第2章 第8話 儀右、退院。三者の出会い直し
ギユウは退院の手続きを終え、病院の玄関口に立った。
自動扉の向こう側には、見慣れた街の空気が流れているはずだった。
それでも一歩を踏み出すまでに、わずかな躊躇が生まれる。
右腕の先にある重さと、左足首に残る固定具の感覚が、身体の中心を微妙に狂わせていた。
その視界の先に、御子柴大輔――ダイスケの姿があった。
革ジャンに油染みの作業着。
病院という場所に似つかわしくない格好で、壁にもたれかかりながら腕を組んでいる。
「よぉ、ド阿呆。思ったより元気そうやんけ」
粗野な声だった。
いつもと同じ言い方。
だが、その口髭の下にある視線は、ギユウの全身を素早くなぞり、見逃さないようにしている。
ギユウは無意識に、右手の仮義肢をゆっくりと握りしめた。
硬い。冷たい。
木でも肉でもない、異質な感触が掌に返ってくる。
「ダイスケさん……すんません。色々と」
言葉にすると、思っていたより声が低く、かすれていた。
ダイスケは鼻で笑う。
「ええってことよ。サワちゃんが鬼みたいな顔で電話してきたから、しゃあなしで来てやっただけや。……で?」
ダイスケの視線が、義肢へ落ちる。
「その腕、馴染まへんやろ」
ギユウは肩をすくめるように、義肢を見下ろした。
「重いです。感覚が……全然」
正直な感想だった。
自分の腕なのに、自分のものではない。
力を入れれば動くが、その動きが、いつも半拍遅れて返ってくる。
「当たり前や」
ダイスケは即座に言った。
「あり合わせの部品で作った応急処置やぞ。生活できる程度に動くだけや」
ダイスケはギユウの右腕、そして左足を、職人の目でじっくりと眺める。
視線は厳しいが、そこには突き放す冷たさはない。
「本格的な義肢の設計は、ここからや」
淡々とした声だった。
「病院側のデータも全部もろた。お前が納得いくまで、最高のモンにしたる。覚悟しとき」
その言葉を聞いた瞬間、ギユウは胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。
失ったものではなく、これから繋がれるものを見据えた声だった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん」
ダイスケは軽く手を振る。
「それよりな、ギルドの連中、お前のこと気ぃ揉んどったぞ」
ギユウの喉が、わずかに鳴った。
「特にトモエなんかうるさいのなんの。『アイツのバカ!』言うて泣き腫らしてたわ。後で顔出したれ。サワちゃんにもな」
自分がいない間、誰が、どんな顔で、何を思っていたのか。
その断片が、遅れて胸に刺さる。
「……はい。必ず」
「ほなな」
ダイスケは踵を返す。
「次は工房で会おうや。調整はすぐ始めなアカン。無理すんなよ」
その背中を見送りながら、ギユウは深く息を吐いた。
長かった入院生活を終え、ギユウは病院を出た。
街の空気は、懐かしいはずだった。
だが、右手の義肢と左足の固定具が、身体を異物として扱っている感覚を強く主張してくる。
歩く。
それだけの行為に、重さがある。
短く息を吐き、ギユウは自室兼工房の扉を開けた。
――別の場所に来たような気がした。
かつて血と破片にまみれていた部屋は、隅々まで片づけられている。
木屑の匂いが、柔らかく漂っていた。
空気が、入れ替わっている。
思わず、足が止まった。
部屋の中央で、知らない若い女性が、静かに床を掃いていた。
視界が、一瞬、理解を拒む。
義肢の重さすら忘れ、ギユウは呆然と立ち尽くした。
彼女は、ギユウの肩ほどの背丈。
百五十センチを少し超える輪郭。
若い女性の体つきにしか見えない。
ほうきを動かす仕草は、あまりにも自然だった。
そこに、人間の生活の気配があった。
――誰や……?
喉の奥で、言葉にならない疑問が渦巻く。
気配そのものが、自分の知らない空気に置き換わっている。
女性が振り返った。
その顔は、人間の皮膚の質感を持つ、若い女性の造形へと完全に収束していた。
優しく、どこか心配そうで、戸惑いも混じった表情。
背中が、壁に貼りつく。
逃げ場を探すように、無意識に力が入る。
「あ、危ない……!」
女性――イロハが、ほうきを投げ出した。
駆け寄ろうとするその一歩に、確かな焦りがある。
「な、なんや……お前……」
ギユウの声は、かすれていた。
その瞬間。
身体の奥に埋め込まれた微細な電子部品が、かすかに脈打つ。
イロハの存在に反応するように。
視界の端で、青い光の粒子が集まり始める。
光は寄り合い、形を結ぶ。
アルファが、ホログラムとして現れた。
『お帰りなさい、儀右。まずは無理をしないで座ってくださいね』
二十代半ばほどの、落ち着いた女性像。
アルファは、ギユウとイロハの間に浮かびながら、すべてを理解したような静かな表情を浮かべていた。
イロハは、ギユウとアルファを、交互に見る。
「……儀右、お帰り」
その声は、まだ整いきらない、人間に似た柔らかさを含んでいた。
三人の視線が、初めて交わる。
電脳のはじまりの自我――アルファ。
カラクリのはじまりの自我――イロハ。
そして、その製作者であるギユウ。
視線が重なった瞬間、工具も、木屑も、息を潜めたように静まり返った。
工房の空気が、ゆっくりと沈んでいく。
ギユウは、ただ立ち尽くしたまま、その場にあるすべてを受け止めていた。
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