第19話 Offer: Temptation(甘い誘惑)

 新居である高級マンション『メゾン・ド・ルミエール』での生活が始まって数日。

 和也は、最高級のレザーソファに深く身を沈め、束の間の休息を享受していた。

 窓の外には煌びやかな夜景。手元にはキンキンに冷えたコーラ。

 かつてのボロアパートでは想像もできなかった「勝者」の景色だ。


「……平和だなぁ」

『そうでしょうか。ネットワーク上のトラフィックは、貴方を中心に不穏な渦を巻き始めていますよ』


 シアンが水を差すように呟く。

 彼女は和也の視界の端で、無数のウィンドウを展開し、高速で情報を処理していた。


『「黒狐」の知名度上昇に伴い、有象無象からのコンタクトが急増しています。……大半はスパムですが、中には無視できない“毒”も混じっています』


 その言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。

 和也の端末が、特別な通知音を奏でた。

 D-Streamの公式認証アカウントのみが使用できる、プレミアムな着信音だ。


【Sender: 西園寺アリス(公式認証済み / 登録者数210万人)】

【件名:コラボのお誘い♡】


「……は?」


 和也は思わずコーラを吹き出しそうになり、慌ててグラスをテーブルに置いた。

 西園寺アリス。

 その名を知らない探索者はいないだろう。D-Streamの頂点に君臨する、トップアイドル配信者だ。

 ピンクのツインテールと、フリルをあしらった「魔法少女風」の戦闘服。そして「あざとい」までの愛嬌で、男女問わず絶大な人気を誇っている。


「なんで雲の上の存在が、俺なんかに?」

『……解析完了。彼女のID、及び接続元のIPアドレスが、先日掲示板で貴方を「おもちゃ」呼ばわりしていた人物(>>10)と一致しました』


 シアンが冷ややかに告げる。

 掲示板の特定班すら特定できなかった「謎のスカウト」の正体。

 それが、まさかこの国民的アイドルだったとは。


『警戒を推奨します。彼女のバックには、情報系・魔術系の大手クラン『グリモワール』の影が見え隠れします。……表向きはアイドル活動を支援する事務所ですが、実態は優秀な探索者を囲い込むための“集金システム”です』

「グリモワール……あそこか」


 和也は眉をひそめた。

 白翼の騎士団が「武力」で勢力を広げるタカ派なら、グリモワールは「情報操作」と「引き抜き」で裏から業界を牛耳るハト派(に見せかけた毒蛇)だ。

 一度契約したが最後、法外な違約金や契約条項で縛り付けられ、骨の髄まで搾取されるという黒い噂だ。

 関わってろくなことはない。


「無視だ。返信なんてしねえぞ」

『賢明な判断です。……ですが、相手の方が一枚上手のようですね』


 シアンが指差した先。

 リビングの大型モニターに映っていたD-Streamのトップページが、更新された。


【速報】西園寺アリス、「今夜は話題の黒狐さんとコラボしちゃうかも!? 20時から待機しててね♡」


 サムネイルには、アリスのウィンクと、勝手に切り抜かれた黒狐(俺)の画像が並んでいる。

 コメント欄は既に「うおおお!」「マジかよ神コラボ!」「黒狐すげえ!」と阿鼻叫喚の嵐だ。


「……おい。まだ返事してないぞ」

『既成事実化(外堀埋め)ですね。これで断れば、彼女の200万人のファンが貴方を叩きに来るでしょう。「アリスちゃんの顔に泥を塗った」と』


 完全に嵌められた。

 断れば炎上。受ければ……何をされるか分からない。

 その手口は鮮やかすぎて、怒りよりも先に寒気がした。

 逃げ道はない。


        ***


 午後8時。Cランク階層の入り口広場。

 約束の時間より少し早く到着した和也は、柱の影から様子を窺っていた。


 そこには、異様な光景が広がっていた。

 数十人のスタッフが、アリのように忙しなく動き回っている。

 照明係、音声係、メイク、護衛の探索者たち。

 彼らは一様に、張り付いたような笑顔を浮かべ、中心にいる一人の少女に奉仕していた。


 ピンクの髪。フリルのついた派手な衣装。西園寺アリスだ。

 彼女はスタッフ一人一人に頭を下げ、飲み物を配っているようだった。


「いつもありがとうございますっ! これ、よかったら飲んでくださいね」

「あ、ありがとうございますアリス様!」

「今日の照明さん、すごく綺麗に撮ってくれて嬉しいです。次もお願いしますね♡」

「は、はいっ! アリス様のためなら、命に代えても最高のライティングを……!」


 スタッフたちは、まるで女神から聖水を受け取るかのように、アリスの手からペットボトルを受け取っている。

 その目には、狂信的な崇拝の色が宿っていた。


 完璧だ。

 どこからどう見ても、性格の良い、愛されるアイドルそのものだ。

 だが、和也の背筋に、生理的な嫌悪感と冷たいものが走った。


「(……なんだ? 何か変だぞ)」

『……異常です』


 シアンの声も、いつになく硬い。


『彼女の生体反応……心拍数、体温、発汗量。すべてが“一定”です』

「一定?」

『はい。スタッフに笑顔を向けている時も、感謝の言葉を口にしている時も、一人でスマホを見ている時も、波形に一切の乱れがありません。まるで、感情という機能(プロセス)が欠落しているかのような……あるいは、完璧に制御された“人形”を見ているようです』


 人間は、笑えば心拍数が上がる。嘘をつけば汗をかく。

 だが、彼女にはそれがない。

 あの笑顔は、感情の発露ではなく、ただ表情筋を正確に収縮させただけの「出力結果」に過ぎないのだ。


 シアンの言葉通り、アリスは和也(黒狐)の姿を認めると、ふわりと微笑んだ。

 その笑顔は、あまりにも完璧すぎた。

 まるでCGで作られたかのような、作り物めいた美しさ。


「あ、黒狐さーん! 初めましてぇ! アリスですっ☆」


 彼女は駆け寄ってくると、和也の手を両手で包み込んだ。

 甘い香水の匂い。柔らかい感触。

 だが、至近距離で覗き込んだその大きな瞳の奥には、光も影もなかった。

 ただ、底のない空洞が広がっているだけ。


「急なコラボでごめんなさい! でもぉ、黒狐さんの動画見てたら、どうしても一緒に行きたくなっちゃって♡」

「……どうも」


 和也は仮面の下で警戒レベルを最大に引き上げた。

 この女はヤバい。

 クリスのような「わかりやすい悪意」ではない。もっと根源的な、得体の知れない「虚無」を感じる。


「今日は私の護衛、お願いできますかぁ? 私、戦闘は苦手なんでっ」


 アリスはそう言って、和也の腕に自身の体を密着させてきた。

 そして、マイクには入らない小さな声で、楽しそうに囁いた。


「(……期待してるわよ、黒狐さん。私を“楽しませて”くれるんでしょ?)」


 その言葉には、誘惑の色も、脅しの色もなかった。

 ただ純粋な、子供が新しいおもちゃの箱を開ける時のような、無邪気で残酷な好奇心だけがあった。

 彼女にとって、他者は「自分を楽しませるための消耗品」でしかないのかもしれない。


「……ああ、任せろ」


 こうして、奇妙なコラボ配信が幕を開けた。

 表面上は「人気アイドルと、それを守るクールな黒騎士」という美味しい構図。

 だが、和也の脳内ではシアンの警告アラートが鳴り止まない。


        ***


 ――その様子を、物陰から「般若」のような形相で見つめる、黒髪の少女がいるとも知らずに。


「……あの女狐。黒狐にベタベタと……」


 鳴神光莉だ。

 彼女の手には、へし折れそうなほど強く握られた模造刀(監視用)があった。

 彼女は知っている。

 西園寺アリスと関わった探索者たちが、その後どうなったかを。


 ある者は精神を病んで引退し、ある者は行方不明になり、ある者は「アリス様のためなら死ねる」と微笑みながら、無謀な特攻をかけて散っていった。

 『グリモワール』の吸血鬼。ダンジョンの歌姫。

 彼女の周りには、常に甘い香りと共に、「破滅」の匂いが付きまとっている。


「……よりによって、一番関わってはいけない相手に」


 黒狐は、違法改造者だが、今のところは自分の意志で動いている。

 だが、アリスに取り込まれれば、彼はただの「操り人形」に成り下がるだろう。

 かつての幼馴染の面影を持つ彼が、そんな風に壊されるのは――生理的に、我慢ならない。


「黒狐は、私の監視対象です。……あんな化物に、壊させはしない」


 光莉の瞳に、紫電が走る。

 そこにあるのは、監視官としての義務感だけではない。

 言葉にできない焦燥感と、彼を守らなければという本能的な危機感だった。


「監視業務です。……ええ、あくまで業務として、彼を監視するだけです」


 アイドル(怪物)、黒狐(ハッカー)、そしてストーカー(監視官)。

 思惑が交錯するコラボ配信が、波乱の予感を孕んで進行していく。

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