第2章 第10話 イロハ、自我の青さと成長
翌日、ギユウはギルドの建物の片隅に、ぎこちない動きで腰を下ろしていた。
長椅子に体重を預けるだけの動作でさえ、今の彼には集中を要する。右腕の義肢は相変わらず重く、左足の固定具は一歩ごとに存在感を主張してくる。それでも、ここに来ると決めたのは自分だった。
ダイスケの言葉通り、周囲の顔ぶれは皆、露骨なほど彼を気にかけていた。視線を逸らす者はいないが、腫れ物に触るような距離感でもない。その微妙な配慮が、かえって胸に染みる。
ギユウの毎日は、重く硬い義肢を「身体の一部」ではなく、「道具」として扱う練習の繰り返しだった。
指先の角度をほんのわずか修正するだけで、全神経をそこに集中させなければならない。思考が一瞬でも逸れれば、義肢は途端に言うことを聞かなくなる。動かすたびに、かつてそこにあったはずの感覚を脳が探し、見つからず、疲弊する。その摩耗を、ギユウは誤魔化しようもなく感じ取っていた。
ギルド職員のハクトは、店番の合間を縫って彼の横に立ち、さりげなく助言を投げてくる。
「その角度や。力、抜け。墨脈を意識するんや」
軽く腕を叩くその仕草には、遠慮も同情もなかった。それがありがたかった。
受付の紗羽は、こまめに飲み物を持ってきては、明るい声をかける。
「そんな根詰めたらあかんて。墨脈詰まったら、余計動かんくなるで。ちゃんと休憩しや」
その笑顔に、ギユウは短く息を吐いた。自分がまだ、ここに居ていいのだと確認させられる。
ある瞬間、義肢の右手の指先が、狙った部品の隅を、寸分の狂いもなく掴んだ。
それは本当に一瞬だった。次の瞬間には、また重い鉄の塊に戻っていた。それでも、そのわずかな成功が、削れ続けていた心を辛うじて繋ぎ止めた。
補修担当の志津音は、進捗を確認すると淡々と言った。
「無駄な動き多い。姿勢と負荷、直さないと効率悪いよ」
冷静で、理屈だけの言葉。それでも街の空気と人の声が、ギユウの身体を少しずつ日常へと引き戻していくのを、彼は確かに感じていた。
ダイスケの義肢調整は相変わらず荒っぽいが、的確だった。
「ほら動け。義肢は甘やかしたらナメてくるぞ」
ギユウは顔を歪め、苦笑するしかなかった。それでも、義肢がわずかに身体の動きを受け入れ始めている感覚は、確かにあった。
ギユウがギルドでリハビリに時間を費やす間、アルファとイロハは自室兼工房に留まっていた。
イロハは、彼の新しい生活を支えようと、掃除や簡単な家事を学習し始めていた。ギユウが戻ると、彼女は横で静かに様子を見守り、必要に応じて工具を差し出す。義肢の表面を磨く指先の動きは、もはや人間と区別がつかない。
日を追うごとに、イロハは人間らしい感情の揺れを学習していった。木材を基礎にした躯体の上で、表情筋が微かに動く。
料理に挑戦して木炭を焦がしたときの、しょんぼりとうつむく様子。義肢の調整を褒められたときの、胸を張るような誇らしさ。
だが、嬉しいときは瞬きがわずかに遅れ、照れると手の動きが一呼吸ずれる。その小さなズレが、彼女を確実に“異物”として際立たせていた。
彼女の体内にある墨脈回路は、常に自己書き換えを続けていた。学習した“揺らぐ感情”が記録されていると、アルファから聞くたび、ギユウの背筋は冷えた。墨脈回路が自律的に変化するなど、この世界の常識を根底から覆す現象だ。それは奇跡であり、同時に危険でもあった。
アルファはホログラムの姿で部屋の隅に浮かび、静かに電脳空間を監視し続けている。
ある日、イロハはギユウの隣で、食事の真似事をしていた。箸の持ち方を、真剣な表情でなぞるように真似ている。
『イロハ。食事をしてください』
アルファが促す。
「わたし、発条石で動く」
首を傾げるその仕草は、どこか幼い。
『発条石が動力でも、組織を維持するには有機物が必要です。排泄は極限まで抑えられているが、摂取は必要。食べてください』
排泄をしないという事実に、ギユウは言葉を失った。その進化の精妙さに、ただ畏敬の念を覚える。
ある晩、義肢の手入れをしていると、アルファが静かに提案した。
『儀右。イロハの学習は順調です。しかし、この世界はまだ彼女を受け入れません。周囲には人間として扱うべきです』
イロハは意味を測りかねたように、木製メガネの奥で首をかしげる。
「遠縁の親戚の従妹、やな。年齢は……二十歳前後」
アルファは肯定した。
『真実は私たち三人だけの秘密です』
ギユウは深く息を吸い、胸の奥で止めた。
それは単なる嘘ではない。問い続けられる覚悟、目を見て偽り続ける覚悟だ。冷たい塊が、胸の底に沈んでいった。
計画が動き出すと、アルファは慎重だった。
『外出は控えるべきです。露見のリスクが高い』
だが、イロハは小さく反発する。
「……儀右。歩けるように、なった。外の、光。見たい」
ギユウは揺れた。理屈はアルファが正しい。
それでも、イロハの瞳に宿る純粋な好奇心を、切り捨てることはできなかった。
やがて、彼は思う。
外の光は、成長する心にも必要なのだ、と。
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