第2話 獣は牙を研ぐ

白石さんの家から戻り、シャワーを浴びて一時間だけ眠った。


アラームの音で目を覚まし、ぼんやりと天井を見つめる。


──夢じゃないよな。


昨夜の記憶を頭の中で順番に再生してみる。

忘年会で酔っ払った白石さんを家に送り届けたこと。

そして、

「襲いました?」

「お、襲ってません!!」

清純派の彼女には似合わないやりとりの末、まさか……付き合うことに、なってしまった。


スマホを手に取ると、一件の通知が表示されていた。


『おはよー。春川さん、二日酔い大丈夫ですか?昨日はありがとう』

視界が一気に明るくなった。


彼女がいたのは、もう5年以上前だ。そんな僕に、他愛ないやり取りができる相手が出来るなんて。


『おはようございます。白石さんは体調大丈夫ですか?』


送信すると、数秒で既読がついた。


『うん、ありがとう!私は元気。春川さんはちゃんと寝れた?』


ちゃんと。その四文字を見た途端、昨夜の感触がフラッシュバックする。


密着した身体、無防備な寝顔、柔らかな感触。あれで「ちゃんと」寝られる男がいるのだろうか。


『はい。問題ないです』


……嘘だ。ほとんど眠れていないし、頭は鉛のように重い。それでも、心は満たされていた。


***

会社に行くと、案の定だった。

「春川ー」

デスクに着くや否やシステム部の同僚が、ニヤニヤしながら近づいてくる。


「昨日、白石さん送ってったんだって?で、どうだったの?」

「なにがですか」

わざと視線を逸らし、モニターを見つめるが、

「うわ、逃げた。分かりやすっ」

と笑われた。


「で、付き合ってるの?」

「えっと、その……」

言葉に詰まると、同僚は満足そうに頷き、ポンと僕の肩を叩いた。


「お前なかなかやるじゃん。堅物の春川がねぇ……。はい、ごちそうさまー」


違う。本当に、神に誓って手は出していない。

何もしていないからこそ、昨夜の感触を思い出して頬が火照るなんて、誰にも言えるはずがなかった。



***

昼休み、ポケットの中でスマホが震えた。

『春川さん、今日のお昼なに食べたか写真送って?』


写真?首をかしげながらも、社員食堂の定食を撮って送った。


焼き魚。鶏むね肉とブロッコリーのサラダ。ご飯と味噌汁。


即座に返信が来る。


『いいね!鶏むねとブロッコリー最高♡夜もタンパク質とミネラル意識してみてね〜』


健康に気を遣ってくれるんだな。鈍感な僕は、それくらいにしか思わなかった。


***


夜、自宅のキッチンで送られてきた写真を見つめながら、ひよりは深く頷いていた。


……うん、陽一さんったらとっても順調♡


カウンターは、教科書のように広げられた一冊の本が置かれている。

表紙には、一際目立つ赤のフォントでこう書かれていた。


『男の活力を最大化する栄養学』

ページをめくる。

・牡蠣(亜鉛)

・鶏むね肉(タンパク質)

・ブロッコリー(テストステロン向上)

そしてマカ、栄養ドリンク……夜の生活に役立つ知識が、熱量高めに紹介されていた。


理論上は、完璧。付き合ったばかりでいきなり飛ばしたら引かれる。

大事なのは、下準備だ。まずは、身体づくりから♡


「……ふふ」

いつ頃効果、出るのかな。

急にムラムラして、襲ってきたりしないかな。


……完全に方向性がズレていることに、本人は微塵も気づいていなかった。


***

数日後、

「春川さん、これ」

白石さんから小さな包みを渡された。


「……これは?」

袋を開けると、中身はネイビーのひざ掛けだった。


「寒いし、下半身冷やしすぎるのよくないからね♡」


「……ありがとうございます」


僕の身体を気遣ってくれる、その優しさが身に染みる。


別の日はというと、

「はい、今日のお弁当」

「え?」

「お昼に食べてね♡精……あ、ううん。元気になってほしくて」


中身は、鶏むね肉とアボガドとブロッコリーのサラダ。牡蠣のバター炒め。


僕のために作ってくれたのが嬉しくて、写真を撮ってから完食した。


***

その夜、ベッドに入りスマホを見ると、白石さんからメッセージが届いていた。


『今日もお疲れさま。忙しいだろうけど無理しすぎないでね』


彼女に大事にされているんだと思うと、胸がいっぱいになった。


彼女が一体どんな研究をしているかなんて、僕は知る由もなかった。


──獣は、牙を研ぎ、獲物が最高のコンディションに仕上がるのを待っていた。


***

その週の水曜日。

仕事を終え、駅へ向かう人混みの中で、僕はスマホを何度も見返していた。


『今週の土曜、空いてますか?』

送信ボタンを押すまでに三分以上かかった。

数分後。通知音と共に画面が光る。


『はい、空いてますよ』

画面の文字を見ただけで、スマホを握る手に力が入る。


『よかったら、映画でもどうかなと思って』

既読がつく。……あれ?返事が来ない。一分、二分。永遠のような時間が過ぎる。


映画って、無難すぎた?まずは食事だけのほうがよかった?そもそも、彼女は映画好きなのか?

考えすぎて、スマホを落としそうになった、その時。


『映画!いいですね。楽しみです』

よかった……。僕は決意した。完璧なデートにしよう。


彼女は僕より八歳も年下で、若くて綺麗で、きっと今まで色んな男性と素敵なデートをしてきたはずだ。だから、失敗は許されない。


僕は真剣に「付き合う前 映画デート 失敗しない ジャンル」

を検索した。


・話題に困らない

・気まずくならない

・恋愛要素は少なめ

そして辿り着いた一本。


《世界的に評価の高い、スタイリッシュなアクション映画》


凄腕の暗殺者による重厚なストーリー。これなら安全だ。

公開情報を三回確認し、レビューも読み、上映時間もチェックした。完璧だと思っていた。


──この選択が、死ぬほど気まずいデートの幕開けになるとも知らずに。

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