第3話
絶望6日目・昼下がり 凪(なぎ)の目抜き通り
リナと別れた後、俺は駅前へと続くメインストリートに足を踏み入れていた。
そこには、俺が予想していた光景とはまったく異なる景色が広がっていた。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
昨晩までこの通りは、地獄のパレード会場だったはずだ。
逃げ惑う人々の悲鳴、クラクションの不協和音、そして肉を貪る咀嚼音。
それらがコンクリートの谷間に反響し、絶望の交響曲を奏でていた。
だが今はどうだ。
風が廃車になった軽トラックのドアを揺らし、キイキイと錆びた音を立てているだけだ。
アスファルトの上には、黒ずんだ血痕が無数に残っている。
破壊されたショーウィンドウ、散乱する衣類や家電製品。
しかし肝心の「主役」がいない。
「……いないな」
俺は道の真ん中を歩きながら、周囲を警戒する。
ゾンビがいないのだ。
一体や二体徘徊していてもおかしくないはずのこの大通りから、あの腐肉人形たちが綺麗さっぱり消滅している。
代わりに目につくのは、不自然な「痕跡」だ。
頭部をきれいに切断された死体(アイテムドロップ後の残骸だろう)。
あるいは、何らかの熱源によって焼き焦がされたような跡。
俺はしゃがみ込み、地面に残った焦げ跡を指でなぞった。
まだ微かに熱い。
「組織的な駆除(クリアリング)が行われた後か……」
単独のプレイヤーが暴れた程度じゃない。
これはもっと大人数の、統率された集団が「狩場」としてこの通りを制圧した証だ。
俺のようなコソ泥ハイエナとは違う、面制圧を行うパワーレベリング集団。
俺は視線を上げた。
通りの向こう、かつて激戦区だったはずのコンビニエンスストアが見える。
その入り口付近に、バリケードとは違うどこかリラックスした空気を漂わせる一団が屯(たむろ)していた。
男が四人。
作業着姿のガタイの良い男に、スーツ姿のサラリーマン風、そして初老の男性。
彼らは武器を手に持っているものの構えてはいない。
それどころか、紫煙をくゆらせて談笑している。
タバコ休憩だ。
この世紀末において、なんと優雅で、かつ不敵な光景だろうか。
(接触するか?)
俺は一瞬迷った。
徒党を組んだプレイヤーは、ソロにとって脅威だ。
カツアゲされる可能性もあるし、最悪の場合PK(プレイヤーキル)の対象にされるかもしれない。
だが彼らの頭上のカーソルは「緑色(中立)」だ。
それに、彼らが醸し出す雰囲気には、殺伐とした敵意よりも仕事終わりの安堵感が勝っているように見えた。
何より情報が欲しい。
このエリアを制圧した連中の「生の声」は、何物にも代えがたい攻略情報だ。
俺はナイフを腰のシースに納め、両手を軽く挙げるポーズ――敵意はありませんよ、というアピール――を取りながら、ゆっくりと彼らに近づいた。
「……あー、すみません。ちょっといいですか?」
俺が声をかけると、四人の男たちが一斉にこちらを向いた。
一瞬、空気が張り詰める。
作業着の男が、バールのようなものを握り直すのが見えた。
だが、俺が武装を解いているのを見て、彼らの警戒心はすぐに解かれたようだった。
中心にいたヘルメットを被った初老の男性が、咥えタバコのままニカッと笑う。
「おう、いいぞ。どうした、兄ちゃん迷子か?」
「いえ、この辺りの様子を見に来たんですが……驚きました。ゾンビが一匹もいないんで」
俺はコンビニの壁にもたれ掛かる素振りをしながら、自然な距離感を保つ。
「情報収集、良いですか? ここらへんの状況、皆さんが片付けたんですか?」
「ガハハ! まあな!」
初老の男性――リーダー格らしい――が、豪快に笑いながら煙を吐き出した。
「ここらへんの大通りのゾンビは、あらかた殲滅してやったわ! 今は一仕事終えてのタバコ休憩中だべ」
殲滅。
言葉にするのは簡単だが、この広い通りを埋め尽くしていたであろうゾンビの数を考えれば、尋常な作業量ではない。
「やっぱり……? どうりでゾンビがいないわけですね」
俺は感心したように頷いて見せた。
これはお世辞ではない。
彼らの装備を見るに、決して重武装というわけではない。
ホームセンターで調達したような農具や工具、それに初期装備のナイフ程度だ。
それでこの戦果を挙げたのなら、彼らの連携(パーティプレイ)が優れている証拠だ。
「凄いですね。これだけの数を処理するなんて」
「まあなぁ……」
スーツ姿の男――まだ若く、営業職といった風情だ――が、しみじみと呟いた。
彼は血で汚れたワイシャツの袖を捲り上げながら、手元の缶コーヒー(これも戦利品だろう)を揺らした。
「正直、最初の4日間は生きた心地がしなかったですよ。どうなるか不安だった。このまま食われるか餓死するか……そんなことばかり考えてました」
「違いない」
俺も同意する。トイレに篭っていた俺と同じだ。
「でも」
スーツの男は、目の前に広がる死骸のない道路を見つめ、少しだけ目を輝かせた。
「ゲームみたいなことになるとはなぁ……。最初はバグかと思ったけど、実際にステータス画面が出てレベルが上がって。そうすると、不思議なもんで」
「怖くなくなる、ですか?」
「そう! まさにそれ!」
男は強く同意した。
「怯えきってたけど、『ポイントになる』と分かれば怖くないんべ。むしろ『あそこに10ポイント歩いてる』って感覚になるんだよな。人間ってのは現金なもんだよ」
「まったくだ」
作業着の男も笑う。
そこにあるのは、恐怖を克服した生存者の高揚感だ。
未知の恐怖(ホラー)が、既知の課題(タスク)に変わった瞬間、人間は強くなる。
それが「ゲーム化」という現象の本質なのかもしれない。
「それにほれ、兄ちゃんも知ってるだろ? レベル上げりゃあ、なんか妙な力も手に入るしな」
リーダー格のおっちゃんが、意味深にウインクしてみせた。
「妙な力……スキルですか?」
「おうよ。身体能力強化だけじゃねえぞ。世の中には『魔法タイプ』がいるらしいからな」
「魔法ですか」
俺は眉を上げた。
チャットやヘルプ画面で存在は知っていたが、実際に目にすることは稀だ。
初期ステータスで【魔力(INT)】や【精神(MND)】に偏った才能を持っていたか、あるいはレアな『魔導書』アイテムを手に入れた者だけが使える力。
「見ました? 魔法使い」
俺が尋ねると、おっちゃんはニヤリと笑った。
そして吸い終わったタバコを携帯灰皿にしまうと、おもむろに右手を前に突き出した。
「ワシが魔法タイプじゃ」
「えっ」
「ほれ」
おっちゃんの掌の空気が、陽炎のように揺らぐ。
次の瞬間、ボッ! という音と共に、バスケットボール大の紅蓮の火球が出現した。
「うおっ!?」
俺は思わず半歩下がった。
熱い。
数メートル離れていても、肌が焼けるような熱気を感じる。
手品やトリックじゃない。
質量を持った、純粋なエネルギーの塊だ。
「『ファイアボール』だ。レベル5で覚えた」
おっちゃんは得意げだ。
火球は彼の手のひらの上で、生き物のように脈動している。
「凄いですね……! これ、実戦で使えるんですか?」
「おうとも! ゾンビ相手だとワンパンで倒せるから便利じゃな。特にあのデカい奴……なんとかオーガ? ああいう物理が効きにくい相手でも、こいつをぶち込めば一発で黒焦げよ」
おっちゃんが手を握り込むと、火球は霧散して消えた。
なるほど強力だ。
俺がナイフで必死に急所を狙い、リスクを負って接近戦をしている間に、彼は遠距離から安全に、しかも高火力で敵を排除できるわけだ。
「羨ましい限りです。俺なんて地味なナイフ使いなんで」
「ま、無い物ねだりだべ。魔法は強力だが、MP(精神力)の消費が激しくてな。連発すると頭痛がして動けなくなる。だからこうして前衛の若い衆に守ってもらいながら戦うのが基本じゃ」
パーティプレイの基本、タンクとDPS(アタッカー)の役割分担ができている。
この集団、見た目以上に手練れだ。
「このおっちゃんみたいに、魔法タイプって多いんですか?」
俺が尋ねると、スーツの男がスマホの画面を見ながら答えてくれた。
「掲示板の情報だと、だいたい4分の1ぐらいの割合でいるみたいですよ。適性のある人間が。残りの大半は物理職か、あるいは生産職。まあ、魔法職が一番の当たり枠って言われてますけどね」
「4分の1か……。意外と多いな」
四人に一人。
つまり今後対人戦になった場合、相手のパーティには必ず一人は魔法使いがいると想定すべきだ。
物理防御力だけ上げても、魔法で焼かれれば意味がない。
【魔法耐性】のスキルか装備が必要になるな。俺は密かにメモを取る。
「なるほど……参考になります」
俺は一通り感心してみせた後、話題を少し広げることにした。
現場の攻略情報も大事だが、もっとマクロな視点の情報が欲しかった。
「あの、今後の予定とかって決まってるんですか? 皆さん」
「ん?」
「いや、例えば救助を待つとか、どこかの避難所を目指すとか」
その問いに、四人の男たちは顔を見合わせた。
そして少し暗い表情になる。
「うーん……結局は、日本政府がどうなってるかだな……」
作業着の男が重い口調で言った。
それが全員の懸念事項だった。
ゾンビを倒せるようになっても、社会基盤(インフラ)が回復しなければ、いずれ詰む。
「あー、分かります。俺も気になってて」
俺は同意する。
「日本サーバのチャットだと、どうも日本政府が機能してないみたいなんですよね。書き込みを見てると」
「だよなぁ」
スーツの男がため息をつく。
「4日の間に、永田町は壊滅したって噂だ。総理大臣を含めた閣僚たちは、最初のゾンビパニックで食われたか、あるいは自衛隊の基地かどこかに隠れてるか……わかんねぇって感じで」
「無政府状態ってやつか」
「ああ。警察も自衛隊も、組織としては崩壊してる。個々人で戦ってる奴らはいるみたいだが、指揮系統が生きてりゃあ、こんな『ゲーム』が始まった時点で、何かしらの放送があるはずだろ?」
確かにその通りだ。
スマホが強制的に書き換えられ、謎のシステムが世界を掌握した。
もし政府が機能しているなら、緊急放送で「アプリを使用するな」とか「指示に従え」とか言うはずだ。
それがないということは、政府もこの状況を把握できていないか、あるいは――。
「政府も、この『運営』の手のひらの上ってことかもな」
おっちゃんが、吐き捨てるように言った。
「だから俺たちは自分で身を守るしかねえ。救助なんて来ねえよ。レベル上げて、食い物確保して、生き延びる。それだけだ」
覚悟が決まっている。
彼らはもう、古い社会システムに見切りをつけているのだ。
「……じゃあ法律とかも、もう無いようなもんですね」
俺は少し意地悪な質問を投げかけてみた。
「人を殺しても、罪には問われない?」
その言葉に、空気が少しピリつく。
だがスーツの男が、すぐに首を横に振った。
「いや、そこは微妙なラインだ」
「と言いますと?」
「とりあえずチャットの主流な意見だと、『人間相手に手を出すのは、後に犯罪扱いになるから止めておけ』って感じだな。PK(プレイヤーキル)は推奨されてない」
彼はスマホの画面をタップし、該当の書き込みを見せてくれた。
確かに『PK反対派』のスレッドが伸びている。
「もし世界が元に戻った時、あるいはこのシステム上で『殺人者(マーダー)』のペナルティが付与された時、リスクがデカすぎる。……それに、まだそこまで落ちぶれたくないっていう日本人の良心みたいなもんも残ってるしな」
「なるほど。じゃあ物資の奪い合いになったら、どうするんです?」
「そこで『PvP(デュエル)』ですよ」
男は言う。
「さっき兄ちゃんも言ってたけど、殺し合いじゃなくて、システム上の『試合』で決着をつける。やってもPvPで奪う方がよし、みたいな空気ができつつある」
「負けた方はポイントを払う、勝った方は物資を得る。命までは取らない。……合理的ですね」
「ああ。だからこそレベルが全て、みたいだからなぁ」
おっちゃんが、自分の手のひらを見つめながら呟く。
「レベルが高けりゃPvPでも負けない。発言力も増す。逆にレベルが低い奴は搾取される側に回る。……嫌な世の中になったもんだが、ゾンビに食われるよりはマシか」
レベル至上主義社会。
金や肩書きではなく、暴力という名の数値が支配する世界。
それは俺にとって居心地が良いようで、同時に気の抜けない世界でもあった。
「……勉強になりました」
俺は頭を下げた。
彼らから得た情報は大きい。
魔法職の脅威、日本政府の不在、そしてPvPによる秩序形成。
この大通りが平和なのは、彼らのような「良識ある強者」が管理しているからだ。
だがそれは裏を返せば、ここにはもう俺の取り分(経験値)はないということでもある。
「兄ちゃんも気をつけな」
去り際、おっちゃんが声をかけてくれた。
「この大通りは俺らが掃除したが、一歩脇道に入ればゾンビはまだウロウロしてるし、タチの悪い『野盗』みたいなプレイヤーもいるかもしれねえ」
「ええ、肝に銘じます」
「ま、ソロでここまで生き残ったんだ。兄ちゃんなら大丈夫だろ」
おっちゃんはそう言って、再び新しいタバコに火をつけた。
彼らは彼らなりに、この場所を守るつもりなのだろう。
一種の自警団のようなものか。
「了解です。情報ありがとうございます」
俺は彼らに背を向けた。
目指すのは光の当たらない場所。
彼らが「掃除」しきれなかった、澱みが溜まる場所。
「とりあえず、脇道でゾンビ狩りして来ます」
「おう、頑張れよ!」
背後から飛んできた激励の声に、俺は片手を上げて応えた。
路地裏の捕食者
大通りを外れ、ビルとビルの隙間、薄暗い路地裏へと足を踏み入れる。
一瞬で空気が変わった。
光が届かない。
生ゴミと古い血の腐敗臭が鼻をつく。
そして何より、視線を感じる。
物陰から、あるいはマンホールの下から、俺という新鮮な肉を見つめる無数の視線を。
「……さて」
俺は表情を引き締めた。
さっきまでの「愛想の良い若者」の仮面を剥ぎ取る。
大通りの平和なコミュニティ? 協力? 自警団?
結構なことだ。だが、それは俺のプレイスタイルじゃない。
あそこは「安全」だが、「成長」がない。
既に狩り尽くされた狩場に、俺の求める獲物はいない。
俺はスマホを取り出し、マップアプリを確認する。
この先の路地裏は、まだ「未探索エリア(フォグ・オブ・ウォー)」に覆われている。
赤い点滅信号――高レベル反応――が一つ、二つ。
「魔法使いか……」
さっきのおっちゃんの火球を思い出す。
あんなものを不意打ちで食らえば即死だ。
だが逆に考えれば。
魔法使いは、懐に入れば脆い。
「対策(メタ)は立てておくか」
俺はショップを開き、なけなしのポイントで【投擲用スモーク・ボム】と【遮音イヤーマフ】を購入した。
正面突破は勇者の仕事だ。
俺はハイエナらしく、泥臭く背後から食らいついてやる。
カサリと、前方のゴミ袋が動いた。
俺は音もなくサバイバルナイフを抜き、影の中へと滑り込んだ。
さあ、狩りの時間だ。
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