第3話:砂糖の向こう側のスパイス
メイド喫茶『シュガー&スパイス』、閉店後のスタッフルーム。
さっきまでの喧騒が嘘のように静まり、メイドたちは次々と家路についていく。
いつも最後に残るアイリスだけになった。
アイリスは給与明細を眺めながら、小さくため息をつく。
自分の視界の端に、変わらぬ灰色の層が広がっていた。この色……いつまで続くのだろう。
その時、奥の店長専用デスクから、静かに立ち上がる影があった。
店長、三条椿。メイド服ではなく、シックなスーツ姿の彼女は、微笑みを浮かべながら近づいてくる。
店長(椿):
「給与明細を見て、ため息ですか、アイリス。あなたほどの売上貢献度であれば、一般的なメイドの倍額を払っていても、割に合わないなんて言わせませんよ。相変わらず、お客様の『人生』を肴に、非常に美味しい商売をさせてもらっています。」
アイリス:
「店長……お疲れ様です。いえ、給与額に不満はありません。ただ、私が行っていることは、メイド喫茶の『お給仕』の範疇を超えているのではないかと、時々自問自答しているだけです。客層がどんどん『人生迷子の集会所』になりつつあります。」
椿の顔に、穏やかな金色の輝きが見える。満足と計算の高さの色。アイリスはそれを観察しながら、言葉を選ぶ。この色は、信頼できる……のか?
店長(椿):
「それでいいんですよ、アイリス。あなたは、この店の『非公認コンサルタント』です。あの程度の『萌えキュン』では満たされない、現代社会の『深い心の渇き』を満たしてくれている。他のメイドには、私の店の『空間』と『可愛らしさ』を売らせています。でも、あなたには、『真実』を売ってもらっている。それも、『優しさという砂糖』で包んだ『厳しい現実というスパイス』をね。」
一瞬、沈黙するアイリス。
椿の言葉に、わずかな紫の揺らぎを見る。野心の色。本当は、優しく「私はただのメイドです」とだけ言いたい。でも、それではこの店は変わらない。
アイリス:
「私自身が、その『真実』に辿り着けているのかどうか、疑問です。時々、ただ言葉を弄して、お客様を煽っているだけではないかと……。」
店長(椿):
「あなたは、そうやって自分を低く評価する。それが、あなたの『誠実さ』であり、客があなたを信じる理由です。あなたは、普通の言葉の裏に隠された、相手の『最も弱い部分』をピンポイントで抉り出す。そして、それが彼らを突き動かす。」
椿はアイリスに近づき、給与明細をそっと押さえる。
店長(椿):
「いいですか、アイリス。この店は、元々私が経営していた会社が潰れた後に、逃避のために開いた場所です。人を動かす言葉を売っていた会社ほど、人は動かないって学びましたから。でも、あなたは違う。」
アイリス:
「……店長は、本当に恐ろしい方ですね。私の過去や、今の心境まで、すべて見透かしていらっしゃる。」
店長(椿):
「ふふ。それは褒め言葉として受け取っておきましょう。あなたは、この店にとって『必要な毒』なんです。周りの甘ったるい『砂糖』の味を際立たせるためにね。そして、あなたの『厳しさ』は、その逃避の後に待つ『現実への帰還』を助けている。」
椿の瞳に、深い緑の層を見る。理解の色。でも、どこか寂しげな。この人は、私と同じ色を抱えている……?
アイリス:
「私は、店長がこの状況を『悪用』しない限り、私の役割を全うします。ただし、私が提供するのはあくまで『選択のきっかけ』です。お客様の人生を、私の言葉で『決定づける』ようなことはしません。」
店長(椿):
「もちろんです。決定づけるのは、彼ら自身。あなたは、その舞台装置の一部に過ぎません。さて、明日のシフトですが、例の『事業失敗で自信喪失したIT社長』が予約を入れていますよ。彼は、あなたにどんな『スパイス』を求めに来るのでしょうね。楽しみだわ。」
椿は不敵に微笑み、アイリスの肩を軽く叩く。アイリスは給与明細をしまい、再び無表情に戻る。
アイリス:
「承知いたしました、店長。明日も、私は『人生の厳しい真実を囁くメイド』を、完璧に演じさせていただきます。」
アイリスは店をあとにしながら呟いた。
「……でも、この店が私の『砂糖』でしかないなら。いつか、このスパイスが、自分自身を刺す日が⋯。」
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