第28話 図書館の返却期限と優しさ

 返却期限のレシートって、たまに人生より正確だ。


 秋の午後、大学の帰りに図書館へ向かった。駅前のイチョウがまだ黄色になりきっていなくて、緑と黄の間で揺れている。空気は乾いていて、呼吸が通る。夏の湿気の頃は、息を吸うたびに自分の中がべたついたのに、今日は肺の奥まで光が届くみたいだった。


 私はバッグの底に手を突っ込んで、本を探した。紙の角が指に当たる。あった。二冊。借りたときは「読む」って思ったのに、読むのって毎回「思う」だけで終わることがある。読みたい気持ちは本物なのに、時間が足りないふりをして、スマホの時間は足りている。そういう矛盾も、秋の光に照らされると少し恥ずかしい。


 そして、もっと恥ずかしいことがある。


 返却期限。


 私は本の間に挟まっていたレシートを引っ張り出した。薄い紙。少し折れている。印字された日付を見て、胸がきゅっと縮んだ。


 ——一週間、過ぎてる。


 図書館の延滞は、法律違反じゃない。逮捕されない。ニュースにもならない。なのに、心の中ではだいたい事件になる。私は勝手に想像した。


 カウンターで「延滞ですね」と言われる。

 後ろの人が見ている。

 司書さんが冷たい目をする。

 「ルール守れない人」ってタグを貼られる。


 そんなタグ、現実には売ってないのに、私は自分の額に貼るのが得意だ。貼って、萎縮する。萎縮すると声が小さくなる。声が小さいとさらに悪いことをしている感じが増す。悪循環。


 図書館の自動ドアが開く。中は少し暖かい。紙の匂いがした。インクと、古い段ボールと、静電気の匂い。ここでは音も柔らかい。足音さえ、マナーを知っているみたいに小さい。


 返却カウンターに近づくと、スタンプの音が聞こえた。ぽん。ぽん。淡々としたリズム。貸出印のスタンプだろう。紙に印を押す音って、落ち着く。決まった場所に決まった力で押される音。私の心も誰かにぽんと押して整えてほしい。


 私は本を胸に抱えて、列の最後に並んだ。並びながら、指でレシートをくしゃっとしそうになって、やめた。証拠を消しても、期限は戻らない。期限は、人生より正確だ。


 順番が来た。


 カウンターの向こうに、司書さんがいた。眼鏡、髪は短く整っている。年齢はわからない。図書館の人はだいたい年齢がわからない。静けさと同じ色をしているから。


「返却、お願いします」


 私は言った。言い切らない声になった。最後が少し下がる。謝罪のイントネーション。


 司書さんは頷いて、本を受け取った。バーコードを読み取る。ピッ、という小さな音。続いて画面を見る視線が少しだけ止まる。止まった瞬間、私の胃が縮む。


 来る。叱られる。優しくても「延滞ですね」は来る。


 私は先に謝ろうとした。


「あの、すみません、返却が……」


 言い切る前に、司書さんが先に言った。


「延滞になっていますね。こちら、返却処理します」


 声が淡々としていた。責めがない。感情が乗っていない。だから冷たいのではなく、だから優しい。淡々は、余計な刺を立てない。


 司書さんは画面を操作して、もう一度バーコードを読み取った。ピッ。ピッ。機械の音が、会話を代わりにしてくれる。私の罪悪感を、手続きに変換してくれる。


「延滞の期間分、貸出停止がつきます。——一週間過ぎているので、一週間停止です」


 一週間停止。罰みたいに聞こえるけど、言い方がただの情報だった。天気予報みたいな言い方。雨が降ります、傘をどうぞ、みたいな。


 私は息を吐いた。吐いた息が、自分でもわかるくらい長かった。


「……すみません」


 また謝る私に、司書さんは少しだけ首を振った。ほんの数ミリ。否定じゃなく、微調整。


「次回から、延長もできますので。オンラインで。レシートに書いてあります」


 そう言って、司書さんは返却期限レシートを指で軽くトントンと叩いた。叩く音が小さくて、私はその音で救われた気がした。叱られたかったわけじゃない。救われたかったのは、正確なやり直しの方法だった。


 背景が、一つだけ見えた。


 司書さんの優しさは、感情じゃなく段取りの形をしている。


 「許す」とか「大丈夫」とか言わなくても、仕組みで人を救える。淡々と。誰も傷つけずに。


 私は思わず笑いそうになった。延滞で笑うのは不謹慎かもしれないけど、笑いって、緊張が解けた証拠だ。


「延長、できたんですね」


 私が言うと、司書さんは少しだけ口角を上げた。笑うのも淡々としている。プロだ。


「できます。予約が入っていない資料なら。返却期限の前に操作すると、楽です」


 楽です。ああ、そうだ。私はいつも「ギリギリまで頑張る」みたいな顔をして、ただ先延ばしをしている。ギリギリの自分を、なぜか誇りにしそうになる。ギリギリはかっこよくない。疲れるだけだ。


 私はレシートを受け取って、手の中で折り目を伸ばした。紙が少し温かい。温かいのは、手の体温だ。体温があるうちは、だいたい何とかなる。


 図書館を出ると、秋の光が眩しかった。夏の光は攻撃的だけど、秋の光は「そこにあるだけ」で眩しい。空が高い。風が乾いている。外の匂いに、金木犀が混じっていた。どこかの庭の匂いが、道まで流れてくる。


 私は歩きながら、スマホを開いた。延長の方法を調べようとして、そして一瞬でやめた。今すぐやる必要はない。でも「次は前にやる」という決め方は、今できる。


 帰り道、コンビニの前で、バイト中の同級生に会った。レジの向こうで少し疲れた顔をしている。私は会釈して、何か言おうとして、言葉を探した。いつもなら「大変だね」とか「頑張ってるね」とか、気持ちを盛ってしまう。盛ると、相手に返し方の負担が増えることがある。善意が重くなる。


 だから私は、図書館の司書さんみたいに、淡々とした優しさを真似してみた。


「無理しすぎないでね。水、飲んで」


 それだけ。


 同級生は一瞬目を丸くして、それから小さく笑った。


「うん。ありがとう」


 短い返事が返ってきた。短い返事が返ってくる言葉が、たぶんちょうどいい。


 私はそのまま歩いた。返却期限レシートはバッグのポケットに入れた。捨てない。戒めとしてじゃなく、段取りのメモとして持っておく。紙の匂いが、まだ指に残っている。


 通知が鳴らなくても、世界は続く。延滞しても、図書館は閉まらない。淡々と処理して、次の方法を置いてくれる人がいる。私も、誰かにそういうふうにできるかもしれない。秋の光の中で、そんなふうに思った。

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