第2章 第6話 応急固定の夜(極限の連合作業)

ギユウの意識が途切れたあとも、イロハは動きを止めなかった。

頭部を支えていた木製の指先は、すでに次の行動を求め、部屋の棚へと向かっている。


墨脈回路を流れる熱は、ひとつの目的だけを反復計算していた。

この人間の命の火を、一秒でも長く繋ぎ止めること。


アルファから送られてくる指示は、もはや完成された処置の設計図ではなかった。

秒単位で更新され続ける命令列が、イロハの処理領域を圧迫し、上書きし、再構築を強いる。

それでもイロハは止まらない。


部屋に散乱するガラクタの中から、損傷の少ない木材の端材、歪みのない金属線、包帯の代用となる布を正確に選別する。

判断に迷いはない。計算結果だけが、指先を動かしていた。


損傷部位は、ギユウの右手と左足。

イロハは残された部分を保護し、搬送時の衝撃に耐えうる最低限の固定を行うため、作業を開始した。


木製の指先が、床に広がった血で濡れ、わずかに滑る。

その感触すら、修正対象として処理される。


金属線と端材を組み合わせ、右腕の断裂部を即席のギプスのように固定した、その瞬間だった。

ギユウの身体が、微かに痙攣した。


イロハはその反応を観測する。

意味の理解は行わない。ただ揺れを前提条件に加え、動作パターンを修正する。

続いて左足首へ。硬い板材で挟み込み、破損した関節が動かぬよう、慎重に固定していく。


処置が進むにつれ、ギユウの命は、細い糸のように不安定ながらも、かろうじて均衡を取り戻していった。

それは、アルファの知性とイロハの肉体が、初めて同時に現実へ介入し、成立させた連合作業だった。


カシャ、カシャ。


小型カラクリは静かにPCの前へ戻り、診断ケーブルを介してアルファを現実へと引き戻す。

アルファはギユウが設定していた連絡回線へ侵入し、即座に通報処理を完了させた。


『通報、完了』


連絡先は二箇所。

総合病院の救急部門、そして職人ギルド。


数分後、夜の静寂を引き裂くように、救急車のサイレンが急速に近づいてきた。

窓の外が、赤と青の光で断続的に染め上げられる。


救急隊員がドアを叩く音を聞いた瞬間、イロハは即座に行動を切り替えた。

素早く、しかし音を立てることなく、足元の工具箱の陰へと滑り込む。

電源を落とされた小型カラクリの躯体は、その瞬間から、ただの木製人形にしか見えなくなった。


血に染まった部屋へ救急隊員が踏み込み、ギユウは緊急搬送される。


その深夜。

ギユウが運び込まれた総合病院の廊下には、ギルド受付の紗羽が立っていた。

冷たい蛍光灯の光が、彼女の顔色を青白く照らしている。


「右手首と左足首の動脈を損傷しています。応急処置が的確だったため、最悪の事態は免れていますが……緊急手術が必要です」


医師の言葉に、紗羽は息を飲んだ。

すぐに電話を取り出し、震える声を無理やり抑え込む。


「ダイスケさん……儀右が事故に。病院に……すぐ来てください」


数十分後、病院の待合室に現れたのは、革ジャンに油染みの作業着という粗野な格好の男だった。

御子柴大輔。通称ダイスケ。

口髭を蓄え、短く刈り込んだ髪からは職人特有の頑固さが滲むが、その両手は確かな精密さを物語っている。


「よう、サワ。まさか病院で会うとはな」


ダイスケは手術室の方へ視線を送り、深く息を吐いた。


「両方か……」


呟くように言い、すぐに続ける。


「あのド阿呆、また無茶しよったか」


その一言が、ふたりの間にある過去の摩擦を、静かに揺らした。


「義肢のメンテなら、任せとけや。あの野郎の命は助かったんだろ?

 なら、後は俺の仕事だ。心配すんな」


ダイスケの言葉に、紗羽の凍りついていた表情が、ほんのわずかに緩む。


ギユウは緊急手術室へと運ばれ、長い入院生活が始まった。


やがて夜明け前。

冷えた空気が、血の匂いを残した自室兼工房へと流れ込んでくる。


部屋に残されていたのは、血の匂いと、冷気だけだった。


イロハは工具箱の陰から音もなく這い出ると、足を折り、その場に静かに腰を下ろした。

自らの躯体を見下ろすと、発条石の爆裂によって生じた欠けと、冷気に晒された木目の変色が視界に入る。


周囲の環境をスキャンし、ギユウの命を脅かす要因が存在しないことを確認する。

その後、視線は自然と、自身の壊れた手足へと移った。


指を動かすと、内部に散った墨脈が、微かな熱を伴いながら、深く、静かに沈んでいく感覚がある。


イロハは、自己修復の準備を開始した。

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