第22話 街の呼吸

朝の光は、昨夜よりも白かった。


ほとんど眠れなかったはずなのに、目が覚めるのは早かった。

 宿の中はまだ静かで、階下から物音はしない。


 高成は、やはり起きて外を見ていた。


 いつからそうしていたのかは分からない。

 ただ、朝の空気の中に、その気配が溶け込んでいる。


 「行くぞ」


 それだけ言って、戸を開ける。


簡単な朝餉を摂り、


 外に出ると、街は昨日とは違う顔をしていた。


 同じ道。

 同じ建物。

 それなのに、人の歩き方も、声の張りも違う。


 朝の街だ。


 まいは、無意識に周囲を見回す。


 昨日見た顔がいない。

 代わりに、知らない人間ばかりが行き交っている。


 高成は、昨日とは別の道を選んだ。

 遠回りとも近道とも言えない、曖昧な進路。


 露店の並び。

 道の広さ。

 人の溜まり方。


 高成は歩きながら、それらを一つずつ拾っているようだった。


 まいには、理由までは分からない。

 けれど、ただ歩いているわけではないことだけは分かる。


 街の空気を、測っている。


 そう思った。


 朝の通りを抜けたあと、高成はしばらく人の動きを眺めていた。


 行き交う荷車。

 声を張り上げる行商。

 立ち止まっては、人を探す視線。


 高成は、その中の一つにだけ、足を向けた。


荷車が止まり、人が集まり、また散っていく。

 その中で、一人だけ、同じ場所に立ち尽くしている男がいた。


 高成は、荷を一目見てから声をかける。


 「どこまでだ」


 男は一瞬だけこちらを測り、


 「倉の裏まで。箱は三つ」


 高成は短く頷いた。


 「いくらだ」


 それで話は終わった。


 木箱は重いが、運べないほどではない。

 まいは、何も言われずとも一つを抱える。


 通りを塞がぬよう、端を選んで歩く。

 急がない。

 落とさない。


 倉に着くと、男は箱の数を確かめ、懐を探った。


 差し出された銭を、高成は受け取らない。


 まいを見る。


 まいは一歩前に出て、両手で受け取る。


 「……確かに」


 そう言って、頭を下げた。


 男はそれ以上、何も言わなかった。


 用が終われば、それで終わりだ。


 通りへ戻ると、高成は何事もなかったように歩き出す。


 まいは、手の中の銭の重みを確かめながら、後を追った。


商人が、まいに目を向ける。


 「助かったよ」


 まいは一瞬ためらい、それから口を開いた。


 「……ありがとうございます」


 声は小さいが、ちゃんと届いた。


 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。


 ここにいた。

 そう思ってもらえた気がした。


 昼近くになると、人の流れがまた変わる。


 高成は屋台の前で足を止め、簡単な食事を取った。

 まいが食べ、高成はほとんど口をつけない。


 それでも、そこに座る。


 人目のある場所で。


 食べ終わる頃には、陽が高くなっていた。


 午後、高成は街道へ続く方角を何度か眺めた。

 分かれ道。

 立札。

 行き交う人間の話し声。


 聞いているのか、聞いていないのか分からないほど静かに。


 まいは、その背中を見て思う。


 この人は、ここに留まるつもりがない。


 休むために来ただけだ。

 次へ進むために。


 それが、はっきり伝わってくる。


夕方が近づくと、高成は一度、宿の方角へ向きを変えた。


 戻る。

 だが、拠点にするほどではない。


 まだ、決めていないのだ。


 今夜、泊まるかどうかを。


 まいは、黙ってついて行く。


 昨日より、ほんの少しだけ歩きやすかった。



日が傾き始めた頃、高成は通りの端で足を止めた。


 夕餉の支度をする匂いが漂い、人の声も少し柔らぐ。

 街は、昨日よりも落ち着いて見えた。


 それなのに――

 高成の視線だけが、静かに動いている。


 まいは、その変化に気づいた。


 歩幅が、ほんのわずかに変わった。

 進路が、人の少ない方へ寄る。


露店の前を通り過ぎるとき、高成は一度だけ立ち止まった。


 道の脇に、僧が立っていた。


 旅の僧だ。

 色の褪せた法衣に、擦り切れた頭陀袋。

 鉢は持っていないが、街に溶け込むような佇まいをしている。


 高成は、何気ない顔で、その僧に声をかけた。


 言葉は低く、短い。


 まいの位置からでは、内容は聞こえない。



 僧は一度だけ高成を見上げた。


 すぐには答えない。


 通りの喧騒が、その間を埋める。

 人の声。

 木皿の触れ合う音。


 それでも――

 その沈黙だけが、不自然に残った。


 それから、僧は静かに何かを返す。


 高成は、それ以上何も聞かず、頷いて歩き出した。


 まいは後を追いながら、胸の奥がざわつくのを感じる。


 理由は分からない。

 ただ、さっきまで街に溶け込んでいた景色に、小さな綻びが入った気がした。


 今の僧は、

 助言をしたようにも、

 確かめただけのようにも見えた。


 どちらにせよ――

 高成が、何かを受け取ったのは確かだった。



 今のは、何だったのだろう。


 「……何か、ありましたか」


 思わず、そう聞いていた。


 高成は、すぐには答えない。


 通りを一本外れ、宿の方角へ向かってから、ようやく口を開いた。


 「ここは、明日までだ」


 断定だった。


 理由は告げない。

 迷いもない。


 まいは、一瞬言葉を失う。


 昼までは、まだ余裕があるように見えた。

 街は穏やかで、誰も疑っていないように思えた。


 「……危ない、ですか」


 高成は首を振る。


 「今すぐではない」


 その否定が、逆に重い。


 「だが、近い」


 それ以上は、言わなかった。


 宿の屋根が見えてくる。


 まいは、胸の内で理解する。


 この人は、

 街の変化を理由にしていない。


 変わる前の兆しを拾ったのだ。


 昨日と同じ道。

 同じ人の流れ。


 それでも、

 もう同じではないと、判断した。


 まいは、何も聞かずに頷いた。


 理由は分からなくても、

 この決断が間違っていないことだけは、分かった。


 夕暮れの街を背に、二人は宿へ戻る。


 この場所は、

 休むための場所であって、

 留まる場所ではなかった。



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