第49話 風邪のときに届くスタンプ

 加湿器が、白い息みたいな音を出している。

 ボコ、と小さく泡がはじけるたび、部屋の空気が少しだけ生き返る。私は布団の中でスマホを握り直して、指先の冷たさと画面の熱を比べた。


 ――会社、休みます。

 打っては消して、また打つ。たった一行なのに、喉より先に気が重い。休むって、罪じゃないはずなのに、通知の点が増えると「申し訳なさ」が増殖する仕組みになっている気がする。


 送信。

 数秒後、既読。

 さらに数秒後、返信。


 「お大事に〜」

 そのあとに、スタンプがひとつ。丸い顔が毛布にくるまって、頬が赤い。なぜか私より元気そうで、少し腹が立つ。いや、元気そうなのはありがたいんだけど、こっちは鼻が詰まっていて、感情が渋滞している。


 返信しようとして、指が止まった。

 ありがとう、と打つのもつらい。つらいことを説明するのもつらい。人は弱ると、言葉の在庫が切れる。

 私はそのままスマホを伏せた。画面が暗くなる。部屋は加湿器の音だけになる。


 昼と夕方の境目が曖昧なまま、ドアのチャイムが鳴った。

 ピンポン、の音がやけに澄んでいて、私の体温だけが世界から置いていかれているみたいだった。


 玄関までの三歩が、遠い。

 廊下の冷たさに足の裏がびくっとして、私は壁に手をついて息を整えた。ドアスコープは曇っていて、誰も見えない。覗いた自分の目だけが不審者みたいだ。


 ドアの外に、小さな紙袋が置いてあった。コンビニの袋。持ち手に輪ゴムがかかって、メモが挟まっている。


 「入口に置いとくね。無理して出なくていい」

 文字は短くて、角が丸い。

 袋の中身は、スポーツドリンク、ゼリー、のど飴、使い捨てカイロ。あと、なぜかプリン。風邪の差し入れにプリンを入れる人間は、たぶん信用していい。


 私は袋を抱えて部屋に戻り、机の上に置いた。紙袋が湿った空気を吸って、少しだけ柔らかくなる。

 スマホを起こすと、またスタンプが増えていた。今度は、同じ丸い顔が「えいえいおー」みたいに拳を上げている。いや、こっちは拳を上げる元気がない。


 ――返事してない。

 そこで、ようやく「すれ違い」の芽が出てきた。

 相手は善意で送ってくれてるのに、私は無言。未読じゃなく既読。既読は、沈黙に形がつく。形がつくと、勝手に意味が増える。


 「具合どう?」

 追加のメッセージが来て、私はさらに固まった。

 具合は、悪い。悪いとしか言いようがない。でも「悪い」だけ送ると、相手の善意を受け取れなかったみたいになる。受け取れてる。袋の中にプリンまである。


 喉が痛くて、声も出ないのに、心の中では言い訳だけが元気だ。

 私はスタンプ欄を開き、スクロールした。いつもなら適当に押すところなのに、今日は「適当」ができない。適当は、体力がいる。


 そのとき、目に入ったのが、さっきの彼――丸い顔――の別バージョンだった。

 毛布の中から片手だけ出して、小さく手を振っている。文字はない。言い切らない。体調の悪い人にちょうどいい、温度の低い挨拶。


 私はそれを押した。

 送信して、すぐに画面を閉じた。押した自分が、えらいとか、えらくないとか、判断する前に。


 しばらくして、返事が来た。

 「それで十分。寝て」

 またスタンプ。今度は、毛布の顔が目を閉じている。寝る指示が、こんなにやさしく見えることがあるんだ、と私は少し笑った。笑うと、咳が出た。笑ってはいけないギャグだった。


 夜、加湿器の音に混ざって、外の車の走る音が薄く聞こえた。世界は普通に動いている。私の鼻だけが詰まっている。

 プリンを食べたら、口の中が少しだけ明るくなった。甘さは、薬より効く瞬間がある。もちろん薬も飲む。


 翌朝、熱が少し下がって、指が自分のものに戻ってきた。

 私は会社のチャットを開き、遅れてしまった返信に、短く書いた。


 「昨日は返信できず。差し入れ助かりました」

 そして、例の毛布スタンプを、ひとつ。言葉の後ろに、余白を置くみたいに。


 数日後、回復して外に出ると、冬の空気が乾いていて、肺がきゅっと鳴った。コンビニでプリンを買って、のど飴もひとつ余分に取った。レジ袋が、しゃりっと音を立てる。


 帰り道、私はふと思った。

 優しさって、言葉があるときだけじゃない。スタンプみたいに、軽く押せる形のほうが、弱っているときには届きやすい。

 だから今度、誰かが寝込んだら、私も押す。袋も置く。玄関先に、無理しなくていいって書いて。


 加湿器の音がいらない夜が戻っても、世界は変わらず続く。

 通知が途切れても、誰かの生活は途切れない。

 私はスマホをポケットに入れて、息を白くして歩いた。たぶん、またどこかで、毛布の顔が小さく手を振っている。

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