第5話「プロデューサーの朝化粧と、オタクの戦略会議」

 翌朝。

 東の空が白み始めた頃、俺は寝台の上で目を覚ました。

 隣には、まだ寝息を立てている妻がいる。

 昨晩の衝撃的なカミングアウト――「中身が伝説のレイヤー・紅葉さんだった」という事実は、夢ではなかったようだ。

 寝乱れた小袖から覗く白い肩、長く艶やかな黒髪。化粧を落としたその素顔は、やはり息を呑むほど美しい。前世の俺が画面越しに憧れ、「尊い」と拝んでいた存在が、いま自分の腕の中にいる。

 男として、これ以上の僥倖(ぎょうこう)はない。ないのだが……。

「……んぅ……あと五分……いや、ロケバスの時間まであと……」

 むにゃむにゃと寝言を言う彼女を見て、俺は現実に引き戻された。

 中身は完全に現代人だ。しかも、かなり多忙だった頃の記憶を引きずっている。

「おい、起きろ。朝だぞ」

「……んー……殿?」

 彼女が薄目を開ける。焦点が合うと、ふにゃりとあどけない笑みが浮かんだ。

「おはよ、旦那様。……あ、そっか。ここ戦国だった」

「そうだ。そして俺たちは今日から、父上や家臣たちの前で『理想の夫婦』を演じなきゃならない。……準備はいいか?」

 俺の言葉に、彼女――新庄局(中身:紅葉)の瞳の色が変わった。

 布団を跳ね除け、正座する。その切り替えの速さは、さすがプロだ。

「OK。じゃあ、まずは『変身』の時間ね。……水と、化粧道具を持ってきてくれる?」

          ***

 そこから始まったのは、戦国時代とは思えない光景だった。

 彼女は手鏡(青銅鏡)を覗き込みながら、器用に筆を走らせる。

「いい? 『不細工』に見せるコツは、バランスを崩すことなの」

 彼女は講義をしながら手を動かす。

「人間が『美しい』と感じるのは左右対称や黄金比。だから、あえてそれを外す。眉の角度を左右で微妙に変えて、唇のラインを少しオーバーに描く。そして、一番重要なのは『肌の質感』を殺すこと」

 彼女は白粉に何か(灰だろうか?)を混ぜ、肌にくすんだ色味を乗せていく。

 見る見るうちに、絶世の美少女が、史実通りの「鬼瓦のような容貌」へと変わっていく。

 俺はその職人芸に、ただただ感嘆するしかなかった。

「すげぇ……。完全に別人だ」

「でしょ? コスプレで『人外キャラ』や『老婆』もやってたからね。特殊メイクの基礎はあるのよ」

 書き上げた太い眉を確認し、彼女は満足げに頷いた。

 そして、くるりと俺の方を向く。

「さて、次はあんたの番よ、元春くん」

「え? 俺?」

「そう。鏡見てみなさいよ」

 言われて鏡を見る。そこには、剛健な肉体を持つ若武者が映っている。悪くない。むしろカッコいい。

 だが、彼女はダメ出しをするように人差し指を振った。

「顔はいいわ。素材は最高。……でもね、目が死んでるのよ」

「目が?」

「ええ。『推しに転生して嬉しい』っていう、キラキラしたオタクの目になってる。……本物の吉川元春はね、もっとこう、他者を威圧するような『獣の目』をしてるはずなの。少なくとも、私が資料で見た元春像はそうだったわ」

 彼女は立ち上がり、俺の頬を両手で挟んだ。

「あんたがこれから行くのは、食うか食われるかの吉川家でしょ? そんな仔犬みたいな目をしてたら、家臣たちに舐められて、一瞬で寝首をかかれるわよ」

「ぐ……」

 反論できない。

 確かに俺は、史実知識があることに慢心していたかもしれない。だが、実際の戦国武将が放つ「殺気」や「威厳」は、知識だけで補えるものではない。

「だから、私が演出(プロデュース)してあげる」

 彼女の顔が近づく。不細工メイクをしているはずなのに、その瞳の強さにドキリとする。

「顎を引いて。目線は相手の眉間じゃなくて、相手の後ろの壁を見るイメージ。……そう、瞬きを減らして」

「こ、こうか?」

「うん、少し良くなった。……いい? あんたは『言葉』で語らなくていいの。あんたは『武の化身』なんだから、基本は無口で、不機嫌そうにしていればいい。細かい交渉や根回しは、私が全部フォローするから」

 彼女は俺の着物の襟を整え、ポンと胸を叩いた。

「知識担当(ブレイン)はあんた。演技・演出担当(ビジュアル)は私。……完璧な分担でしょ?」

「ああ……頼もしい限りだ」

 俺は苦笑しつつも、腹の底から勇気が湧いてくるのを感じた。

 一人なら、重圧に押し潰されていたかもしれない。

 だが、今の俺には最強のパートナーがいる。

「よし、行こう。父上への朝の挨拶だ」

「ええ。……参りましょう、あなた」

 部屋を出る瞬間、彼女の背筋がスッと伸びた。

 その歩き方は、もはや現代人のそれではなく、深窓の令嬢――いや、武家の妻としての威厳に満ちていた。

 俺もまた、腹に力を入れて一歩を踏み出す。

 これから始まるのは、家族団欒の食事ではない。「毛利」という巨大な組織の中での、生き残りをかけたプレゼンテーションだ。

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