第15話 『泥だらけの令嬢と希望の種──欠点は、庭を彩る風になる』

独立宣言から数日。ゼフィルス領主館の裏手には、手つかずの広大な荒れ地が広がっていた。


エリエットは、柔らかな春の陽光を背に受けながら、土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。執務室の羊皮紙とインクの匂いから解放され、今は湿った土と、どこか懐かしい草の香りが鼻をくすぐる。


「……ふふ、ここを花でいっぱいにできたら、きっと素敵よね」


彼女の視線の先には、一人の老人が立っていた。日に焼けた深い皺の刻まれた顔に、節くれだった大きな手。領民から「庭造りの名人」と名高い、庭師のゴードンだ。


「お嬢様、いや領主様。こんな泥だらけの場所に、公爵令嬢が何の御用で?」


ゴードンが不器用に頭を下げると、エリエットは屈託のない笑みを返した。


「エリエットでいいわ、ゴードン。ねえ、私にガーデニングを教えてくれないかしら。私、どうしても植えたい花があるの」


「ほう、花ですか。して、何をお望みで?」


「スノードロップよ。それから、クリスマスローズも」


エリエットの脳裏には、前世の記憶が鮮やかに蘇っていた。冬の凍てつく寒さの中、誰よりも早く頭を垂れて咲く、あの清純な白い花。注意散漫で、いつも何かに追い立てられていた前世の自分にとって、雪の中から顔を出すスノードロップは、唯一心が休まる「希望」の象徴だった。


「スノードロップ……『待雪草』ですな。お目が高い。あれは健気で、それでいて芯が強い」


ゴードンは感心したように頷くと、傍らにあった古びたシャベルをエリエットに手渡した。


「いいですか、エリエット様。土を触るってのは、自分の心と対話するのと同じです。慌てちゃいけねえ。まずは、その異空間倉庫から『種』を出してくださいな」


「ええ、ええと……たしかこの辺に……あっ」


エリエットが念じると、倉庫から勢いよく種袋が飛び出し、彼女の鼻先に当たって地面に転がった。


「あらら……相変わらず、取り出す力加減が苦手で。ごめんなさい、ゴードン」


「ははは! 勢いが良くていいじゃありませんか。さあ、まずはスノードロップの球根を植える穴を掘りましょう。手のひらひとつ分、優しく、でも確実に」


エリエットはしゃがみ込み、土に指を差し込んだ。ひんやりとした感触が指先から伝わり、心地よい刺激となって脳に響く。


「……あ、冷たい。でも、なんだか柔らかくて、生きているみたい」


「土は生きてるんです。お嬢様の注意がどこかに飛んでいっちまっても、この子たちはここでじっとして、お嬢様が戻ってくるのを待っててくれますよ」


ゴードンの言葉に、エリエットの胸がキュッと締め付けられた。 整理整頓ができず、一度に多くのことに気を取られ、周囲から「役立たず」と罵られた日々。でも、植物は彼女を急かさない。


「クリスマスローズは、こっちの日陰に近い場所にしましょうか。あの子たちは、少し恥ずかしがり屋ですからね」


「クリスマスローズ……冬の貴婦人ね。下を向いて咲く姿が、慎ましくて大好き。でも、根っこはすごく強靭なのよね」


エリエットは、一粒一粒の球根を鑑定するように見つめた。**「品質鑑定」**の力が、球根の内に秘められた生命力を可視化する。


(この子は、少し水分が足りないかな。こっちの子は、春になったら一番に咲きたがってる……)


「……見えるわ。この子たちが、どんな風に花を咲かせたいのか」


「ほう、それはお嬢様にしかできない『対話』ですな。さあ、土を被せて。布団をかけるように、優しく」


エリエットの掌が、黒々とした土を球根の上に広げていく。 その時、ふと悲しい記憶がよぎった。王宮の華やかな庭園で、レジナルド王子に「君の選ぶ花は地味で、公爵家にふさわしくない」と切り捨てられたこと。妹に「お姉様が触ると、花まで枯れてしまいそう」と笑われたこと。


目頭が熱くなる。ポタリと、一滴の涙が土に落ちた。


「……お嬢様?」


「……ごめんなさい。なんだか、今まで『完璧』じゃなきゃいけないって、ずっと思ってたから。でも、ゴードンが言うように、この子たちは私が不器用でも、ちゃんと咲こうとしてくれるのね」


ゴードンは、泥のついた手で自分の手ぬぐいを取り出し、エリエットの側に置いた。


「完璧なんて、つまらねえもんですよ。庭だってそうです。あっちこっちに雑草が生えたり、予定にない花が迷い込んだりするから、深みが出る。お嬢様のその『落ち着きのなさ』だって、庭から見れば『あちこちに命を運ぶ風』みたいなもんです」


「……風、かしら」


「左様で。さあ、次はこのクリスマスローズの苗です。これは少し深い穴が必要ですぞ」


エリエットは涙を拭い、再びシャベルを握った。 今度は、迷いがない。 土を掘る感触、風が運ぶ潮騒の音、そして隣で自分を見守ってくれる庭師の気配。


「見ててね、ゴードン。この庭が花でいっぱいになったら、世界中から来る商人に自慢するわ。ここには、どんなに不器用な人間でも、自分だけの花を咲かせられる場所があるんだって」


「それはいい。きっと、世界で一番贅沢な庭になりますな」


夕暮れ時、オレンジ色の光が庭を包み込む。 エリエットの手は泥だらけで、髪には枯れ葉がついていた。公爵令嬢としては失格かもしれない。けれど、彼女の心は、かつてないほど澄み渡っていた。


異空間倉庫には、まだ数えきれないほどの種がある。 明日は何を植えようか。 散らかった思考は、今や広大な庭を描くためのパレットへと変わっていた。


「さあ、お嬢様。そろそろテオ様が、温かいお茶を持って探しに来る頃合いですぞ」


「あら、大変! 独立宣言の書類、またどこに置いたか忘れちゃったわ!」


「ははは! また風が吹きましたな!」


エリエットは笑いながら、立ち上がった。 足元の土の中では、小さな希望たちが、春の訪れを静かに待ち始めている。


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