第29話 “いいね”の通知が遅れてくる夜

 夜のSNSは、たまに時間を巻き戻してくる。


 ベッドに入って、部屋の灯りを落とした。窓の外は暗いのに、カーテンの隙間から街灯のオレンジが細く差している。秋の夜は音が少ない。少ないのに、スマホの中は相変わらず騒がしい。私は「寝る前に少しだけ」と言い訳を作って、SNSを開いた。


 言い訳って、作るのが上手くなるほど生活が下手になる気がする。


 タイムラインを指で流して、友だちの写真、誰かの愚痴、広告、また写真。私はぼんやり見ていて、ふと、大学の頃の知り合い——真琴さんのアカウントが目に留まった。最近会っていないけど、たまに投稿が流れてくる。


 投稿は、新しいものじゃなかった。なぜか過去の投稿が表示されている。アルゴリズムの気まぐれ。秋って、そういう「なぜ今」が多い季節だ。


 真琴さんの旅行写真。海。空。笑顔。私はその写真を眺めながら、昔のことを思い出していた。ゼミで一緒だった。真琴さんはいつも余裕があって、発表も上手くて、でも人を見下さない人だった。私はそういう人が苦手で好きだった。苦手で好き、って矛盾も秋っぽい。


 いいね、押しとこうかな。


 私は親指を軽く動かした。


 ——押した。


 その瞬間、画面が少しだけ跳ねた。私の親指は、ちょうど写真の下のハートじゃなく、別の場所を触っていたらしい。私は「あ」と声が出た。


 画面に表示されたのは、さらに古い投稿。


 二年前の投稿。


 しかも、その写真の内容が、少しだけ重い。真琴さんが「いろいろあった」と書いている。コメント欄は「大丈夫?」「無理しないで」。私はそこに、誤って「いいね」を押してしまった。


 誤いいね。


 古い投稿への、誤いいね。


 最悪。


 私は即座にハートをもう一度押して解除した。解除した瞬間、息が止まる。解除すれば消える。でも、通知は相手に行くかもしれない。行ったら終わり。終わりって何が終わるのかは不明だけど、脳が勝手に終わらせる。


 私はスマホを枕の横に置こうとして、置けなかった。指が画面に戻る。戻ってしまう。通知を切れずに握り直す、あの動き。


 「見られたらどうしよう」


 誰にも聞かれない声で呟く。部屋の静けさが、言葉を反響させる。秋の夜は静かだから、恥がよく響く。


 自意識が暴走し始めた。


 真琴さんが通知を見る。

 「なんで今さら?」って思う。

 私が二年前の投稿まで遡って見ていることがバレる。

 「気持ち悪い」と思われる。

 いや、「気持ち悪い」は言い過ぎだとしても、「暇なのかな」と思われる。

 「暇なのかな」は、私にとって致命傷だ。暇じゃないふりをして生きているから。


 私は布団の中で、足の指をぎゅっと握った。握ると少し現実が戻る。戻るのに、スマホがまだ熱い。画面の光がまだ目の裏に残っている。


 既読みたいに、通知も「見られたかどうか」が気になる。見られたかどうかが、私の価値を決めるみたいに思ってしまう。そんなわけないのに。


 私は耐えきれず、真琴さんのトーク画面を開きそうになった。変な言い訳を送るために。


『さっき誤って昔の投稿いいねしちゃった!ごめん!』

『タイムラインがバグってた!』

『寝ぼけてた!』


 全部、ダメだ。言い訳が言い訳として成立するほど、相手は気にしていない可能性が高い。言い訳を送った瞬間、事件になる。事件にしたいのは私だけかもしれないのに。


 私はスマホを裏返して、布団の上に置いた。裏返すと、画面の光が消える。光が消えると、部屋が本当に暗くなる。暗いと、余計な想像が増える。人間は暗いと、自分の頭の中を照らしてしまうから。


 窓の外で、車が一台通った。タイヤがアスファルトを擦る音。遠い犬の吠え声。現実の音は淡々としている。誰も私の誤いいねを知らない音。


 それでも私は眠れなかった。布団の中で寝返りを打つたび、枕が少しずつずれていく。ずれていく枕を直しながら、私はまたスマホを手に取ってしまった。中毒というより、確認の儀式。


 通知は、来ていない。


 私の心臓が勝手に「来た」と鳴るのに、画面は静かだ。静かさが怖い。怖いから、また画面を更新する。更新するほど、時間が進む。時間が進むほど、遅れて通知が届く可能性が高まる気がする。最悪の未来を、自分で育てている。


 深夜一時を過ぎた頃、スマホが小さく震えた。


 ピロン。


 来た。


 私は反射で飛び起きた。布団がずれて、冷たい空気が腰に入る。秋の冷えは夜更けにいきなり刺さる。私は震える指で通知を開いた。


『真琴さんがあなたの投稿にいいねしました』


 ……私の投稿に。


 私の、今日の昼に上げた、どうでもいいお昼ごはんの写真に。


 え。


 私は数秒、画面を見つめた。意味が追いつかない。誤いいねの通知じゃない。普通のいいね。普通の反応。相手は私の誤いいねを気にするどころか、私の今日を見て、ハートを押しただけ。


 私は息を吐いた。吐いた息が、今度はちゃんと長かった。長く吐けるって、安心の証拠だ。


 背景が、一つだけ見えた。


 相手の世界は、私の恥を中心に回っていない。


 当たり前なのに、夜はそれがわからなくなる。夜は自分の頭の中が世界の中心になる。中心になると、恥も巨大になる。巨大な恥は、現実よりも大きく見える。でも現実の恥は、たいてい小さい。あるいは、恥だと思っているのは自分だけ。


 私は真琴さんのプロフィールに戻って、例の投稿を見に行きそうになった。そしてやめた。見に行くと、また自意識が動き出す。今は、ただ終わらせたい。終わらせるには、見ないのが一番だ。


 私はスマホの画面を暗くして、枕元から少し離れた机の上に置いた。手を伸ばさないと取れない距離。自分の癖に、物理でブレーキをかける。圭介みたいな工夫を、私はここで借りる。


 布団に戻って、耳を澄ます。秋の夜更けは静かだ。静かさは、私の恥を大きくすることもあるけど、同時に現実を戻してくれることもある。虫の声が遠くで続いている。続いている音は、事件じゃない。


 恥は、世界の中心じゃない。


 中心じゃないとわかっただけで、私は少し眠くなった。眠さって、安心の副産物だ。私は目を閉じた。通知が鳴らなくても、世界は続く。私が誤いいねしても、しなくても。秋の夜は淡々と更けていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る