第32話 配達員さんの名前を知らない
不在票は、いつも私のタイミングの悪さを証明する。
玄関の床に、白い三角形が落ちていた。折り目のついた紙。あの形を見るだけで、心が一段下がる。郵便受けから引っ張り出したはずなのに、いつの間にか床に置いていた。置いた記憶がない。疲れていると、手が勝手に暮らす。
私は靴を脱ぎながら、不在票を拾って裏返した。印刷された時間。配達員さんのメモ欄。達筆でも乱筆でもない、急いで書いた線。
「……また」
声に出さない。出さないけど、眉間は動く。今日は在宅の日だった。会議が続いて、途中でキッチンに水を取りに行っただけ。たったその間にインターホンが鳴ったらしい。鳴ったらしい、というのが腹立たしい。鳴ったのに聞こえない私と、鳴ったのに通じない家の構造と、鳴ったのに待てない時間。
私はスマホを開いて、再配達の手続きをしようとした。指が勢いよく画面を滑る。勢いがあるときの私の指は、だいたい怒っている。
「客なのに」
頭の中で言葉が立つ。私は客で、向こうはサービスを提供する側。だから届けるのが仕事で、私は受け取るだけでいい。便利の世界の定型文。そこに寄りかかると、話は早い。早いけど、ざらつく。
玄関の横に置いた宅配箱を見た。黒い箱。前に「これで不在票が減る」と思って買ったやつ。なのに、今日は不在票が来ている。宅配箱の鍵が閉まっている。ということは、入れられなかったか、入れなかったか。どっちにしても、私の「便利」は動かなかった。
私は不在票を畳み直した。畳み直すと、怒りが少し整う。整った怒りは、言い訳を探し始める。
宅配箱が小さいからだ。
配達員さんが見落としたからだ。
インターホンが鳴ったのに気づかなかった私が悪いけど、会議中だったし。
そもそも在宅なのに受け取れないって、なんなの。
「なんなの」は、だいたい全部に使える。便利な怒り。
私は再配達の時間帯を選んで、確認ボタンを押しかけた。押しかけて、止まった。画面の下に小さく「当日再配達は混雑状況により遅れる場合があります」と出ている。混雑状況。いつも混んでいる気がする。いつからこんなに、荷物は毎日来るものになったんだろう。
そのとき、廊下の向こうから足音がした。マンションの廊下は音が反響する。誰かが荷物を引きずる音。台車のコロコロ。
ドアの覗き穴から見える影が止まって、隣の部屋の前でしゃがんだ。私は思わずドアを開けた。開けたら負け、みたいな気持ちが一瞬あるのに、開けた。自分でも理由がわからない。わからないけど、身体が先に動いた。
廊下には配達員さんがいた。若いとも年配とも言いづらい。マスクで顔の情報が減っている。制服の色と、肩の少し丸い感じだけが人間っぽい。隣の荷物を宅配箱に入れようとしていた。宅配箱の前に荷物が二つ並んでいる。
配達員さんがこちらを見て、軽く会釈した。
「こんにちは」
声が少し枯れている。秋の乾いた空気が喉に引っかかる声。
私は反射で、不在票を見せた。
「あの、これ……今日、家にいたんですけど」
言い切りそうになって、止めた。責めの言葉が喉の手前で渋滞する。代わりに、レシートを出すみたいな動きで、不在票を指で押さえた。紙の角が固い。
配達員さんは不在票をちらっと見て、申し訳なさそうに目を細めた。
「すみません。インターホン、鳴らしました。……会議中でしたか」
会議中でしたか、って言い方が優しい。責めない質問。私はそれに少し救われてしまって、逆に困った。救われると、怒りの居場所がなくなる。
「そうで……気づかなくて」
私が言うと、配達員さんはうなずいた。
「ありますよね。最近、在宅でも会議中で出られない方、多いです。音が小さいって言われることも」
私は宅配箱を指差した。
「これ、あるんですけど……入れられなかったですか」
配達員さんは宅配箱を見て、少しだけ手を止めた。
「この荷物、サイズがぎりぎりで。あと……鍵の種類がいろいろあって、手間取ると次が遅れてしまって」
手間取ると次が遅れる。次が遅れると、全体が遅れる。私はその言葉で、はじめて配達の現場を想像した。一本の線でつながったルート。時間がずれて、ずれて、最後に誰かが夜遅くまで残る。誰か、が多分この人。
「再配達も……大変ですよね」
私が言うと、配達員さんは少しだけ肩をすくめた。すくめ方が、疲れの形。
「重いです。荷物も、気持ちも。お客さまが悪いとかじゃなくて、単純に回数が増えると……」
背景が一つだけ見えた。
再配達は、荷物がもう一度歩くことだ。
歩くのは配達員さんだけど、その重さは仕組みの重さでもある。私の便利の裏側の、もう一往復。私は不在票の紙が、さっきより重く感じた。紙の重さじゃない。背後の重さ。
配達員さんは続けて、短く言った。
「もしよかったら、置き配指定、玄関前でも。あと、宅配箱のところに『暗証番号はこれ』って書いてあると助かります。時間が読めるので」
暗証番号。私は宅配箱の説明を自分だけがわかるようにしていた。配達員さんは毎日違う箱に向き合っているのに。私は「便利」を買ったのに、使い方の説明を世界に渡していなかった。
私は頷いた。
「わかりました。……すみません、いつも」
いつも、って言葉が出た。いつも私は受け取っている。いつもこの人は運んでいる。なのに私はこの人の名前を知らない。不在票には名字も書いていない。いや、書いてあっても私は読んでいない。読む余裕がない、というより、読む必要がない世界に慣れていた。
配達員さんは会釈して、隣の宅配箱の蓋を閉めた。カチッという音が乾いて響く。秋の音。
「いえ。ありがとうございます」
ありがとうございます。逆だと思っていた。客が言われる言葉じゃないと思っていた。けど、言われると不思議に胸が温かくなる。温かくなると、自分の「客」の鎧が少し軽くなる。
部屋に戻って、私はすぐにメモ用紙を出した。冷蔵庫に貼ってあるマグネットの下から、使いかけの紙を引き抜く。ペンを持つ手が、さっきより落ち着いている。
『宅配箱:暗証番号 ****』
『置き配:玄関右側(避難経路ふさがない)』
玄関右側。廊下の動線を想像する。前に佐藤さんが言っていた避難経路のことが、頭の端で動く。便利と公共の境界。ここで箱を置いたら邪魔になる、という具体。私は玄関の横のスペースを測るように見た。靴箱の位置を少しずらせば、箱の置き場ができる。できるけど、生活の見た目が少し崩れる。崩れるのは、まあいい。避難経路より大事な見た目はない。
私は再配達の時間帯を、いちばん遅い枠に変えた。帰宅後すぐの時間は、たいてい私がバタついている。バタつく時間に配達を合わせると、また不在票が生まれる。生まれると、また重い往復が増える。
スマホの通知が鳴った。社内チャット。「今日の資料、ありがとう」。私はすぐに返せそうだったけど、少し置いた。返事の速度を落としても、世界は崩れない。配達も、返事も、往復の数を減らすほうがいいときがある。
夜、窓を開けると秋の乾いた空気が入ってきた。昼より少し冷たい。遠くで電車の音がする。マンションの廊下の照明が、窓の端に白く映る。私は宅配箱の前に貼ったメモを確認して、少し笑った。たった一枚の紙で、明日の誰かの時間が少しだけ楽になるかもしれない。
配達員さんの名前は知らない。でも、名前を知らなくてもできる調整がある。便利を自分の内側だけで完結させないこと。仕組みの上で、ほんの一ミリだけ滑りを良くすること。
通知が鳴らなくても、世界は続く。不在票がなくても、荷物は来るし、秋は乾いて進む。私は玄関の床を見て、白い三角形がないことに、少しだけ安心した。
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