第4話:空っぽの墓穴
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## 『優しいじゃない、わたし』【改稿案】
### 第4話:空っぽの墓穴
奥飛騨の森から東京へ続く道は、不気味なほど静かだった。あれほど激しかった雨は嘘のように上がり、東の空が死人の肌のように白み始めている。建人は虚ろな目でハンドルを握り、夏美は助手席で眠るように目を閉じていたが、その瞼は微かに痙攣していた。狭い車内に充満するのは、エンジン音と、消臭剤の甘い香り、そして決して消えることのない土と罪の匂いだった。
「…これから、どうするんだ」
アスファルトを滑るタイヤの音に、建人のかすれた声が溶ける。
「…何もしないの」
夏美は目を開けないまま、唇だけで答えた。「いつも通りに生活するのよ。そうすれば、誰も気づかない」
その声は、自分自身に言い聞かせる呪文のようだったが、語尾の微かな震えを建人は聞き逃さなかった。元に戻れるはずがない。自分たちの手は血と泥で汚れ、もう決して洗い流すことはできないのだ。
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日常は、恐ろしいほどの静けさで戻ってきた。
アリサの会社から無断欠勤を問う事務的な連絡が一度あったきり、世界は彼女が最初から存在しなかったかのように回り続けている。
その平穏こそが、建人の神経を少しずつ削り取っていた。
夜ごと、同じ夢を見る。土砂降りの雨の中、泥水に沈んだスマートフォンが、アリサの微笑むアイコンを明滅させながら、永遠に振動し続ける夢。うなされて目を覚ますと、隣で眠る夏美の寝息だけが、静かな部屋に響いている。
「…やっぱり、行ってみないか」
ある夜、耐えきれなくなった建人が切り出した。「奥飛騨に。ちゃんと、埋まっているのかどうか…」
「馬鹿なこと言わないで!」
夏美の声が、鋭く空気を引き裂いた。「掘り返すなんて正気じゃないわ! 証拠を残しに行くだけよ!」
「でも、気になるんだ! あの時の…あの女の髪の下の、硬い感触が…!」
「気のせいよ!」
その夜を境に、二人の間の空気は決定的に変わった。会話は途切れ、互いの視線は絡むことなくすれ違う。食器の触れ合う音さえ、互いを責め立てる非難のように響いた。愛し合ったはずの夫婦は、罪という鎖で繋がれた、互いを監視し合うだけの囚人になっていた。
そして、その亀裂を砕くように、一本の電話が鳴った。
非通知設定。建人が恐る恐る応答すると、耳に飛び込んできたのは、若い女の、切羽詰まった泣き声だった。
『…もしもし…建人さん、ですか…? わたし、アリサの友達のエリと申します…。アリサが…アリサが、もう何日も連絡が取れなくて…っ!』
指先から急速に血の気が引き、スマートフォンの冷たさだけが、やけに生々しかった。
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週末、建人は夏美の制止を振り切り、一人で奥飛騨へと車を飛ばしていた。エリと名乗る女の声が、耳の奥で反響し続けている。警察が動き出すのも時間の問題だ。その前に、確かめなければ。自分たちの罪が、あの暗い森の土の下で、完璧に眠っているのかを。
雨上がりの森は、湿った腐葉土の匂いで満ちていた。数日前の嵐の爪痕が生々しく、折れた枝を踏みしめながら、記憶だけを頼りにあの場所へと向かう。
そして、たどり着いた建人は、その場で凍りついた。
自分たちが掘ったはずの場所が、再び、乱暴に掘り返されていた。
まるで巨大な獣が爪で抉ったかのように、湿った土が無残に散らばっている。
「……まさか」
建人は震える手で近くの枝を拾い、恐る恐る穴の中を探る。枝の先に、何かが当たる手応えはない。彼は意を決し、穴の縁に膝をつくと、その暗い底を覗き込んだ。
**空っぽだった。**
防水シートの切れ端一つ、髪の毛一本すら残っていない。まるで、最初から、何もかもが幻だったかのように。
「……どうして」
野生動物が? いや、そんな馬鹿な。では、誰が? 夏美が一人で? 何のために?
思考が、焼けたフィルムのように断ち切れる。
パキッ。
背後で、乾いた小枝が折れる音がした。
建人が弾かれたように振り返る。
そこに、一人の女が立っていた。黒い登山ウェアに身を包み、その顔は深いフードの影に隠れている。
「……だ、誰だ!」
女は、ゆっくりと顔を上げた。そのフードの下から現れた顔を見て、建人の心臓は動きを止めた。
彼が数日前に、この土の下に埋めたはずのアリサ。その顔と、瓜二つだった。
「……あ……」
喉がひきつり、声にならない音が漏れる。
女は、静かに、そして氷のように冷たく、微笑んだ。
「お探し物は、これかしら?」
彼女の手から、何かがことりと足元に落ちる。
泥にまみれた、**ネックレス**だった。あの日、エリがアリサに渡した、GPS付きのお守り。
建人は、そのネックレスと、目の前の女の顔を交互に見る。現実と悪夢の境界が溶け落ち、彼の世界は、音を立てて、砕け散った。
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