第2話 経歴と業績

ハイランドとキャンベル氏族

 ジョン・フランシス・キャンベルは、1821年、アイラ島の領主である父親のウォルター・フレデリック(Walter Frederik Campbell, 1798-1855)と母親のルイーザ・アンティネッタ(Louisa Antinetta, 1800-1832)の間に長男として生まれた(図3)。スコットランドのハイランド地方の西岸地方はヘブリディーズと呼ばれ、複雑な海岸線と大小様々な島々からなり、アイラ島はその南端に位置する。ヘブリディーズ南部はアーガイルと呼ばれ、ハイランドと大都市のグラスゴーを結ぶ要所であった。キャンベル氏族はアーガイルを故地とし、キャンベル宗家は18世紀初頭にアーガイル公爵に叙され、政治経済界のみならず文芸界においても大きな役割を果たした。

図3 スコットランド南部の地図


 アイラのキャンベル家は、もともとはグラスゴー近くのショーフィールドを領地とする貴族であったが、高祖父母の代で何らかの理由でアイラ島を所有することになった。この高祖父はグラスゴー大学学長を勤めた人物である。祖父は第6代アーガイル公の娘と結婚し、8人の子供をもうけ、祖先の学問好きはその子供たちにも受け継がれた。長女エリザ・マリア(Eliza Maria, Lady Gordon-Cumming, 1795-1842)(10)は化石に興味を持ち、地質学者のチャールズ・ライエル(Charles Lyell, 1797-1875)(11)やスイス人化石学者のルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz, 1807-1873)(12)らとの交流を通して、古代生物研究に大きな足跡を残した(図3)。彼女はスコットランド北部のアルタイアのウィリアム・ゴードン-カミング(William Gordon-Cumming, 1787-1854)と結婚し、二人の間に生まれた子供の一人がコンスタンス・フレディリカ(Constance Frederica Gordon-Cumming, 1837-1924)(13)で、彼女は旅行作家・画家となって富士山を含む世界各地の風景画を残した(図4)。長男ウォルター・フレデリックも地質や気象に関心を持ち、アイラ島を相続すると、そこで近代的農業を実践しようと大きな投資をした。

図4.アガシーによりCheirolepis cummingaeケイロレピス・カミングと名付けられた古代魚の化石。エリザ画。

図5. 「乙女峠から見る富士山」、1878年、コンスタンス・ゴードン-カミング画。


 キャンベル宗家は、1707年のイギリス王国とスコットランド王国の連合に尽力したことにより公爵に叙され、その後、政治経済界だけではなく、学問においても秀でた人物を輩出した。第8代アーガイル公となるジョージ・キャンベル(George John Douglas Campbell, 1823-1900)は、従伯母エリザの影響を受け、幼少期から岩石や野鳥など広く博物学に興味を持ち、公爵を継いで政治家になっていなければ学者として大成していただろうと言われている(14)。彼は政府要職に就いても科学に対し関心を持ち続け、有識者としてグラスゴー大学の評議会委員と学長、さらに、イギリス航空学会(Aeronautical Society of the Great Britain)やロンドン地質学会Geological Society of Londonの会長を勤めた。グラスゴー大学が、19世紀半ば、ウィリアム・ランキン(William John Macquorn Rankine, 1820-1872)やウィリアム・トムソン(William Thomson, 1824-1907)(後のケルヴィン卿)を教授職に採用し、世界の科学技術研究をリードするようになったのは第8代アーガイル公の尽力によるものだった。

 ジョン・フランシス(以後、キャンベルと略す)は、生母ルイーザが早くに亡くなったためアイラ島でゲール語を話す人々に囲まれて育った。ゲール語とはケルト語の一派で、もともとはブリテン諸島で広く話されていたが、ローマ帝国の支配とゲルマン人の侵入によってイングランドでは消滅した。アイルランドやスコットランドには残ったが、前述したように、1707年のスコットランドとイングランドの両王国の連合化と、ジャコバイトの反乱の平定の過程で、連合政府により言語を含む民族文化は弾圧され、衰退の一途をたどった。

 キャンベルは、アーガイル公爵家の多くの近縁者がそうであったように博物学に興味を持ち、それを学ぼうとエジンバラ大学に入学した。しかし、学業途中で法学に転部し、卒業後、インナー・テンプルを経て弁護士となった。従妹のコンスタンスは、アイラのキャンベル家の様子を『記憶Memories(1896)』の中で書き記し、キャンベルの父親の農業開発は、1830年代半ばからジャガイモの不作が続き、そして、1845年の大凶作により事業倒産し、1847年に島を手放すことになったと述べている(15)。キャンベルが博物学者の道を諦めたのはこれが理由らしく、そして、彼はより堅実な法律家の道を選び、父親の負債精算に手を貸してくれたアーガイル公爵家に報いるため、第8代アーガイル公爵を継いだばかりの再従弟のジョージ・キャンベルを秘書として支えることにした。1853年に、第8代アーガイル公がジョージ・ハミルトン-ゴードン内閣において王璽尚書大臣として入閣すると、キャンベルもまた同省に次官として入省し、その後、20年以上もセント・ジェームス宮殿の同局事務所に勤めることになった。「肘掛椅子を使いつぶし、ほとんど何もしないで十分な給料と住居を得ることができたが、何か目的を持って歩き回ることを好んだ」(16)と語っており、上司であるアーガイル公の配慮で、王室認可法人の監査という閑職の傍ら、空いた時間を知的好奇心に費やしていた。


ゲール語民話研究

 キャンベルはゲール語に囲まれて育ったが、その民話研究を志したのは20代半ばのことで、『西ハイランドの民話集』によれば、二人の人物との出会いが切っ掛けであった。一人はハイランドのゲール語教育に尽くした牧師のノーマン・マックロウド(Norman Macleod 1783-1862)(17)で、彼から民族文化であるゲール語民話の研究の必要性を教えられた。もう一人はヨーゼフ・グリムの友人であるジョージ・ダセント(George Webbe Dasent, 1817–1896)(18)で、彼からグリムがどのように民話研究を行ったのか助言を受けた。当時、ゲール語神話としてジェームス・マックファーソン(James MacPherson, 1736-1796)著の『オシアン詩集』(19)が広く知られていたが、しかし、それは古写本に基づかない彼の創作ではないかという疑念がもたれていた。キャンベルはゲール語民話の全体像を明らかにするためだけではなく、マックファーソンの『オシアン詩集』の真偽を確かめることにした。

 『オシアン詩集』の出版から80数年の年月が経っており、当然のことながら民話神話を記憶する人々は少なくなっていたが、しかし、ヘブリディーズ地方の文化地理情報はずっと詳しく豊富になっていた。というのは、18世紀末から政府を受けて北方灯台局(Northern Lighthouse Board)が灯台他の航路施設を整備し始め(20)、また、19世紀に入りイギリス海軍は精巧な地図作製にのりだしたことで(21)、そのおかげでどこにどのような人物がいるのか分かるようになっていた。キャンベル自身、北方灯台局の副事務局長を務めていたこともあり、関係各所からさまざまな便宜提供を受けることができたはずで、およそ10年をかけて民話調査の情報提供者や調査協力者とのネットワークを築いた。そして、『西ハイランドの民話集』の民話採集リストに記載されているように、1859年4月から翌年6月の間に20人ほどの力を借り、集中的に各地を回って伝承者から50話ほどの民話を聞き出した。その傍ら、キャンベルには伯母のエリザと同じように画才があり、ゲール文化遺物をスケッチし、また民話神話を図像化し、『西ハイランドの民話集』に添付した(図6)。

図6. 『西ハイランド民話集』巻末の挿絵


 採集した民話を解読してみると、そこに登場するモチーフやアクターがゲルマン語や北欧諸語の民話神話にも見られることに気づき、その起源を考えずにはいられなくなった。18世紀末、言語の起源論に関して大きな発見があり、それはインド植民地に法律家として勤務していたウィリアム・ジョンズ(William Jones, 1746-1794)によってもたらされた。彼はインドとヨーロッパの諸語の基本語彙がよく似ていることに気づき、これらをインド・ヨーロッパ語族として定義し、ゲルマン語やケルト語も含まれると主張した(22)。それを受けて、19世紀に入ってヤーコブ・グリムはゲルマン系言語の語彙・文法を研究し、また、ドイツからイギリスに渡ったマックス・ミュラー(Friedrich Max Müller, 1823-1900)はサンスクリット語神話の解読を通して、この語族の起源が中央アジアにあり、それを担ったアーリア人が周辺に拡散するとともにこの言語を各地に伝えたとするアーリア学説を提唱した。ジョンズがこの言語の広がりを議論したのに対し、ミュラーは言語と人種(民族)が一体となって拡散したと主張した。

 このアーリア学説に対し、キャンベルの身近に一見識を持つ人物がいた。キャンベルがゴッドファザーと呼ぶジョン・クロフォード(John Crawfurd, 1783-1868)(23)で、1856年の『マレイ語の文法と辞書Grammar and Dictionary of the Malay Language (1856)』の中で、単一民族起源論のミュラーのアーリア学説を否定した。1861年にロンドン民族学会Ethnological Society of London会長となり、亡くなるまでキャンベルの良き話し相手であった(24)。『西ハイランドの民話集』第4巻の後半で、ジョンズ、グリム、ミュラー、クロフォードなどの先学を参考にゲール語民話の起源を議論し、そしてそれを序文の中に次のように総括している。


「人類が共通の起源を持ち、アジアの平原から始まり、民話が真に古い伝統であるならば、セイロンの物語はバラのそれに、日本の物語は他の地のそれに似ているはずだ。なぜなら、東へ旅して日本に辿り着いた人々は、容易にそれ以上進むことができなかったからだ。オリファント氏によれば、中国でも日本でも、路上でプロの語り部を取り囲んで人々が彼の話しを聞いているのをよく見かけたという。そして、誰か、私たちに彼らの能力を評価してくれるよう願う。」(25)


 キャンベルは、インド・ヨーロッパ語の祖語の拡散がアーリア人の集団移動というよりも、民話神話を語る特定の人々(語り部storytellers)の移動によって生じたと想定しているので、クロフォードと立場が近かったのかもしれない。上記のバラBarraとはアウター・ヘブリディーズのバラ島のことであり、キャンベルにとってゲール語民話採集の拠点の一つであった。また、オリファントとは外交官として幕末日本に滞在経験のあるローレンス・オリファント(Laurence Oliphant, 1829-1888)(26)のことで、キャンベルは公私にわたって親しかった。オリファントが日本で見かけたような語り部が、遠い昔に中央アジアから周辺に広がり、次々に語り継がれ、北西方向にたどってヘブリディーズに、南下してセイロン島(現スリランカ)に、また東進して日本列島に行き着き、島国であったためそこに留まったと考えたわけである。しかしながら、キャンベルはこの課題の探求を比較言語学者に投げかけただけで、その後、別の研究テーマに取り組んだ。


地球科学

 キャンベルは自然科学にも興味を持ち続け、衛生事業団Sanitary Board、の副事務局長を兼務していた1854年、ロンドンにコレラが大流行し、彼はコレラ発生と気候の関係を明らかにしようと日照記録計(図7)を発明した(27)。父親のウォルターは、近代的農業経営のためにアイラ島に気象観測機器を備えていたので、幼いキャンベはそこにあった寒暖計の管球に太陽光が当たると焦点を結ぶことを知り、この原理を応用し日照時間を記録することにした。この初期型は数学者のジョージ・ガブリエル・ストークス(George Gabriel Stokes, 1819-1903)によって改良され、キャンベル・ストークス型日照計として実用化された。

図7. キャンベル日照計。The Science Museum, London.


 前述したように、第8代アーガイル公となるジョージ・キャンベルは、従伯母エリザの影響を受け地質学に興味を持ち、1840年にアガシーがグラスゴーで開かれたイギリス科学振興協会において行った講演を聴き、彼の知性と風貌に魅了されてしまったと自伝に書いている(28)。身近な師であったチャールズ・ライエルは確かに近代地質学の基礎を築いたが、アガシーはライエルが軽視した氷河の作用に着目し、1837年に北半球の大部分がかつて氷河に覆われていたという仮説(極地氷河説)を提唱し、地質学界に大反響を与えていた。ジョージ・キャンベルは科学者としての道は選ばす、1847年に父親が亡くなりアーガイル公爵を継ぐと、家業と議員公務に多忙となり、一時、学究活動の時間をなくした。1851年になり、マル島の領民が見慣れない化石を発見すると、それを古代樹木の葉形とする分析結果をロンドン地質学会雑誌に発表した。それが認められ、同年、王立協会正会員となり、さらに、1872年、ライエルらの推薦によってロンドン地質学会Geological Society of London会長に就任した。

 19世紀後半のヨーロッパの地質学界ではアガシーの極地氷河説は大きな課題であり、アーガイル公もそれに強い関心を持っていた。しかしながら、彼は王璽尚書の大臣職で多忙であり、その代わりにキャンベルはゲール語民話研究を中断し、極地氷河説を確かめるためのフィールドワークに出かけることにしたらしい。最初は1863年、アイスランド、グリーンランド、ノルウェーで地質調査をし、そして、霜(氷河=外的要因)と火(火山=内的要因)を地質地形変動の駆動力(エンジン)ととらえる考察結果を『Frost and Fire, Natural Engines, Tool-Marks and Chips, 1864)』(29)(図8)(以後、『霜と火』と略す)として出版した。ついで、彼は1864年7月に北アメリカに出かけ、ニューファウンドランドのフィヨルドやプレーリーの地層地形を短期間視察調査し、その観測記録と旅行記を『A Short American Tramp in the Fall of 1864, 1865)』(30)(以後、『アメリカ徒歩旅行』と略す)(図9)として出版した。この時、キャンベルはアガシーの氷河説に傾きつつあった。

図8. 『霜と火』の巻頭口絵。    

図9. 『アメリカ徒歩旅行』の挿絵の一つ。


 アーガイル公キャンベルは、1872年のロンドン地質学会会長就任講演において、当時の地学界の諸課題をレビューし、その中でキャンベルの『霜と火』と『アメリカ徒歩旅行』を引用しながら、極地氷河の存在範囲はかなり限定的であろうと述べた(31)。この直後の1872年末にキャンベルは調査旅行に出かけ、アイルランドとスカンジナビアを2ヶ月間、1873年には全ヨーロッパを5ヶ月間地質調査したところ、各地で氷河の痕跡を確認し、彼はアガシーの極地氷河説を肯定するようになった。そして、その考察を1873年のロンドン地質学会季報に「極地氷河の期間他についてAbout Polar Glaciation and etc.」(32)と題して発表し、もっと広範囲な調査データを集め分析すればより明確になるだろうと結んだ。このように、アーガイル公が極地氷河説に慎重であったのに対して、キャンベルの方は肯定的であり、この二人は考え方を一にするわけではないが、1860年代から70年代にかけて職務においても学術面においても強い協力関係にあった。

 1874年7月に王璽尚書次官の任期が切れることから、キャンベルは一年間の休暇を取り世界一周にでかけた。帰国後、王璽尚書に復職し、公務の傍ら、旅行記録を『私の周遊記』としてまとめ出版した。そして、亡くなる直前まで地球科学と民俗学の二つの分野への関心を持ち続け、前者に関しては『サーモグラフ(Thermograph, 1883)』(33)を出版し、また、後者に関する『ケルトのドラゴン神話(Celtic Dragon Myth, 1911)』(34)は遺稿となった。文理両方に関心を持ち続け、その考察を文章だけでなく画像でも表現した稀有な学者であった。ドラゴン神話を生前最後の考察対象としたのは、序文の書き出しから分かるように、ドラゴンを生命と地球の循環を具現化するものとして捕らえていたからなのであろう。

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