第4話「白無垢の魔王と、深夜の正体露見」
天文十六年、夏。
蝉時雨が降り注ぐ中、俺の婚儀は執り行われた。
場所は、吉川家の本拠である小倉山城(おぐらやまじょう)……ではなく、熊谷家の居館である。
これは異例のことだった。通常、嫁入りならば男側の家で行うものだが、舅(しゅうと)となる熊谷信直が「娘を送り出す前に、婿殿の顔をじっくり拝みたい」と言い出したためだ。
要するに、値踏みである。
吉川家に養子に入ったばかりの若造が、大事な娘を任せるに足る男かどうか。信直は「鬼クマ」の異名を持つ猛将だ。もし俺がヘマをすれば、その場で叩き斬られるかもしれない。
(……緊張で胃が痛い。隆元兄上の気持ちが今なら分かる)
直垂(ひたたれ)に身を包んだ俺は、祭壇の前で背筋を伸ばしていた。
隣には、白無垢姿の花嫁。
彼女こそが、熊谷信直の娘。のちの「新庄局」だ。
綿帽子を深く被っているため、その素顔はまだ見えない。だが、周囲の列席者たちのひそひそ話が、嫌でも耳に入ってくる。
「おい、見たか? さっき風で綿帽子がめくれたのを」
「ああ……噂通りじゃったな。あの太い眉、窪んだ眼窩(がんか)。まるで能面の般若じゃ」
「吉川の若殿も気の毒に。政略とはいえ、あのような夜叉を抱かねばならんとは」
好き勝手言いやがって。
俺は奥歯を噛み締めた。
史実の元春が選んだ女性だ。俺にとっては聖域(サンクチュアリ)に等しい。たとえ般若だろうが鬼だろうが、俺が一生かけて守り抜く。
それに、チラリと横目で見た彼女の立ち姿は、驚くほど美しかった。背筋がスッと伸び、指先の所作一つ一つに洗練された品がある。
ただの不器量な娘に、あのような佇まいができるだろうか?
「……三々九度の儀」
神官の声が響く。
俺たちは杯を交わす。
彼女の手が、俺の手と触れた。
その瞬間、ビクリと彼女の肩が震えた気がした。恐れているのか? それとも、俺と同じように緊張しているのか?
(大丈夫だ。俺がついている)
俺は言葉には出さず、視線でそう伝えた。
彼女は一瞬だけ顔を上げ――綿帽子の奥から、鋭く光る瞳が俺を射抜いた。
ゾクリとした。
それは恐怖ではなく、得体の知れない「圧(プレッシャー)」だった。
戦場で歴戦の武将と対峙したときのような、あるいは――もっと現代的な、カリスマ性を持った何者かと対峙したときのような。
***
長い宴が終わり、夜が訪れた。
新郎新婦の寝所。
行灯(あんどん)の頼りない灯りだけが揺れる部屋に、二人きり。
外ではカエルの鳴き声が聞こえるが、部屋の中は針が落ちても聞こえそうな静寂に包まれている。
「……」
「……」
俺は上座に、彼女は下座に座っている。
ついにこの時が来た。初夜だ。
史実では、元春と彼女の間には多くの子が生まれ、夫婦仲は極めて良かったとされている。つまり、ここで俺が男を見せなければ、歴史が変わってしまう可能性がある。
俺は意を決して口を開いた。
「……今日は、疲れたであろう」
元春らしい、ぶっきらぼうだが優しい声を意識する。
「そなたの父上、熊谷殿の武勇は聞き及んでいる。その娘であるそなたを妻に迎えられたこと、誇りに思う」
教科書通りの口説き文句だ。
彼女は微動だにしない。綿帽子も、打掛(うちかけ)もそのままだ。
まだ警戒されているのか? それとも、噂通りの顔を見せるのを恥じらっているのか?
俺は膝を進め、彼女の前に座った。
「顔を……見せてはくれぬか」
俺が手を伸ばすと、彼女は拒絶しなかった。
ゆっくりと、綿帽子を取る。
露わになったその顔を、行灯の光が照らし出した。
「っ……!」
俺は息を呑んだ。
なるほど、これは「不細工」と言われるのも無理はない。
眉は墨で極端に太く、吊り上がるように描かれている。頬は白粉(おしろい)で血の気がなく、唇は紫に近い紅が差されていた。
いわゆる「京風」を勘違いして誇張したような、あるいは魔除けの面のような化粧だ。
だが。
オタクである俺の目は誤魔化せなかった。
その骨格の美しさ。鼻筋の通り方。そして何より、化粧の下にある肌のきめ細やかさ。
これは「素材が悪い」のではない。「悪いように見せている」のだ。
「……そなた」
俺が何かを言いかけた、その時だった。
「はぁーーーーーっ……」
彼女の口から、深くて長い、まるで魂が抜けるような溜息が漏れた。
え?
俺が呆気にとられていると、彼女はガバッと顔を上げ、肩をゴキゴキと回し始めた。
「マジで死ぬかと思った……。この時代の着物、重すぎでしょ。肩こりで首もげるわ」
「……は?」
俺の口から、間の抜けた声が出た。
今、何て言った?
マジ? 首もげる?
彼女は俺の反応などお構いなしに、懐から手ぬぐいを取り出すと、乱暴に顔を拭き始めた。
「あー、やっと落とせる。この白粉、肌荒れするんだよね。今のうちに落とさないと毛穴詰まるし」
ゴシゴシと拭われる顔。
奇抜な太眉が消え、不気味な紅が落ちていく。
そこに現れたのは――透き通るような白い肌と、パッチリとした二重の瞳。現代のアイドルだって裸足で逃げ出すほどの、圧倒的な美少女だった。
いや、それだけではない。俺はこの顔を知っている。
前世、SNSのタイムラインで毎日流れてきた、あの憧れの顔。
「……く、紅葉(もみじ)……さん?」
俺の口が、勝手に動いていた。
それは戦国の世には存在しない、ある超有名コスプレイヤーのハンドルネーム。
彼女の手がピタリと止まった。
半分だけ素顔に戻った顔が、ゆっくりと俺に向けられる。
その瞳に宿っていたのは、先程までの「従順な妻」の色ではない。獲物を見つけた肉食獣のような、鋭い光だ。
「……あんた、今なんて言った?」
低い声。だが、それは紛れもなく日本語(現代語)だった。
「なんで私のハンネ知ってんの? ここ、戦国だよね? ていうかあんた……吉川元春だよね?」
彼女がジリジリと詰め寄ってくる。
俺はパニックになりながらも、必死で答えた。
「い、いや、俺は……俺も転生者で……! 現代日本から来て……お、俺、あんたのファンで! 去年の冬コミの写真集も買ったし、ROM専だけどツイッターもフォローしてて……!」
「はあああ!?」
彼女――元・紅葉さんは、あんぐりと口を開けた。
そして次の瞬間、膝から崩れ落ちるように畳に手をついた。
「嘘でしょ……。まさか、旦那の中身が『オタク』だなんて……」
「悪かったな、オタクで! そういうあんたこそ、なんでこんな不細工メイクして猫かぶってたんだよ!」
「当たり前でしょ! こんな戦国乱世で、女一人で生きていくのがどれだけ大変か分かってんの!?」
彼女は顔を上げ、まくし立てた。
「美人はね、すぐに大名の側室にされたり、人質にされたりして不幸になるの! だから私は『不細工キャラ』を徹底して、誰にも目をつけられないように地味に生きてきたのよ! なのに……!」
彼女は俺を指差した。
「あんたみたいな物好きが『不細工でもいい』とか言い出すから! 計画が狂ったじゃない!」
「俺は……俺は史実通りに新庄局を幸せにしようと……!」
「史実? ……あ」
彼女の表情が、ふっと変わった。
怒りから、探るような冷静なものへ。
「あんた、歴史詳しいの?」
「……詳しいなんてもんじゃない。吉川元春のことなら、身長から好物、戦歴まで全部頭に入ってる。俺の推しだからな」
俺が胸を張って答えると、彼女は真顔で俺を見つめ――そして、ニヤリと笑った。
その笑顔は、かつて俺が画面越しに憧れた、どんなキャラにもなりきる「カメレオン・レイヤー」の不敵な笑みだった。
「へえ……。使えるじゃない」
「え?」
「私、歴史はサッパリなの。衣装とか武器のデザインは好きだけど、誰がどこで勝ったとか全然分かんない。……ねえ、旦那様」
彼女はズルいほど魅力的な声で、俺の耳元に囁いた。
「契約しましょう」
「け、契約?」
「あんたは私の『知識』になって。私はあんたの『演技指導』をしてあげる。……吉川元春って、鬼のような猛将なんでしょ? あんた、中身がただのオタクだとすぐバレるわよ」
図星だった。
俺は武芸は鍛えたが、威厳や振る舞いはまだまだ自信がない。
「私がメイクと演技力で、あんたを『本物の戦国武将』にプロデュースしてあげる。その代わり、あんたはその知識で私を守りなさい。……どう?」
差し出された白く細い手。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
これは、悪魔の契約か?
いや違う。これは――最強のバディ(共犯者)の結成だ。
「……乗った」
俺はその手を握り返した。
彼女は花が咲くように笑った。
「交渉成立ね。よろしく頼むわよ、私の『元春』くん」
こうして、戦国最強の夫婦が誕生した。
外では雷鳴が轟いていた。まるで、これから俺たちが巻き起こす嵐を予感させるように。
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