」
聞こえてくる女子たちの会話が、詩織の心をナイフのように抉る。違う。湊の優しさは、私だけが知っていればいい。私だけが、独り占めしていいものなのに。なんで、みんなが彼の良さに気づき始めるの?
湊は平凡だ。顔も、成績も、運動神経も。でも、誰よりも優しい。その優しさに、私はずっと救われてきた。そして、その優しさは、自分だけに向けられるものだと信じて疑わなかった。彼が、自分から離れていくなんて、考えたこともなかった。
でも、もし。もし、湊が、私よりもっと素敵な女の子――例えば、白鷺氷華みたいな完璧な女の子に本気で好かれてしまったら? 私の知らないところで、どんどん人気者になって、手の届かない場所へ行ってしまったら?
その想像は、詩織の心に得体のしれない恐怖と、どす黒い嫉妬の感情を植え付けた。
「……湊も、少しは焦った方がいいんだよ」
無意識に、そんな言葉が口からこぼれる。そうだ。彼に思い知らせてやらなければ。私がどれだけ大切で、かけがえのない存在なのかを。私がいなくなったら、彼がどれだけ困るのかを。
詩織の視線が、教室の後方で友人たちと馬鹿騒ぎをしている一人の男子生徒に向けられた。派手な茶髪に、少し着崩した制服。クラスでも目立つ陽キャグループの中心人物、炎堂隼人(えんどう はやと)。
彼自身に興味はない。恋愛感情なんて、欠片もない。ただの、「当てつけ」のための道具。湊に嫉妬させるための、最適な駒。
「湊は私のこと、好きすぎるから。ちょっとやきもち焼かせたって、大丈夫。最後にはちゃんと、私のところに泣きついてくるはずだもん」
自分に言い聞かせるように、甘く、そして危険な自己暗示をかける。詩織は、自分の計画の愚かさにも、それが取り返しのつかない悲劇の序曲であることにも気づかないまま、ゆっくりと立ち上がった。
そして、まっすぐに炎堂隼人のもとへと歩み寄り、練習したみたいに完璧な笑顔を向けて、声をかけた。
「ねえ、炎堂くん。今度の日曜日、もしよかったら……二人で映画でも見に行かない?」
その言葉は、穏やかだったはずの俺たちの日常を破壊する、終わりの始まりの合図となった。
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