第50話 祖父の“謎ルール”の正体

 玄関を開けると、乾いた暖気が顔にぶつかった。外の空気は刺すように冷たくて、息を吸うたび肺の奥がきゅっと鳴っていたのに、実家はいつも通り、ストーブと味噌の匂いでできている。


 靴を脱いで廊下に上がると、正面の引き戸に、白い紙が貼ってあった。太いマジックの字。角はテープで丸く補強されている。


 ――台所ルール

 ①火をつけたら、目を離さない

 ②鍋の取っ手は内側

 ③元栓よし(指差し)

 ④最後に札を裏返す


 「札」というのがポイントだ。台所の棚の取っ手に、赤い札がぶら下がっている。表に「火」、裏に「無」。小学校の教材みたいにわかりやすいのに、私の生活導線にはない。私はいつも、スマホの通知にだけ札をぶら下げて生きている。


 リビングから祖父の咳払いが聞こえた。咳というより、音声の立ち上がりの確認みたいなやつ。


 「美咲か。寒かったろ」


 「うん。駅から風が…」


 言い切る前に、祖父はもうテレビに戻っていた。会話の終わり方が雑で、逆に安心する。こたつの匂いの中で生きてきた人の雑さだ。


 私は荷物を置いて、台所に入った。換気扇の低い唸り。湯気。冷たい水で洗った手が、すぐ温まる。ここだけ季節が室内に折り畳まれている感じがする。


 冷蔵庫にも、メモが貼ってあった。こっちは細かい字で、箇条書きが増殖している。


 ――豆腐は最後

 ――味見は小皿

 ――布巾は右

 ――ガスは二度見る


 布巾は右、って、どこかの国家の方針みたいだ。私は思わず笑ってしまい、笑った自分の喉が乾く。


 「それ、笑うとこじゃない」


 背中から声が飛んできた。祖父が立っていた。いつの間に。足音がしないのがこわい。


 「ごめん。なんか…増えてるなって」


 祖父はメモの端を指で押さえた。テープが少し浮いて、紙が湿っている。


 「増えるのは、忘れるからだ。忘れるのは、危ないからだ」


 言葉が硬い。冬の包丁みたいに。私は、鍋をコンロに置いて、点火した。青い火がついた瞬間、祖父の視線が火に吸い寄せられる。


 「目を離すなよ」


 「離さないって。今、ここ…」


 言い切る前に、スマホが振動した。ポケットの中で、薄い魚みたいに跳ねる。会社のグループチャットだ。年末、何かと「確認だけ」って来る。


 私は無意識にスマホへ手を伸ばし、祖父の声と同じタイミングで止まった。


 「火の前で、画面を見るな」


 「ちょっとだけ。返信…」


 「ちょっと、があるから」


 祖父は、鍋の取っ手を内側に回し直した。私が最初から内側にしていたのに、もう一度。念押しというより儀式。私はその指先の強さに、なんだか反射で腹が立った。


 「私も大人だよ。危ないことは…」


 「大人が一番、危ない。慣れるから」


 その「慣れる」が、私には刺さった。慣れているから、早くできる。慣れているから、同時にできる。慣れているから、気が散る。便利に寄せると、公共の安全とぶつかる。頭ではわかる。わかるけど、今はただ、台所に貼られた紙に生活を支配されている気がした。


 「そんなに言うなら、もう私、台所立たない」


 口から出てしまって、少し後悔した。言い切ってしまった。祖父の顔が、いちど固まって、それから少しだけ、遠くに行った。


 「立たなくていい。危ないから」


 会話が、そこで閉まった。ドアじゃなく、シャッターみたいに。


 味噌汁が煮立つ音だけが残った。私は鍋を弱火にして、火の前に立ったまま、スマホを握り直した。振動はもう止まっている。通知は、世界の中心じゃない。そう思おうとして、でも指先はまだ、返信の速度に縛られている。


 祖父は台所を出ていった。背中が小さく見えた。私は鍋の中のわかめが開くのを見ながら、冷蔵庫のメモをじっと見た。テープの端が黄色い。何年もここに貼られて、何年もここで冬を越した紙だ。


 ふと、冷蔵庫の横の隙間から、もう一枚の紙が落ちかけているのが見えた。私は指で引き抜いた。裏が汚れていて、角が焼けたみたいに茶色い。字は薄い鉛筆で、今のメモよりずっと頼りない。


 ――火、消す

 ――水、かけない

 ――布、かけない


 「水、かけない」?


 台所の匂いの中で、その言葉だけが妙に冷たかった。私はその紙を持って、居間へ行った。廊下の床がひんやりして、裸足の足先が縮む。


 祖父はこたつで新聞を広げていた。テレビの音量は低い。読みながら聞いているのか、聞きながら読んでいるのか、どっちでもないのか。


 「これ…何?」


 私は紙を差し出した。祖父は見た瞬間、新聞を半分だけ畳んだ。指が止まる。目が一度、紙から外れて、こたつの中に落ちた。


 「捨ててなかったか」


 それだけ言って、しばらく黙った。こたつのヒーターが、かすかに鳴った。私の中の苛立ちが、変なところで弱まった。


 「昔な、台所で…火が出た」


 祖父は、そこまで言って、息を吸い直した。言葉は短いのに、間が長い。


 「うちの裏で。鍋の油が…こう、なって。俺が水をかけた。炎が跳ねて、ここ…」


 祖父は自分の手首の内側を、指でなぞった。そこに、薄い筋があった。冬の乾燥でひび割れたみたいにも見えるし、ずっと前の線にも見える。私は初めて気づいた。気づかなかった、という事実が一番痛かった。


 「だから、水はダメなんだ。火は…火で」


 祖父は言い切らなかった。「火で」って何だろう、と思ったけど、聞くのをやめた。背景が全部説明されないほうが、私には効いた。事故の記憶は、説明が増えるほど遠くなる。ひとつだけ見えたから、近かった。


 私は紙を握り直した。紙の角が、指の腹に刺さる。


 「…それで、札とか、指差しとか…」


 祖父はうなずいた。うなずき方が、少しだけ不器用だった。硬い人が柔らかいことを言う前の、準備みたいな動き。


 「忘れないようにしてるだけだ。誰かを縛りたいわけじゃ…」


 言い切らずに、祖父は新聞に視線を戻した。照れ隠しなのか、逃げなのか、たぶん両方だ。


 私は台所に戻った。足音が、今度は自分でも聞こえた。ストーブの匂いから、味噌の匂いへ。動くと、生活の温度が変わる。


 冷蔵庫のメモを見て、私は少しだけ違うことをしたくなった。正しさの言葉を増やすんじゃなくて、暮らしの言葉に直す。


 ペンを探して、百均で買ったマグネットボードを戸棚から出した。母が「便利だから」と置いていったやつだ。便利は、たまに人を救う。たまに衝突もするけど。


 私はボードに、太い字で三つだけ書いた。


 ――火つけたらスマホ置く

 ――取っ手は内側

 ――終わったら札を「無」


 それから、祖父の「水かけない」を、別の紙に小さく書いて、横に貼った。目立ちすぎないように。必要なときだけ見えるように。


 鍋の前に、スマホを置く場所も作った。コンロから一番遠い、電子レンジの上。そこに小皿も一枚置いた。味見用。ルールのための道具じゃなく、道具のためのルールにする。


 祖父が台所に入ってきたのは、味噌汁の火を止める頃だった。湯気で眼鏡が曇り、祖父は眉間にしわを寄せた。


 「何だ、それ」


 「ルール、更新。項目、減らした」


 私は言い切らずに、しゃもじを鍋の縁に置いた。祖父はボードを見て、札を見て、私の手元を見た。


 「スマホ置く、って…」


 「私が、置けないから。先に書いとく」


 少し笑って言うと、祖父の口元が一瞬だけ動いた。笑いかどうかは、判別が難しい。冬の顔は、いつも固い。


 祖父は札をひっくり返した。「火」から「無」へ。カチ、と小さな音がして、それだけで台所の空気が一ミリほどなめらかになった。


 「…まあ、これなら、覚えられる」


 祖父はそう言って、味噌汁の匂いを嗅いだ。嗅ぎ方が、ちゃんと人間だった。私はその横顔を見て、なぜか肩の力が抜けた。


 食卓に運ぶ途中、窓の外が暗いのに気づいた。冬は日が落ちるのが早い。台所の蛍光灯が、白く皿を照らす。外の冷気と、室内の湯気が、ガラス一枚で別世界になっている。


 私はスマホを見なかった。通知はきっと増えている。でも、味噌汁は冷めるし、祖父の手首の線は、今日ここにある。世界は通知なしでも続くし、札が「無」でも、台所はちゃんと夜を迎える。


 食べ終わって、祖父がこたつに戻る前に、私は玄関の引き戸の紙を一度はがして、新しいボードの写真を撮った。母に送るためじゃない。私のためだ。更新したルールは、次に戻ってきたときにまた古くなるから。


 紙を貼り直す祖父の指先を見ながら、私は思った。

 古い習慣は、ただの頑固じゃなく、誰かの記憶の形をしていることがある。形が見えたら、少しだけ扱い方を変えられる。


 外では、風が電線を鳴らした。

 家の中では、札が「無」のまま揺れずに下がっている。

 冬の台所の匂いは、明日もたぶん同じで、でも私は次に来たとき、スマホを置く場所を迷わない気がした。

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