第2話:猫の耳と、完璧の欠片
メイド喫茶『シュガー&スパイス』、閉店後のスタッフルーム。
さっきまでの喧騒が嘘のように静まり、メイドたちは次々と家路についていく。
いつも最後に残るのは、アイリスとココアだった。 ロッカーの前に立ち、ココアがメイド服のエプロンを外しながらアイリスに話しかける。
アイリスは無表情で制服のボタンを外し始めていたが、その動きはいつものように無駄がなく、完璧な効率を保っていた。
ココア:
「ねえ、アイリスちゃん! 今日もお疲れ様〜! さすがに今日は土曜で、手首が『萌え萌えキュン』で腱鞘炎になりそうだよー! ふぅ、早くこのフリル脱ぎたい〜。アイリスちゃんも、早く着替えてリラックスしよ?」
ココアは明るく笑いながら、メイド服のスカートを軽やかに脱ぎ、私服のTシャツに着替え始める。柔らかな曲線が一瞬覗くが、彼女自身は全く気にせず、いつもの無邪気な笑顔のまま。
アイリス:
「お疲れ様、ココア。大した深みはありません。ただ、猫の輪郭線を引く時に、その線の太さが人生の『曖昧さ』と『確固たる信念』の間に存在する微妙なバランスを表現している……といった、取るに足らないことを考えているだけです。」
アイリスは淡々と制服を脱ぎ、シンプルな私服に袖を通す。白い肌がちらりと見える瞬間も、彼女の表情は変わらない。
視界の端で、自分の肩に薄い灰色の層が浮かぶのを確認し、心の中でため息をつく。この色……今日も、変わらない。
ココア:
「うわ〜、やっぱりアイリスちゃんって深〜い! 私なんて、ただ『可愛い猫さん描けた〜!』しか考えてないよ! でもさ、今日の山田さん……また来てたよね? あの人、絶対普通のメイド喫茶の客じゃないって! アイスティー飲みながらめちゃくちゃ真剣な顔してたし、帰る時はなんか人生悟った顔になってたし!」
アイリス:
「ええ、あの客は『安定』と『挑戦』という人類永遠のテーマに悩む、大変に生産性の低いご主人様でした。彼が望んでいたのは、私が人生の正解を教えることではなく、誰かに自分の『臆病さ』を厳しく指摘してもらうことでしたから、適切な言葉を差し上げただけです。」
ココア:
「え〜と、何それ? 占い師? カウンセラー? 私たちって、ただ『いってらっしゃいませ!』って言って、甘くて可愛い時間を提供するのが仕事だよね? アイリスちゃんだけ、いつもなんであんなにシリアスなの? 店長も何も言わないけど、ちょっと心配だよ。」
ココアの心配げな瞳に、柔らかなオレンジの揺らぎを見る。友情の色。一瞬、言葉を柔らかくしたい衝動が湧くが、抑える。
アイリス:
「心配には及びません、ココア。私の給与は、当店の『リピーター率』に直結しています。あの客たちは、癒やしだけでは満たされず、『厳しい真実』を求めて来ている。彼らにとって、それが最も甘い『スパイス』なのです。」
ココア:
「うーん、スパイスかぁ……。私にはちょっと辛口すぎて理解不能だよ。でも、確かにアイリスちゃんが担当した客って、みんな元気になって戻ってくるよね。」
アイリス:
「それは、彼らが『自立』を選んだ結果です。私が提供するのは、背中を押す『突き放す力』です。ところでココア、あなたの今日のオムライスに描いた猫の耳。右側だけ、ほんの少し太さが均一ではなかったですね。」
ココア:
「ええっ、そんなとこ見てたの!? ま、まぁ、ちょっと手が滑っちゃったかも……。」
アイリス:
「『手が滑った』。いいえ、あれは『集中力の欠如』です。お客様に最高の『萌えキュン』を提供するという、プロのメイドとしてのあなたの『覚悟』が、一瞬途切れた証拠です。私たちメイドは、常に完璧な『理想』を演じ続ける必要があります。」
ココアは少しだけ声を落として、でも明るく言う
ココア:
「うぅ……アイリスちゃんの厳しさ、本当に恐れ入ります。でもさ、アイリスちゃんは……楽しい?」
一瞬、言葉に詰まるアイリス。
ココアの瞳に、純粋なピンクが強く輝く。楽しい? ……そんな色、私の視界に最後に見えたのは、いつだったか。
アイリス:
「……それは、関係ありません。」
ココア:
「そっか! まあいいや! なんか、私、もう一回『お帰りなさいませ、ご主人様!』の練習したくなってきた……。じゃあ、また明日ね、アイリスちゃん! 明日は絶対、左右対称の完璧な猫を描くぞー!」
ココアは意気込んでスタッフルームを出ていった。
アイリスは私服に着替え終え、給与明細に目を落とす。視界の端に、変わらぬ灰色の層が広がっていた。
アイリス:
「……自立、ですか。私はいつになったら、この『お給仕』という名目の束縛から……。この色が、変わる日なんて⋯⋯」
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