第18話 追う者と紛れる者


弥助は村外れで足を止めた。


 踏み固められた道は二つに分かれている。

 東へ向かう道と、南へ下る道。


 どちらも、幾度となく通ったことのある道だった。


 南雲の兵が村に入ったのは、つい今朝のことだ。

 まいが姿を消したのは、それより前。

 逃げるだけの時間は、確かにあった。


 弥助は、まず東の道を見た。


 敵国に近く、関所も多い。

 戦の噂が絶えぬ土地だ。


 女の足で抜ける道ではない。

 それは、考えるまでもなかった。


 弥助自身も、東へ入ることを避けて生きてきた。

 命が安い土地だと知っている。


 視線を南へ移す。


 人が多く、道も複雑だ。

 商人、旅人、寺社――身を隠す場所はある。


 だが、その分、南雲の目も届く。


 女一人で選ぶには、危うい道だった。


 弥助は、短気な面があるが浅慮ではない。


 急いではいる。

 だが、考えなしでは、まいを追えない。


弥助は考えた。


 ――もしかしたら、まいは一人ではないかもしれない。


 そう思ったところで、甲冑を纏った人の足音が近づいた。


 弥助は咄嗟に茂みに身を寄せ、腰を落として息を潜めた。


 通り過ぎるのは、南雲の兵だった。

 二人。

 気を抜いた声が、わずかに聞こえる。


「村の方はハズレだったな。」

 「女一人の逃げ方じゃねぇ」


どうやら、まいの話をしているようだ。

弥助はよりいっそう注意深く耳を傾けた。


 「お前、噂知らねぇのか?女を連れ出したの、あの方だって…」

「あの方?」

 「……ここじゃ名前は出せねぇ。極秘事項なんだろうさ」


 短いやり取りだった。

 それ以上の話はなく、兵はそのまま南へ進んでいく。


 弥助は動かなかった。


 今の言葉を、頭の中で反芻する。


 女一人ではない。

 道を知る者が付いている。


 道中見た兵の動きも、闇雲ではなかった。

 数を絞り、行き先を定めている。


 ――南だな。


 弥助はそう結論づける。


 生き延びるなら、東ではない。

 人に紛れられる南だ。


 それに、誰かが付いているなら、なおさら。


 弥助は南へ続く道に足を向けた。


 急がない。

 騒がない。


 追いかけるのではなく、辿る。

 残された痕跡を拾い、話を聞き、確かめながら進む。


 生きていれば、必ず行き着く。


 そう信じて、弥助は静かに歩き出した。





━━




同時刻、まいと高成は小屋を出て南方へ出立していた。


小屋を出たとき、すでに日が高かった。


夜の名残はすでになく、山の空気は乾いている。

 昼の光は、隠れる影を少なくする代わりに、すべてを同じ色に塗りつぶしてくれた。


 高成は馬の手綱を取り、何事もなかったように歩き出す。

 その背中を、まいは少し距離を置いて追った。


しばらく無言で歩いてから、まいは口を開いた。


「あの……」


「なんだ」


言葉は冷たいが、それが拒絶ではないことがわかったから、まいは続けた。


 「東の川で、私たちが死んだように見せかけてましたよね」


高成は歩みを止めず、まいを一瞥する。


 「それでも、まだ追っ手はかけられているのでしょうか?」


 少し間があった。

 高成は、前を見たまま答える。


 「どうせ、完全には信じていない」


 まいは、握っていた袖に力を込める。


 「じゃあ、あれは……」


 「時間稼ぎだ」


 よく分からず、高成の言葉待った。それを察したのか、高成は短いため息の後、端的に説明してくれた。


 「あそこで痕跡が途切れれば、兵は迷う。

 東を探すか、南を見るか。

 全力で動けなくなる。それだけで十分だ」


「なるほど……」


 まいはしばらく何も言えなかった。


 その言葉の少なさに、この人がどれだけの場数を踏んできたのかを思い知らされる。


同時に、すごい……と子どもみたいな感想が胸に浮かんだ。


おかげで説明に納得はしたが、不安は消えない。


 今の自分たちは、一見逃げている二人ではない。


 南方の行商に雇われた護衛と、荷運びを手伝う娘。

 山を越えてきた途中で、これから南の街に入る――

 そういう体でいる。


 そう思うだけで、背中が強張る。


 着ているものは地味だ。

 色も形も、どこにでもある。


 それでも、視線を集めないわけではない。

 まいは顔を伏せ、歩幅を高成に合わせる。


 「離れるな」


 前を向いたまま、高成が言った。


 声は低く、昼の音に紛れてしまいそうなほど小さい。

 だが、まいにははっきり届いた。


 高成は振り返らない。

 それが、今の役割なのだと分かる。


 護衛は、娘の顔を確かめたりしない。

 危険を見るのは、前だけだ。


 道は次第に整い、踏み固められていく。

 森の匂いが薄れ、人の気配が混じり始めた。


 遠くで、話し声がする。

 荷車の軋む音。

 金属が触れ合う乾いた響き。


 街が近い。


 胸の奥が、わずかに騒いだ。


 高成の背中は変わらない。

 歩き方も、速さも。


 夜に動く者ほど疑われる。

 高成は、昼に紛れる方が生き残ると知っている。


 その経験が、今はまいの命を支えている。


 街に入れば、人に混じる。

 名を捨て、過去を伏せる。


 まいは、ぎゅっと袖を握りしめた。


 まずは、南方の街に入り込む。

 それだけを考えて、歩く。


 逃亡はまだ終わっていない。

 

 生きる場所は、前にしかなかった。









山道が、ゆるやかにほどけていった。


 踏み跡ははっきりし、足元の石も減る。

 代わりに、乾いた土の匂いと、かすかな煙の匂いが混じり始めた。


 人の暮らしの匂いだ。


 まいは、思わず息を整えた。

 山の静けさとは違う。

 ここから先は、隠れればいいわけではない。


 高成は一度だけ足を止め、周囲を見回す。


 「ここからは、あまり視線を動かしすぎるな」


 低い声で、それだけ言った。


 まいは他の村は初めてだった。

 無駄にきょろきょろと見ていたのがバレていたらしい。 


 頷き、視線を落とす。

 草の間から、屋根の端が見えた。

 瓦でも板でもない、粗末な家並み。


 里だ。


 遠くで、子どもの声がした。

 鍬が土を打つ音。

 荷を引く足音。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 逃げているはずなのに、

 人の中に戻ることが、こんなにも怖い。


 高成は、もう護衛の顔をしていた。

 背筋を伸ばし、歩幅を一定に保つ。


 まいは、その半歩後ろに続く。


 護衛の手伝いの娘。

 名も事情も、どこにでもある存在。


 そう思い込ませるように、まいは歩いた。


 里へ降りる。


 それは、逃げの終わりではない。

 隠れるための、始まりだった。

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