第20話 Bug: Fatal Error(致命的なエラー)

「わぁっ! すごーい! 黒狐さん、今の剣技見ました!? かっこよすぎですぅ〜♡」


 私は声を弾ませ、ドローンカメラに向かって愛想を振りまく。

 画面の向こうでは、同時接続数10万人を超える視聴者が熱狂しているらしい。

 視界の端を流れるコメント欄。「アリスちゃん天使」「てぇてぇ」「結婚して」。

 無数の賞賛、愛の言葉。


 それを見ても、私の心は1ミリも動かない。

 いつものことだ。

 この笑顔も、驚いたふりも、紅潮した頬さえも。

 すべては脳内で計算され、筋肉に正確に出力された「演技データ」に過ぎないのだから。


 ――私は、空っぽだ。


 幼い頃から、そうだった。

 世界はいつも、薄い膜の向こう側にあるように感じられた。

 美しい花を見ても、可愛い子犬を見ても、頭の中に浮かぶのは「花だ」「犬だ」という記号的な認識だけ。

 心が震えるような感動も、胸が詰まるような悲しみも、私には理解できなかった。


 父は仕事で海外を飛び回り、家にはいなかった。

 唯一、母だけが、感情の起伏が少ない私を「アリスは落ち着いた、優しい子ね」と受け入れてくれた。

 母の温かい手。日向の匂い。

 それだけが、私の世界を繋ぎ止めるアンカーだった。


 だが、その母が死んだ日も、私は泣けなかった。


 10歳の冬。葬儀の日。

 冷たい雨が降っていた。

 親戚たちは黒い服を着て、ハンカチを濡らし、泣き崩れていた。

 私はただ、祭壇に飾られた母の遺影を見つめていた。

 悲しい、とは思っていた。胸の奥に、鉛のような重い塊があった。

 もう二度と、あの温かい手に触れられないという喪失感はあった。


 けれど、涙は出なかった。

 喉が詰まることも、叫び出したいほどの激情に駆られることもなかった。

 ただ、「母は死んだ。もう動かない」という事実が、淡々と頭の中を流れていくだけ。


『……あんた、母親が死んだのよ!? なんで平気な顔をしてるの!?』


 母の妹である叔母が、私の方を揺さぶりながら怒鳴った。

 彼女の目は赤く腫れ上がり、髪は乱れ、私を見る目はまるで「化け物」を見るようだった。

 周囲の親戚たちも、ヒソヒソと囁き合っている。

 「冷たい子だ」「やっぱり父親に似て……」「可哀想に、ショックで感情が麻痺しているのかしら」。


 ――ああ、そうか。

 泣かないのは、異常なのか。

 母さんが死んで悲しくないわけじゃない。でも、みんなと同じように「出力」できない私は、ここでは「異物」なんだ。


 その瞬間、私の中に強烈な罪悪感と、生物としての生存本能が芽生えた。

 このままではいけない。

 この社会(コミュニティ)で生きていくためには、私は「人間」として振る舞わなければならない。


 だから、私は脳内で計算した。

 今、ここで求められている「正解」は何か。

 悲しみを示す顔の角度。涙腺への刺激。声のトーン。


 私は「解」を出した。


 ――うえぇぇぇん!!


 私は泣いた。

 顔を歪め、声を張り上げ、子供らしく縋り付くようにして涙を流した。

 心は氷のように冷めたまま、体だけが熱演していた。

 それは完璧な演技だった。


『……ごめんね、アリスちゃん。辛かったのね。ずっと我慢していたのね』


 叔母はハッとして、私を強く抱きしめた。

 親戚たちも、憐れみと安堵の目を向けた。「よかった、ちゃんと泣けたんだ」と。


 正解だ。

 ここで泣けばいい。求められる感情を、求められるタイミングで出力すれば、私は「人間」として受け入れられる。

 その日、私は「西園寺アリス」という名の女優になった。


 それから数年。

 私はアイドルとしての愛嬌も、クラン幹部としての冷徹さも、すべて演技で手に入れた。

 人々は私を愛し、私を恐れ、私の手のひらで踊った。

 けれど、本当の私は、あの葬儀の日からずっと、何も感じていないままだ。

 この心には、底のない穴が空いている。どんなに他人からの好意や、成功の報酬を詰め込んでも、すべてすり抜けていく。


        ***


「ねえ黒狐さん。この奥に、すっごく綺麗なクリスタルの洞窟があるって噂なんです! 行ってみませんか?」


 私は黒狐の腕を取り、甘い声で誘導する。

 上目遣いで覗き込むと、仮面の下の瞳が見えた気がした。

 無防備な男だ。私の演技に、微塵も疑いを持っていない。


 この男――黒狐を陥れることなど、正直どうでもいい。

 クランの利益になるからやる。それだけだ。

 彼が破滅しようが、死のうが、私の心は痛まないだろう。


 ただ、少しだけ興味があった。

 この得体の知れない、急激に評価を上げている男を壊した時、私の心は何か反応するだろうか。

 罪悪感? 愉悦? それとも、また無感動なまま?

 これは、私の心を確かめるための実験だ。

 もしかしたら、彼を壊すことで、私の穴が少しだけ埋まるかもしれない。そんな淡い期待があった。


「……ああ、構わない」


 黒狐は短く答えた。

 その声には抑揚がない。まるで機械のようだ。

 ……ふん。所詮は彼も、中身のない人間なのかもしれないわね。


 目的の広場に到着する。

 薄暗いドーム状の空間。私は「きゃっ!」とわざとらしく躓き、隠されたスイッチを踏んだ。


 カチリ。

 地面の魔法陣が赤く輝き出す。

 計画通りなら、これでCランク相当のスケルトンたちが現れるはずだ。

 混乱に乗じて、黒狐に精神干渉魔法(チャーム)をかけ、私の操り人形にする。

 完璧なシナリオ。……のはずだった。


 ズズ……ズズズ……。


 現れたのは、骨ではなかった。

 魔法陣から溢れ出したのは、どす黒い泥のような粘液。

 腐った肉のような異臭が鼻をつく。

 それは不定形の質量を持ち、触手を伸ばして周囲の岩を飲み込み、肥大化していく。


「……え?」


 私の計算にはない事態(バグ)。

 これは召喚ではない。ダンジョンの深層から、何かが「漏れ出した」ような……。

 呼び出されたのは、深淵の捕食者――「アビス・スライム(変異種)」。


 黒い泥が波のように押し寄せ、逃げ遅れた撮影スタッフを飲み込んだ。

 ジュワアアアッ!

 肉が焼ける音。悲鳴すら上がらない。一瞬で溶解され、骨すら残らない。


「ひっ……!?」


 それを見た他のスタッフたちは、我先にと逃げ出した。

 「アリス様のためなら死ねる」と言っていた親衛隊たちが、私を見向きもせずに。

 私を置いて、蜘蛛の子を散らすように。


「ま、待って! 私を置いていく気!? 契約違反よ!」


 叫ぶ声が震える。これも演技?

 いいえ、違う。

 足が動かない。呼吸が浅い。心臓が痛いほど脈打っている。

 ああ、滑稽だわ。彼らの忠誠なんて、所詮はその程度だったのね。

 所詮は、私の演技に騙されていただけの、薄っぺらな関係。


 迫りくる黒い津波。

 逃げようとするが、恐怖で体が金縛りにあっている。

 私の魔法(精神干渉)は、意思のないスライムには通用しない。

 物理攻撃無効の相手に、私の細腕では何もできない。


 ――死ぬ。

 私が? こんな、汚い泥に飲まれて?

 嫌だ。まだ何も感じていないのに。本当の私を、誰も知らないまま終わるなんて。

 アイドルとしての栄光も、クランでの地位も、積み上げてきた嘘も、全部ここで溶けて消えるの?


 虚無だった心に、初めて「恐怖」という強烈な色が塗りたくられる。

 それは冷たくて、痛くて、どうしようもなくリアルだった。

 アイドルの仮面が剥がれ落ち、ただの怯える少女がそこにいた。


「いや……嫌ぁぁぁぁぁッ!!」


 私は無様に尻餅をついた。

 地面を這って逃げようとするが、黒い触手が私の細い足を掴む。

 焼けるような痛み。溶解液が愛用のブーツを溶かし、肌を焼き始めた。


「熱い! 痛い! 助け……誰か……!」


 誰もいない。

 私が利用し、見下し、使い捨ててきた人々は、もういない。

 これが報いだ。空っぽなまま生きてきた人形の末路。

 母さん。そっちへ行くよ。やっと、泣けるかもしれない。


 意識が暗転しかけた、その時。


 ――ズドンッ!!


 轟音と共に、私とスライムの間に、黒い影が割って入った。

 斬撃。

 青い光の軌跡が走り、私を捕らえていた触手が弾け飛ぶ。


「……まったく。配信映えするピンチだな」


 聞き覚えのある、変声機越しの低い声。

 黒いコートを翻し、狐の仮面をつけた男が立っていた。

 その手には、青白く唸る光の刃が握られている。


「く、黒狐……?」

「下がってろ。……仕事の時間だ」


 彼は私を一瞥もしない。

 ただ、私を飲み込もうとしていた絶望(スライム)に対し、退屈そうに肩をすくめてみせた。


 なぜ?

 私はあなたを嵌めようとしたのに。

 罠にかけた張本人なのに。

 見捨てればいいのに。


 理解できない。計算できない。

 私の知っている「人間」の行動パターンじゃない。

 損得勘定も、自己保身もない。

 ただ、そこに「危機があるから助ける」という、純粋で強烈な意志だけがある。


 ドクン。

 胸の奥で、何かが跳ねた。

 それは恐怖の動悸ではない。もっと熱くて、痛くて、甘い何か。


 彼の背中から目が離せなかった。

 私の空っぽな世界に、初めて強烈な「ノイズ(バグ)」が走った瞬間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る