第7話

〈兄視点〉



 二階に足を踏み入れた瞬間、空気が一段、重くなった。


 一階とは、明らかに違う。


 照明は点いている。

 廊下も、ナースステーションも、見慣れた配置のはずなのに、

 どこか“整っていない”。

 使われたまま、時間だけが抜け落ちたような感覚。


 足を進めるたび、紙を踏む感触がある。


 視線を落とすと、書類、ファイル、カルテ。

 本来あるべき場所から引き剥がされたみたいに、床一面に散らばっていた。


 ……荒らされた、というより。


 慌てて、何かを探していた痕跡。

 あるいは――途中で、何かが起きたような。


 ナースステーションのカウンターも同じだった。

 書類が雪崩れたように落ち、レターボックスの引き出しが中途半端に開いている。


 言葉を失って立ち尽くしていると、

 背後から、水瀬先輩の声がした。


「……綾瀬さん、どうしたの?」


 はっとして振り返る。


「……いや……」


 言葉に詰まりながら、床を指さした。


「……これ、見てください」


 先輩も視線を落とし、

 一瞬、目を見開いた。


「……うわ……」


 小さく、息を吐く。


「……これは、ひどいね」


 声に、冗談はなかった。


 俺は、改めて床を見渡す。

 そのとき――


 紙の上に、違和感を覚えた。


 しゃがみ込み、目を凝らす。

 ……嫌な予感が、背中を撫でた。


 ……足跡?


 違う。

 “靴の裏の形”だ。


 明らかに、小さい。


 大人のものじゃない。

 病院で履くようなサンダルでもない。


 ……子供サイズ。


 思考より先に、心臓が嫌な音を立てた。


 胸の奥で、何かがきしむ。


 ――柚葉?


 そんなはずはない。

 まだ確信はない。


 他の子供かもしれない。

 偶然、迷い込んだ誰かの可能性もある。


 それでも。


 心の奥に、嫌な想像が、じわりと広がる。


 その空気を感じ取ったのか、水瀬先輩が近づいてきた。


「……どうしたの?」


 一瞬、言うか迷って――

 俺は、視線を床から離さず、言葉を濁した。


「……子供の、足跡みたいなのがあって」


 先輩は、すぐに察したらしい。


 小さく息を吐いて、それから、こちらを見た。


「……柚葉ちゃん、かもって思った?」


 図星だった。


 言い返せずにいると、先輩は肩をすくめる。


「……だったら、なおさら急がないとね」


 その声は、落ち着いていた。


「前に、買い物の途中で偶然会ったことあるでしょ?

 綾瀬さんと一緒にいた、髪の長い可愛い子」


 一瞬、記憶が蘇る。


「あの時の……」


「うん。あの子」


 そんな会話をしながら、二人で各居室を確認していく。


 病室の中は、不思議なほど整っていた。


 ベッドも、机も、誰かがさっきまで使っていた気配はない。


 異常があるのは、廊下とステーションだけ。


 途中、先輩が言った。


「……手分けして探した方が早いかもね」


 一瞬、合理的だと思った。


 けれど――

 胸の奥で、何かが引っかかった。


「……いえ」


 自分でも驚くほど、即答だった。


「今は……二人で行きましょう」


 理由を言語化する前に、口が動いていた。


 この場所で、一人になるのは――

 良くない。


 そんな直感だけが、やけに確信めいていた。


 二階の廊下を進む。

 床は、どこも紙だらけだった。

 新聞紙、書類、カルテ。

 歩くたび、足元で紙が擦れる。


 ……カサカサ……カサカサ……。


 個室の中は、どこも綺麗だった。

 ベッドは整えられ、

 カーテンも、きちんと閉じられている。

 誰かが慌てて逃げ出したような気配は、ない。


 ……なのに。


 詰所へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 床一面に、紙。

 カルテ、書類、ファイル。

 廊下以上に、足の踏み場もないほど無造作に散らばっている。


「……え……」


 背後から、水瀬先輩の声が小さく漏れた。


 俺は視線を巡らせながら、詰所の中央へ進む。

 ナースカート――電子カルテ用のワゴンが一台。

 その上にあったはずのノートパソコンが、ない。


「……あれ」


 水瀬先輩が近づいてきて、床を見下ろす。


「壊れてる……?」


 視線の先には、黒い破片。

 割れたプラスチックの欠片と、外れたケーブル。


「もしかして……さっきの音、これかも」


 床に伸びたコードを指さしながら、先輩が言う。


「引っ張られた跡、あるよね。コードに引っかかって……落ちたのかも」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……その可能性は高そうですね」


 ――だが。


 胸の奥に、かすかな違和感が残る。


 職員が、ここで引っかかるだろうか。


 この配置で。

 この散らかり方で。


「でも……職員が、ここでそんなふうに?」


 水瀬先輩も、同じことを考えているようだった。


 俺は無意識に、奥歯を噛みしめる。


 まさか。


 柚葉が、ここにいるはずがない。


 そう思おうとするほど、

 逆に、胸の奥がざわついていく。


 一通り詰所の中を確認したが、誰の姿もない。


「……二階には、もう誰もいないみたいだね」


 水瀬先輩の言葉に、俺は小さく息を吐いた。


「……上、行きましょう」


 そう言って歩き出す。


 来たときの階段へ戻ろうとした、その時……


 視界の端に、別の扉が入った。


 職員用の階段。


 表示灯は点いている。

 電気も、通っている。


 ……なのに、

 なぜか、近づきたくない。


 風はないのに、そこだけひやりとしていた。


「……こっちから行くのは、やめておきましょうか」


 確認するように言うと、水瀬先輩は苦笑した。


「うん……さすがに、ちょっとね」


 二人で頷き合い、元の階段へ向かう。


 その途中、水瀬先輩が、ふとこちらを見た。


「……でもさ」


 一瞬、言葉を探すように間を置いて。


「もし何かあったら……助けてくれるよね?」


 軽い口調。


 けれど、冗談には聞こえなかった。


 俺は立ち止まり、振り返る。


 迷う前に、言葉が出ていた。


「……当たり前です」


 一歩、距離を詰める。


「先輩が一人で行くなんて、ありえません」


 言い切ったあと、ほんの一瞬、空気が止まった。


 水瀬先輩は目を丸くして……


 それから、困ったように、でも少し嬉しそうに笑った。


「……ありがとう」


 その一言に、胸の奥が、わずかに締めつけられる。


「行きましょう」


 今度は、俺の方から言った。


 三階へ続く階段を、ゆっくりと上がり始める。


 ……コツコツ……コツコツ……


 二人の靴音が、誰もいない階段に響く。


 この先に、何があるのかは分からない。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 ……ここで、誰かを一人にするつもりはない。

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