寝る前のショートショート
Algo Lighter アルゴライター
プロローグ
駅の改札は、いつも少し急いでいる。
ピッ、という乾いた音が鳴るたび、人は自分の朝を取り戻したような顔をして、でもすぐ次の用事に追い立てられる。改札を抜けた先の階段で、誰かが立ち止まると、後ろの列がほんの一瞬だけ波打つ。ぶつからない程度に、でも「早くして」と言いたい程度に。
美咲は、その波打ちを見てしまうタイプだった。見なければいいのに、見てしまう。見た上で、どうにもできない。だからせめて、心の中で段差を数える。段差は八段、手すりは左、広告は転職サイトが三枚続いている。今日もそうだ、と確認できると、生活は少しだけ落ち着く。
スマホが震えた。通知音は鳴らない設定にしているのに、画面は光る。既読、未読、スタンプ、配送状況。世界が小さな四角に収まって、そこから漏れる光が、たまに現実より強い。
「置き配にしたら楽なのにな」
電車の中で誰かが言った。
「でも廊下に置くとさ、避難経路がね」
別の誰かが言って、話はそれ以上進まなかった。正しさは、みんな持っている。問題は、正しさの形が同じじゃないことだ。
亮は、会社のチャットを開いて閉じて、開いて閉じた。送るべきか、今じゃないか。誠実であるほど、タイミングが難しくなる。紗季は、既読の数字を見て胃がきゅっとなるのを、毎回「気のせい」で押し戻す。遥は、部屋の隅に置いたぬいぐるみのほつれを見つけて、今日はそれだけで気持ちが沈む。奏は、ポイントが貯まる表示に少し救われ、同時に自分の単純さに照れる。圭介は、自転車のベルを鳴らすべきか迷いながら、鳴らさずに減速する。
誰も悪くない日ほど、生活には摩擦が多い。
便利は、善意と同じ顔をして、たまに公共にぶつかる。沈黙は、拒絶と同じ形をして、たまに優しさの休憩になる。
この街には、そういう小さな段差が無数にあって、人はそれぞれの足の長さでつまずいたり、またいだり、知らんぷりをしたりする。
だから物語は、派手な事件から始まらない。
インターホンに出られなかった、ただそれだけ。
ミュートを押し忘れた、ただそれだけ。
返すのが遅れた、ただそれだけ。
でも「ただそれだけ」の背後に、理由が一つだけ置かれたとき、生活はほんの少し、なめらかになる。
改札の音が、また鳴った。
ピッ。
誰かの一日が、始まる音だった。
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