第31話 文化祭の裏方が報われる瞬間

 文化祭の空気って、甘い。


 綿あめの砂糖、焼きそばのソース、紙コップのコーヒー、そして「いま楽しい」っていう人の声。秋の乾いた風にその甘さが混ざって、キャンパス全体が大きなお菓子みたいになる。私はその匂いの中で、腕に貼ったスタッフ用のシールを撫でた。剥がれかけていて、指に少し粘りが残る。


 私は裏方だ。


 表でマイクを持ってる人じゃない。ステージの照明を浴びる人じゃない。目立つ看板の前で笑う人でもない。私の仕事は、掲示物の貼り替えと、備品の運搬と、困った人の案内。つまり「誰かの楽しい」を続けるための、地味なすき間を埋める係。


 起きている小さな不便は、地味すぎて説明しづらい。


 朝からずっと貼り紙がずれる。風でめくれる。テープが弱い。掲示板のコルクにピンが刺さらない。場所を取る段ボールが増える。ゴミ袋がすぐいっぱいになる。誰も見ていないところで、私の手だけがずっと働いている。働いているのに、気持ちは「見てほしい」に引っ張られる。


 実行委員のチャットに通知が飛ぶ。


『迷子の子います!本部来て』

『ゴミ袋追加お願いします』

『雨降りそう、掲示物どうする?』


 私はスマホを握り直し、走った。走るとスニーカーの底が落ち葉を踏む。ぱりっ、と乾いた音。秋の音が、私の焦りを軽くしてくれるわけではない。焦りは焦りのまま、足首に絡む。


 本部のテントに着くと、迷子の子どもが泣いていた。母親はどこかに行ったらしい。私はしゃがんで目線を合わせて、「ここで待とうね」と言った。言い切らないように。子どもは鼻をすすりながら頷いた。しばらくして母親が走ってきて、「すみません!」と何度も頭を下げた。私は「大丈夫です」と言いながら、心の中で「大丈夫って便利な言葉だな」と思った。便利だけど、私自身の疲れは大丈夫じゃない。


 午後になると、表の人がもっと輝き始めた。


 ステージから拍手が聞こえる。歓声が上がる。模擬店の前に長い列ができる。インスタ用のパネルの前でみんな笑っている。私は掲示板の前で、イベント時間の訂正の紙を貼り直していた。上から新しい紙を重ね、古い紙を剥がす。剥がすときにテープがちぎれて、指にべたつく。べたつきが、私の不満に似ている。小さくて、目立たなくて、でも取れない。


 「いいな」


 私は口の中で言った。表で輝く人たちが、というより、「輝いているように見える状態」が。私は裏方に回ったのは自分だ。誰かに押しつけられたわけでもない。そうなのに、不満はちゃんと育つ。育つと、誤解も育つ。


 表の人は楽でいい。

 私は損な役回り。

 誰も気づかない。

 みんな、ありがとうって言わない。


 言わないのは当たり前だ。みんな忙しいし、楽しんでいるし、裏方を意識しないのが普通だ。それでも私は、勝手に「軽んじられている」と思い始める。思うと、さらに疲れる。疲れると、視野が狭くなる。狭い視野で見る世界はだいたい不公平に見える。


 夕方、日が傾いて、空が薄いオレンジになった頃、片付けが始まった。


 文化祭の終わりは突然だ。あれだけ大きかった音が、片付けの音に変わる。ガムテープを剥がす音。机を引きずる音。段ボールを畳む音。秋の風が少し冷たくなる。汗が冷えると、身体が現実に戻ってくる。


 私は掲示板の前で、最後の掲示物を剥がしていた。コルクに残ったピンを一本ずつ抜く。抜くたびに、小さな穴が増える。文化祭は終わっても、穴は残る。残る穴が、妙に愛おしい。


 そのとき、背後から声がした。


「すみません、さっき……」


 振り向くと、模擬店でずっと表に立っていた先輩がいた。顔が赤い。汗と疲れで、笑顔の筋肉が少しだけ落ちている。それでも目は明るい。


「さっき、掲示、助かりました。時間変更、私たちのせいで……」


 先輩は言い切らなかった。言い切らない謝り方。私はそれを聞いて、少しだけ意外だった。表の人は、裏方のことを見ていないと思っていた。でも見ていた。少なくともこの人は。


 先輩はポケットから小さなスタンプを出した。文化祭用の「おつかれさま」スタンプ。インクが薄い青で、丸い文字がかわいい。先輩は私のスタッフパスの裏に、それをぽん、と押した。


 ぽん。


 その音が、胸の奥に落ちた。


「これ、押して回ってるんです。今日、裏方の人にちゃんと押したくて」


 背景が一つだけ見えた。


 この人も、ちゃんと「支えられている」を知っている。


 支える側と支えられる側って固定じゃない。表にいる人も、支えられているから表にいられる。私が勝手に「表=楽、裏=損」と決めつけていただけだ。決めつけは楽だ。世界を二色にすると理解した気になる。でも二色にすると、人が見えなくなる。


 私は息を吐いた。吐いた息が、秋の冷たい空気に混じる。


「……ありがとうございます」


 言い切った。言い切ったら、声が少し明るくなった。先輩は「こちらこそ」と笑って、また段ボールの山へ戻っていった。


 私はパスの裏のスタンプを見た。小さな丸。薄い青。たったそれだけで、今日の私の疲れが一ミリ軽くなる。報われるって、たぶんこういうサイズだ。大きい拍手じゃなく、小さいぽん。


 片付けを続けていると、今度は後輩が重そうなゴミ袋を持ってよろよろしていた。私は反射で手を伸ばして、袋の下を支えた。袋の中の紙コップががさがさ鳴る。


「重いよね」


 私が言うと、後輩は「はい……」と笑った。笑いが疲れに引っかかっている。私はそこに、図書館の司書さんの淡々とした優しさを思い出した。感情を盛らずに、でも助ける。


「持ち方、こっちのほうが楽。角、握って」


 私は言って、手の位置を示した。後輩は素直に真似して、「あ、ほんとだ」と言った。ほんとだ、の一言が嬉しい。裏方は、こういう「ほんとだ」で動いている。


 片付けが一段落して、夕方の匂いが濃くなった。焼きそばのソースが薄れて、代わりに土と落ち葉の匂いが強くなる。空はさらにオレンジで、建物の影が長い。文化祭の甘さは消えていくけど、消え方が優しい。終わり方が、ちゃんと秋だ。


 帰り道、私はスマホを開いて、実行委員のグループチャットに短く送った。


『今日おつかれさまでした。掲示物、みんな協力ありがとう。片付けも助かりました』


 スタンプだけで済ませることもできたけど、今日は一言を添えたかった。感謝を言う側に回るって、そんなに大げさなことじゃない。自分の視線の向きを少し変えるだけ。


 送信して、画面を伏せた。既読がつくかどうかは見なかった。既読の数で今日を測ると、また疲れる。今日の価値は、スタッフパスの裏の薄い青の丸が知っている。


 通知が鳴らなくても、世界は続く。掲示物が剥がされても、コルクの穴は残る。残る穴みたいに、今日の「ぽん」も私の中に残って、次の誰かに押せる優しさになる気がした。

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