第5話:亡霊の葬儀

## 『優しいじゃない、わたし』


### 第5話:亡霊の葬儀


建人の精神が崩壊してから、事態は悪夢のような速度で転がり落ちた。

奥飛騨の森で錯乱状態で発見された建人は、警察の保護下で「アリサの亡霊に会った」「死体を埋めたが消えた」と支離滅裂な供述を繰り返した。夏美もまた、警察の任意の事情聴取に対し、夫の精神的な不安定さを涙ながらに訴えた。殺人も、死体遺棄も、すべては夫の妄想なのだと。


しかし、警察がアリサの部屋を捜索した結果、微量の血痕と、争った形跡が発見された。状況は、一気に「アリサの失踪・殺人事件」として動き出す。建人と夏美は、重要参考人として、常に行動を監視されることになった。


そして、事件から数週間後。

決定的な証拠も、アリサの遺体も発見されないまま、親族の強い意向で、彼女の葬儀が執り行われることになった。


「…行くの?」

葬儀の朝、喪服に身を包む夏美に、建人が力なく尋ねた。彼の目は落ちくぼみ、この数週間で一気に老け込んでいた。


「行かなきゃ、おかしいでしょう」

夏美は、鏡の前で口紅を引きながら、冷たく言い放った。

「悲しむ被害者の友人の妻。それが、今の私の役どころよ」


彼女の瞳には、もはや夫への愛情も、罪への恐怖もなかった。あるのは、この絶望的な状況を、どうにかして生き延びようとする、乾いた生存本能だけだった。


葬儀会場は、しめやかな悲しみに包まれていた。しかし、その空気の下では、親族や友人たちの間で、言葉にならない疑惑が渦巻いていた。その視線が、会場に入ってきた建人と夏美に突き刺さる。


「うっ…ううっ…アリサ…!」

建人は、遺影の前で崩れ落ち、嗚咽を漏らした。その芝居がかった悲劇の主人公ぶりに、夏美は腹の底から吐き気を覚えた。


(…この男が、すべてを壊した…)


夏美が、建人の背中をさすりながら、そんな憎悪を募らせていた、その時だった。

会場の入口が、にわかにざわつき始めた。どよめきは、波のように広がっていく。


入口に立っていたのは、黒いワンピースに身を包んだ、一人の女。

その顔は、祭壇に飾られた遺影と、寸分違わぬ姿だった。


**「…アリサ…!?」**


誰かが叫んだ。

会場は、パニックに陥った。夏美は、その場で凍りついた。血の気が引き、心臓が、氷の塊になったかのように動きを止める。


しかし、当のありさは、周囲の混乱に一切動じる様子はなかった。彼女は静かに会釈すると、まっすぐに祭壇へと歩みを進める。そして、自分の遺影に向かって、深く頭を下げた。


その、あまりにも冒涜的で、シュールな光景。


お手洗いから戻ってきた建人が、その姿を捉え、声にならない悲鳴を上げた。

「……あ……あり…さ…?」


ありさは、そんな建人に向き直ると、静かに、そして冷たく、微笑んだ。

それは、地獄の幕開けを告げる、静かで、そして何よりも恐ろしい、合図だった。


彼女は、囁くように、しかし会場の誰もが聞き取れる明瞭さで、言った。


**「自分の葬儀にお線香をあげに来たら、いけない?」**


「ひっ…」

夏美の喉から、押し殺したような悲鳴が漏れた。


建人は、へなへなと座り込みながらも、最後の悪あがきを試みた。

「…どうしたんだ? 心配してたんだぜ? みんな、お前が死んだと思って…!」


その、あまりにも醜悪な芝居。

夏美の中で、最後の何かが、ぷつりと切れた。


**「うわあああああ! 死にやがれ! 化け物がぁ―――っ!!」**


金切り声と共に、夏美はありさに襲いかかった。しかし、その狂乱の突進は、舞うように半身を引いたありさに、軽くいなされる。ありさは、夏美の手首をいとも容易く掴み取ると、心底、不可解なものを見るかのような、冷え切った瞳で覗き込んだ。


**「…なんなの?」**


その、人間に対するものではない、無機質な問いかけ。

夏美の狂気は、急速に萎んでいく。


ありさは、崩れ落ちる夏美を一瞥すると、会場全体を見渡して、困ったように肩をすくめた。

**「わたしは悪くないわ。ただ、帰ってきただけ」**


彼女は、ひらりと手を振った。

**「さようなら」**


その足取りは、驚くほど軽かった。

ありさが去った後、会場は、地獄のような混乱に包まれた。

ありさの父親が、建人の胸ぐらを掴み上げ、絶叫する。


「どうなってんだ! 説明しろよ! なんで生きてるんだ! …お前が、やったのか」


建人は、その問いに、最後の裏切りで応えた。

床に崩れ落ちる妻を指さし、叫んだ。


**「ぜんぶ…ぜんぶこいつがいけないんだ! 夏美が、やったんです!」**


夏美の、壊れたように空っぽだった瞳に、初めて、感情の色が戻った。

それは、夫に対する、絶対的な零度の、軽蔑の色だった。


ありさの葬儀会場は、彼女の不在のまま、彼女を殺そうとした罪人たちを裁く、公開法廷へと姿を変えたのだ。


**(第5話 完)**

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