第1章 第1話 都会の二重文明を歩く儀右
朝、窓の外で二つの音が重なった。
ひとつは、高層ビルの屋上から鳴り響くAI広告塔の起動音。規則正しく、無機質で、今日という一日を正確に切り分ける電子の合図。
もうひとつは、路地を走るカラクリ郵便車の発条石が震える、かすかな木製の鼓動だった。低く、柔らかく、少し遅れて響くその音は、まるで街の深呼吸のようにも聞こえる。
儀右(ギユウ)は、ベッドの上で目を開けたまま、その二つの音を聞き分けていた。
上層のビル群では、ホログラムのAI広告が淡く空気を染める。天気予報、株価、娯楽情報。必要な情報はすべて、空中に投影される。一方、その足元では、古代木で作られた電柱に絡みつく墨脈ケーブルが、じんわりと熱を帯びながら街へとエネルギーを流している。
未来と太古が、混ざりきったまま動いている。
それがこの都市の日常だった。
誰も立ち止まって不思議がらない。
最新のAI技術が都市機能を制御し、同時に木製のカラクリが発条石の振動で郵便を運び、荷を引き、門を開閉する。二つの文明は競合も統合もせず、ただ並列に存在している。合理性だけを見れば歪んでいるはずなのに、街の温度は不思議なほど安定していた。
二十一歳になったギユウにとって、この混ざり合った矛盾こそが、何より落ち着く「帰ってきたくなる景色」だった。
育ちは関西。
商店街のアーケードにはAI補助の照明が白く輝き、通行人の動線に合わせて光量が変わる。そのすぐ下、照明の届かない影の部分では、古代カラクリの木組み機械が郵便物を仕分けていた。電子音もデジタル表示もない。ただ、木と石が噛み合って刻む、一定ではない時間の音。
祖母の家にあった古いカラクリ時計も、同じ音を立てていた。
規則正しいはずなのに、わずかに揺らぐ振動。完璧ではないからこそ、生きているように感じられた。
「なんでこれが動いとるんやろな」
幼い頃、祖母に向けて何度も投げかけた問いを、ギユウはいま東京のワンルームで無意識に口にしていた。
返事をする者はいない。それでも、この問いだけは、いつまでも胸の奥に残り続けている。
大学には一応、籍を置いている。
だが、講義室よりも、こうして部品に触れている時間のほうが圧倒的に長かった。単位は減り、周囲からの忠告も増えたが、それでも「直す・触る・知ろうとする」時間だけは、どうしても手放せなかった。
彼の部屋は、そのまま世界の縮図だった。
最新式のノートPCの隣に、古代カラクリの外装板。AI制御の空気清浄機が静かに風を送り、その下には修復待ちの古代木パーツが無造作に積まれている。電力ケーブルと発条石。シリコン回路と墨脈回路。文明の境界線が、ここでは意味を持たない。
今日、手にしているのは、昨日の帰り道で拾ってきた古代カラクリの外装板だった。
木目に沿って墨脈回路が走り、その黒い線は、まるで樹木自身が思考した痕跡のように刻まれている。
世界中の研究所が、何十年と挑み続けている課題がある。
墨脈回路を「書き込む」方法。解析不能、再現不能、製造不能。どんなAIも、どんな物理モデルも、この回路の生成原理だけは解き明かせていない。できるのは、壊れた部分を慎重に避け、既存の構造を保全することだけだ。
そんな厄介な仕組みが、この小さな木片の中で、いまも静かに眠っている。
ギユウは、その事実に思わず笑ってしまった。
「こいつは……どこが詰まってんねん」
修理に向き合うと、言葉は自然と関西訛りへ戻る。
指先で墨脈の溝をなぞると、内部が呼吸するように、かすかに震えた。電力機器の作動音とは明らかに違う。もっと曖昧で、もっと生き物に近い感触だ。
発条石を正しい角度で近づけると、微かな熱が指に伝わる。
石と古代木が噛み合う瞬間、内部で何かが整列する感覚がある。歯車が合うというより、考え方が一致する、そんな錯覚に近い。ギユウはその瞬間が、たまらなく好きだった。
机の端でノートPCが光り、AIアシスタントが修復候補を提示する。
だが表示されるのは、木材の強度計算、湿度管理、耐久年数の予測ばかりだ。墨脈回路に関しては、いつも同じ注釈が添えられる。
――解析対象外。推奨非干渉領域。
現代のAIですら、触れることを拒む領域。
ギユウは、その表示を一瞥し、鼻で小さく笑った。
「触れんからって、諦められるかい」
世界が二つの文明でできているなら、自分はその両方に手を突っ込めばいい。
合理性と非合理性。制御可能な技術と、制御不能な仕組み。矛盾が深いほど、世界は面白くなる。
外装板をひっくり返すと、墨脈がわずかに光を帯びた。
直せるかもしれない。直せないかもしれない。それでも構わない。触れ続けること自体が、ギユウにとっては意味だった。
工具を握り直し、机の照明を少し落とす。
電子の白い光と、木が発するかすかな呼吸。その両方を確かめるように、作業へと意識を戻す。
「よし……まずは分解からや」
そう呟きながら、ギユウは今日も二重文明の狭間に、静かに指を差し入れた。
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