第2話 国宝
俺の箸から卵焼きが落ちていく。
俺の心も恋に落ちていく。
誰もいない空き部屋で、好きな人と二人きり。漫画やアニメでしか見ないような展開が今ここにある。
宝石のような瞳が俺の視界に入る。美しく開くまつ毛も相まって、青い薔薇のようなそれは俺の心に突き刺さる。
「……ここ、いいかな?」
神が遣わした天使が指さす場所は、部屋の隅の椅子と机。どちらもシンプルなもので、本来なら俺の座るもっちりとした椅子を明け渡すべきなのだろうが、そこまで思考がたどり着かない。
「だ、大丈夫ですよ」
美の王のような存在を前に、震えが止まらない。心臓はウサギのように早くなっている。狩られる側の気持ちに勝手になっている。
そんな俺の心など知らぬと言わんばかりに、彼女は椅子に座って机に弁当を広げる。
天使の弁当箱は、銀色の2段。2段なのは身長が高い彼女を思うと解釈一致でもあり、弁当箱のシンプルさは彼女の煌びやかな顔面からするとギャップ萌えでもある。
次々と口に運ばれていく料理たちに嫉妬する。
どれだけの徳を積めばその美しい舌に転がされることが出来るのだろうか。
俺がじっと見ていることに気づいたのか、こちらを一瞥する神からの贈り物。
慌てて目をそらし、寂しそうにしている弁当箱の中の食材たちと向き合う。
人は美しいものに惹かれるものだ。価値観は変われど、芸術はいつの時代も絶えず
、時の成功者のそばには麗しい女性がいる。
そう、これは人間の摂理であり、仕方がないことなのだ。
”そんなことでいいのか? 俺”
その時、頭の中に声が響く。自問自答だ。
俺はいつも大衆の反対を歩んできた。どんな理にも逆張りして生きてきた。
世界から溺愛された女性を、ただ一人のオーディエンスとして眺めるだけでいいのだろうか? それは自分の心を否定することになるのではないか?
悪いが、俺は行くぞ。
「あ、あの、お、おおお、王子さん、ど、どうしてこここに来らっれたんですか?」
急にアクセルを踏んだら、目の前の壁に激突してしまった。大失敗である。
逆張りをするということは、時に大けがを負うリスクを背負い続けることなのだ。
「教室だと落ち着かないから」
捨てる神あれば拾う神あり。
俺が投げた渾身のボール球を、王子さんは見事に打ち返してくれた。
それだけで絶頂しそうだ。と言うか声が聞けただけでも、もう漏らしちゃいそうなぐらいだ。
「そ、そうなんですね。に、人気者は大変だ」
敬語交じりのキモ文体でしか話せなくなってしまった。これは美少女を目の前にした人間の致命的なバグと言って差し支えない。
このままでは、声帯が小鹿のように震えている人間だと勘違いされてしまう。
”事実だろ”
俺は脳内のシャッターを閉め、心の中のもう一人の俺に長期休暇を与える。どこか知らない島にずっと居てくれ。
「わかってくれる?」
脳内会話を繰り広げていて気付かなかった。
俺の視界はこの世で一番美しい顔面のドアップで埋まっていた。
最初は、王子さんの美しさに適応した俺の眼にズーム機能が搭載されたのかと思った。しかしそれは人間的にあり得ない。人類の進化がそんなに早いなら、俺はぼっちなんてやってないはずだ。
考えられる可能性は一つ。
俺の視界が埋め尽くされるほどの距離に王子さんがいる、と言う可能性。
「わ、わぁ……」
なんか地位が低くて可愛げのない生き物になる俺。
好きな人が至近距離にいることが、こんなにも脳を破壊するのか。
わずかな呼吸や瞬きでさえ感じ取れてしまう距離。俺の心臓のBPMは600を優に越しているはずだ。
「私の気持ち、わかってくれるの?」
あまりの緊張に地蔵と化した俺に、しびれを切らした天使が再度質問を投げかける。
「わ、わかんないでもないです。人といるのが大変って気持ちは」
俺は更地になった脳みそを何とか回し、出来合いの言葉を紡ぐ。
「そう」
彼女は俺の目の前に二文字だけ残して、元居た場所へと戻っていく。
何の時間だったんだよ今の! 俺を弄んでいるのか?
いや、そういうバカにした雰囲気は感じ取れなかった。
まさか、素で距離が近い人間なのか? そんなことが許されていいのか?
ダヴィンチが本気で創った彫刻のような顔面が、軽率に人の視界を埋め尽くす。そんなことを何度もやられては、やられた側の心臓が持たない。全人類が不整脈になり、循環器内科の医師が過労で倒れてしまう。
だが、彼女がまた平然と食事を取り始めたところを見るに、この仮説は妄想ではないのかもしれない。
だからと言って、本人にそれを聞く勇気もない。
俺は天使から目をそらし、黙々と自分の食事を口の中へ放り込む。
しかし、口の中はラブで満ちていて、何の味もしない。ご飯を水で流し込んでるみたいだ。
短くない沈黙が続いた後、王子さんが突然立ち上がった。
俺が目をそらしている間に食事を取り終えたようだ。
「また明日」
その言葉だけを残して彼女は光の中へと消えていく。
俺の心に甚大な爪痕を残したことに気づかぬまま。
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