第8話 大丈夫が言えない
夜、部屋の電気を消したあとって、音が増える。
冷蔵庫の低い唸り。
廊下の遠い足音。
窓の外の車の走る音。
聞こえる音じゃなくて、感じる音。
舞はベッドの上で、スマホの画面だけを光らせていた。
私は枕元の杖に指を置いて、呼吸を整える。
今日の足は、ギリギリだった。
「やばい」じゃない。
でも「無理したら壊れる」っていう、嫌な手前。
私は、痛みの数を数えるみたいに目を閉じた。
そのとき、カーテンの向こうから布の擦れる音。
舞が起き上がった気配。
舞は、いつも私の寝返りで起きる。
それが怖い。
怖いって、舞が怖いわけじゃない。
舞の「気づき」が、私に向いているのが怖い。
舞がカーテンを少しだけ開けた。
こちらの暗さを邪魔しない程度に。
舞はスマホをこちらへ向けた。
『紬さん』
『足、痛いですか』
私は一瞬、目を開けたまま固まった。
どうして分かったのか分からない。
でも、舞は分かる。
たぶん、私が息を浅くした。
たぶん、布団の中で足をかばった。
たぶん、その全部。
私は口を動かした。
「……大丈夫」
言いかけて、止めた。
貼り紙。
『大丈夫』禁止。
舞はそれを、私以上に守ろうとする。
私が破ったら、舞が一番困る。
私は、言い直そうとした。
「……痛い、ってほどじゃない」
言い訳みたいになった。
舞の顔が少しだけ強張る。
目が、私の口元を追う速度が上がる。
舞はスマホを打つ。
『痛いなら』
『冷やしますか』
『スタッフ呼びますか』
スタッフ。
その単語が出た瞬間、胸がきゅっとなる。
呼ばれたくない。
大事にされたくない。
手間をかけさせたくない。
私は今まで、そういうのを「大丈夫」で終わらせてきた。
でも今日は言えない。
私は言葉を探して、喉が詰まる。
舞は黙って待つ。
待ってくれる。
だから余計に、早く何か言わなきゃって焦る。
私は、変なことを言った。
「舞は、寝て」
舞が一瞬止まった。
それから、スマホ。
『寝られません』
『紬さんが、困ってる』
困ってる。
私は困ってない、って言いたい。
でも“困ってない”の代わりに、いつも“大丈夫”を使ってた。
私は、息を吸って、吐いた。
言い換えを探す。
「……今は、耐えられる」
舞の目が、少しだけ揺れる。
耐えられるって、安心の言葉じゃない。
舞はスマホ。
『耐えるのは』
『だめです』
『休むって言いました』
舞のほうが、私のルールを守る。
私は笑いたいのに笑えなかった。
「……休むよ。休んでる」
舞は、もう一回スマホを打つ。
『痛いですか』
『怖いですか』
『分からないですか』
貼り紙の三つ。
舞が私に選ばせる。
逃げ道を塞ぐんじゃなくて、戻り道を置く。
私は、どれも少しずつ当てはまって、選べなくなる。
痛い。
でも言うと、舞が動く。
怖い。
でも言うと、舞が壊れそうな顔をする。
分からない。
でもそれは私の側の分からないじゃない。
私は、黙った。
黙ると、舞の顔が白くなる。
舞は声を出せない。
でも、息が浅くなるのは分かる。
肩が少し上がって、目が点みたいになる。
舞はスマホを見せた。
『分からない』
『こわい』
『何が起きてるか、分からない』
あ。
私が“安心させたい”と思って黙ったせいで、舞を不安にした。
最悪。
私は慌てて口を動かした。
「ちがう。舞、ちがう」
舞は私の口元を見てる。
でも、目がもう追いついてない。焦ってる。
舞はスマホを打つ手が速い。
『救急』
『呼びます』
『いいですか』
救急。
それはだめだ。
私は手を伸ばして、舞のスマホに触れそうになって止めた。
勝手に止めたら、舞はもっと怖がる。
私は、両手を胸の前に上げた。
手話の形を思い出す。
『待って』
舞が覚えた『待って』の形。
私が真似したやつ。
私はその形を出して、舞の目を見た。
舞の視線が、私の手の形に止まる。
一秒。二秒。
舞の肩が、少しだけ下がる。
私はゆっくり、口を動かした。
「今、救急は、いらない」
舞が頷く。
でもまだ不安は残ってる顔。
私は続けた。
「足が少し擦れてる。痛い。でも、危険じゃない」
危険じゃない。
それなら言える。
“安心”を、別の言葉にできる。
舞はスマホを見せた。
『本当に?』
私は頷いた。
頷くだけじゃ足りないのも分かってる。
私はスマホを取って、文字を打つ。
短く。見せる。
『救急いらない』
『少し擦れた』
『冷やすか、貼り替えたら落ち着く』
『もし悪化したら言う』
舞の目が、その文字を追う。
追い終わったあと、舞は深く息を吐いた。
音はないけど、分かる。
舞はスマホを打った。
『「悪化したら言う」』
『大事』
『約束』
約束。
私は頷いた。
「約束する」
舞はそれを見て、ようやく本気で落ち着いた顔になった。
舞が立ち上がって、机の引き出しを開けた。
絆創膏。消毒のワイプ。小さい保冷剤。
この部屋、救急箱が増えてる。
舞はスマホ。
『貼り替えますか』
『触ってもいいですか』
舞は、そこだけは絶対に飛ばさない。
同意。
私は頷いた。
「いい」
舞はベッドの端に座って、私の足元を見る。
でも、すぐ触らない。
まず私の顔を見る。
舞の指先が、義足の硬い部分に軽く触れる。
冷たいのに、扱いだけがあたたかい。
私は小さく息を吸った。
舞は貼り替えを手伝う。
手つきが、すごく丁寧。
ここに触れたら痛い、っていう場所を避けるみたいに。
貼り替えが終わるころには、痛みが少し落ちた。
舞はスマホを見せた。
『今』
『痛み、何点ですか』
舞の点数制。
いつの間にか、私の生活に入ってきたやつ。
私は少し考えて言う。
「……さっきが7。今が4」
舞は頷いた。
それから、スマホ。
『4なら』
『寝られますか』
寝られる。
寝たい。
私は頷いた。
「寝られる」
舞は少しだけ笑って、でもすぐ真面目な顔に戻る。
スマホを見せる。
『紬さん』
『「大丈夫」言えなくて困りましたか』
私は、その質問で少しだけ笑った。
「困った」
舞の肩が揺れる。無音の笑い。
でも、すぐに文字。
『私も』
『困りました』
私は正直に言う。
「安心させたかった。でも、言葉がなくて」
舞が、少しだけ目を細める。
敬語が出そうで出ない顔。
舞はスマホを打つ。
今日は句読点が少ない。
『安心の言葉』
『作りましょう』
作りましょう。
ルールと同じ口調。
私は頷いて、貼り紙の方を見た。
舞も立ち上がって、ペンを取った。
貼り紙の前に並ぶ。
夜の白い壁。
ルールの文字が、昼より少しだけ柔らかく見える。
舞がスマホを見せた。
『「大丈夫」禁止』
『でも』
『安心は必要』
私は「うん」と言って頷いた。
舞はペンで、新しい欄を作った。
題名を書いて、そこに小さく線を引く。
「安心の言い換え」
舞が書いた。
「今は落ち着いてる」
「危険じゃない」
「助けが必要になったら言う」
「待って(説明する)」
「一緒に確認して」
最後の「一緒に確認して」が、舞っぽい。
私はその文字を見て、胸が少しだけ軽くなる。
舞はスマホを見せた。
『今日の正解』
『「危険じゃない」』
『「悪化したら言う」』
私は笑ってしまった。
「舞、採点するじゃん」
舞は肩を揺らして笑う。
そしてスマホに、短く。
『うん』
敬語じゃない一文字が、今日も効く。
私はベッドに戻って、布団を肩まで引き上げた。
舞も自分のベッドに戻る。
でも、すぐには横にならない。
私のほうを見る。
舞はスマホ。
『今』
『危険じゃない?』
確認。
舞の安心の儀式。
私は口をはっきり動かして、言った。
「危険じゃない。今は落ち着いてる」
舞が頷く。
それから、やっと布団に入った。
部屋の暗さが戻る。
冷蔵庫の音。
廊下の遠い足音。
窓の外の車の音。
私は目を閉じる。
“大丈夫”って便利だった。
でも便利なせいで、舞の世界を真っ暗にしてたこともある。
だから、言い換える。
危険じゃない。
今は落ち着いてる。
助けが必要になったら言う。
それは、舞のためでもあるし、私のためでもある。
眠りに落ちる直前、舞から最後のメッセージが来た。
『ありがとう』
『言ってくれて』
私は画面を見て、小さく頷いた。
ありがとうを増やすのは、禁止されてない。
私は返した。
『こちらこそ』
『待ってくれて』
送信して、今度こそ目を閉じた。
夜の中で、ルールが一つ増えた。
怖いものが、また少し減った。
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