Spring 🌸
第1話 不在票の三角関係
朝のトイレって、世界の中心がやけに狭い。タイルの冷たさと、換気扇の低い唸りと、紙の芯が少しだけ傾いているのが全部わかる。そこに、ピンポーン、とマンションのインターホンが鳴った。
私は反射でスマホを握り直した。画面は通知だらけで、いちばん上に「配達中」。だけど今、私は配達される側の体勢ではない。
もう一回、ピンポーン。
「は、はい……」
声だけ出して、体は動かない。動けないじゃなく、動きたくないでもなく、動ける時間が足りない。誰に説明するでもないのに、頭の中で言い訳が瞬時に渋滞する。三つ四つ、角を曲がってぶつかって、結局どれも口に出ない。
そして、静かになった。
十分後、玄関ドアの下に差し込まれていた白い紙が、廊下の光でやけに眩しく見えた。不在票。四角いのに、受け取るたび心が少し三角になる。
私はそれを拾って、いったん広げ、すぐ畳み直す。折り目が昨日の折り目と重ならない。変なところで几帳面が働いて、そこに小さく敗北感が生まれる。
廊下は古い。塗装が薄くなった手すり、少しだけガタつく消火器箱の扉。外階段へ抜ける避難口の表示が、いつもよりはっきり見えた。春の朝の光は、遠慮がない。
エレベーターで下りながら、私は配達アプリの設定画面を開いた。置き配。やったことはあるけど、いつもは「手渡し」に戻していた。理由は、なんとなく。置き配って、便利の顔がちょっと強すぎる気がして。
だけど今日は、不在票をもう一枚増やしたくなかった。
「玄関前に置く」にチェック。宅配ボックスは……うちには共用のがない。だから自分の宅配箱を出す。畳めるやつを、ネットで買ったやつを、玄関脇に。
私は出勤の準備をしながら、その箱を廊下に置いた。折りたたみの線がしっかりしていて、妙に頼もしい。そこに貼る「置き配OK」のステッカーが、少しだけ恥ずかしい。自分の便利が、文字になって主張してくるからだ。
その日の夕方。電車のドアが閉まる音を背中に、私は帰ってきた。コンビニ袋がカサカサ鳴って、廊下に余韻が残る。玄関前に、箱がある。中に、荷物がある。成功。
嬉しくて、私は一瞬そこで立ち止まった。まるで誰かから褒められるのを待ってるみたいに。
隣の佐藤さんのドアが、ちょうど開いた。
佐藤さんは私より少し年上で、いつもスリッパの音が静かだ。郵便受けから何かを抜き取って、私と宅配箱の横を通る。通ろうとして、ほんのわずかに身体をひねった。
「……」
言葉は出ない。出ないけど、空気がひとつ、こすれた。
私は咄嗟に箱を引いた。引いたけど、引く方向が悪かった。廊下の真ん中に寄せる形になって、逆に通り道が狭くなる。
「あ、ごめんなさ……」
「いえ……」
佐藤さんは怒鳴らない。むしろ、謝るのが私だけで済むように、言葉を短くしてくれている感じがした。だけど、その短さが、私の想像を勝手に伸ばす。
“迷惑だったんだ”
“置き配って、そういうことだよね”
“でも、だって、不在票は嫌で……”
私は宅配箱のフタを開けて、中身を抱えた。段ボールの角が掌に当たって痛い。その痛さを、うまく使えないまま、玄関の中に逃げ込む。
夜、洗面台の鏡に映る自分は、思ったより元気そうで腹が立った。私は不在票をキッチンの端に置いて、また畳み直す。紙の角が、指先の水で少し湿る。
翌朝。ゴミ出しのついでに、管理組合の掲示板を見る。掲示板はエントランスの隅にあって、いつも誰かの注意が貼られている。「自転車は所定の場所へ」「廊下に私物を置かないでください」。読んでると、自分が悪い気がしてくる装置だ。
今日も、あった。
『共用部(廊下・階段)への私物の放置は避難の妨げになります。防災上の理由により、速やかに撤去してください。管理組合』
私はその紙を見ながら、自分の宅配箱のサイズ感を頭の中で測った。あれは、放置……? いや、放置じゃなく、設置。私の中で言葉の言い訳が始まる。
後ろから、足音。
「美咲さん」
振り向くと佐藤さんが立っていた。手には、小さなメモ用紙。掲示板に貼られている紙よりずっと柔らかい、家のメモ帳っぽいやつ。
「これ、昨日言えなくて」
佐藤さんは私にメモを差し出した。受け取ると、紙が少し温かい。たぶん、さっきまでポケットに入っていた。
そこには短く書いてあった。
『廊下のもの、避難経路で引っかかりやすいです。昔、うちの階で少し火が出た時、煙で視界がなくて。あの時、段ボールにつまずいた人がいて……それだけです。怒ってません。佐藤』
“それだけです”が、妙に効いた。全部を説明していないのに、ひとつだけ見える。煙の匂いと、足元が見えない怖さ。私はその場で想像して、背筋が少し冷えた。
「あ……そう、だったんですね」
「たいしたことじゃないんですけど。思い出しちゃって」
佐藤さんは笑いかけるでもなく、顔をしかめるでもなく、ただ視線を少しだけ外した。言いづらいことを言った人の目の置き場だった。
私は、宅配箱の位置を思い出す。玄関前、廊下側に少し出ていた。便利の分だけ、外に膨らんでいた。
「私、ちょっと……変えます」
「うん……」
佐藤さんは頷いて、そのまま郵便受けの方へ歩いた。スリッパの音が、掲示板の前を通り過ぎる。音は消えるのに、メモの言葉は手の中に残る。
部屋に戻って、宅配箱を持ち上げた。畳んで、玄関の内側に置けるサイズにする。次に、配達アプリを開く。「玄関前」じゃなく「宅配バッグに入るサイズのみ置き配」「それ以外は日時指定」。細かい設定が、妙に現実的だ。
それから、管理規約のPDFも一応探した。スマホで読むと文字が小さくて、私は思わず画面を近づける。こういうところで目が疲れるんだよな、と自分に小さくツッコミを入れながら。
次の配達は、帰宅時間の枠に合わせて指定した。置き配に頼りきらない。頼りきらないって、負けじゃなく、調整なんだと思うことにした。
数日後、またインターホンが鳴った。今度はトイレじゃない。私は玄関まで歩いて、ドアスコープの小さな丸の中に配達員さんの帽子を見つける。
「はい」
受け取って、ドアを閉める。廊下に何も残らない。残らないのに、なんだか前より軽い。
その夜、ゴミ出しに出た廊下で、ふと春の匂いがした。桜はまだだけど、桜の前の土の匂い。乾いた風が、古いマンションの壁をすり抜けてくる。遠くで電車が通る音がして、誰かの部屋の換気扇が回っている。
私はポケットの中で、不在票の紙の感触を思い出す。最近は増えていない。それでも世界は、通知なしでも続く。続くからこそ、こちらも少しだけ、動かし方を変えられる。
廊下の光は相変わらず遠慮がなくて、私はそれを受け流すみたいに、そっと扉を閉めた。
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