ドロイトメライ

第一章：霞に包まれた魂

自分がいつからここにいるのか、レークスには分からなかった。

少女の記憶には明確な始まりがなく、気づけばすでに“ここにいた”。

体があるのかも分からない。空腹も、寒さも、痛みもない。

ただ“存在している”という曖昧な感覚だけがあった。

この場所は、見覚えのある港町だった。

かつては潮の匂いと、人々の活気に満ちていたはずの故郷。

だが今は、錆びた鉄と腐敗の匂いが漂い、沈黙が支配している。

崩れた建物。沈んだ桟橋。砂に埋れた漁船。

かつて人々が行き交った通りは、ひび割れ、寂しさだけを残している。

＿＿それでもここが、レークスの故郷だった。

そんな廃墟の町の中央で、レークスはぼんやりと佇んでいた。

霞のような記憶が、ときおり脳裏をよぎる。

賑やかな笑い声、海の輝き、魚の跳ねる音。

そして「お腹、空いたね。」という声。

温かさはなく、ただ音だけが淡く残っている。

時折、それとは別に

“何もない空の下で、世界が沈黙している光景”がよぎることもあった。

夢か、幻か。理由は分からない。ただ、その映像は何度も繰り返し浮かんでは消えた。

周囲には、ほかにも影があった。

通りや建物の隙間に揺れる、人の形をした霞。呼びかけても応えはなく。近づこうとすると消えるか、悲しみを宿した眼差しを返すだけ。

彼らは“亡霊”だと、レークスは理解していた。

そして自分もまた、彼らと同じ存在なのだと。

なぜ町がこうなったのか。両親はどこに行ったのか。

疑問は浮かぶのに、探そうという衝動には繋がらない。

ただ、永遠に彷徨い続けるのだと、他人事のように考えていた。

その時だった。

空気が変わった。

いつもの霞んだ影ではない、“明確な存在”の気配。

黒い衣をまとい、桃色の髪と瞳をした少女が、港町の通りを歩いてきた。

軽やかな足取りは、この沈黙の世界には不釣り合いだった。

レークスは、消えることも逃げることもせず、ただ立っていた。

まるで地に縛られた霊のように。

やがて少女は目の前で止まり、真っ直ぐに視線を向けてきた。

驚くほど幼い顔で、口を開く。

「…アンタ、こんなとこで何してるの？」

声をかけられた。

その事実が、レークスにはどこか非現実に思えた。

「私は…分からない…。」

ただいるだけ。そうとしか答えようがなかった。

「分からない、か…ふーん。」

彼女は肩をすくめ、顎に手を当て何かを考える素振りを見せる。

やがて視線を荒廃した町に向け、淡々と口にした。

「ここ、酷いねぇ。生命の匂いがこれっぽっちもしない…アンタ、寂しくないの？」

レークスは答えられなかった。

寂しいという感情が、もう分からなかった。

「ま、無理もないか。」

少女は小さく息を吐き、再び視線を戻す。

再びレークスに視線を移した彼女は、問いかける。

「アンタ、ここで死んだんだよね。」

その言葉が、霞んだ記憶を呼び覚ます。

お腹が空いた。力が抜けていく。視界が歪む＿＿

その断片が“死”と結びついていく。

「たぶん…。」

かすかに答えると、少女はレークスの周りをぐるりと回り、値踏みをするように見つめた。

「…随分、古い魂のヨドミがある。でも…悪霊にはなってないんだねぇ。」

悪霊＿＿冷たい眼差しを持ち、妬み恨みを呟く者たち。レークスは彼らのことを思い出し、僅かに身を震わせた。

少女は気に留めず、にっと笑う。

「ま、いいや。アタイはメニィ。魂を回収するのが仕事。死神ってやつだね。」

死神＿＿その言葉が重く響く。

「この町も前に“片付けられた”はずなんだ。全部冥府に送られた…はずだったんだけど。」

メニィが指差す先には、まだ彷徨う亡霊たちがいた。

「ね？まだいるでしょ。だから、今度はアタイがやりに来たのさ。」

メニィは淡々と話す。

「ただ、今は面倒な事が起きててねぇ…現にほら、まだウヨウヨしてるでしょ？そういうことだから、今度はアタイが仕事しに来たってことさ。」

伸びをしながら話すメニィとは別に、レークスはまだ理解が追いついていないといった顔をする。

レークスの中で、メニィの言葉がゆっくりと意味を成していく。自分が死んだこと、町が滅びたこと。記憶の断片が、少しだけ浮かんだ気がした。しかし、泣き出すことはない。ただ、全てが遠い出来事のようで、自分とは何も関係がないのだと感じていた。

「そう…」

レークスは、それだけを呟いた。

続けて言いかけて、言葉を飲み込む。

“この先に何が起こるのかを、もう知っている気がする”＿＿そんな奇妙な感覚が胸の奥にあった。

けれど、それを口に出せば消えてしまいそうで、ただ黙っていた。

メニィはそんなレークスの反応をじっと見つめる。

「普通さぁ、もうちょっと取り乱したり、怒ったりとか、ないの？」

その言葉を聞いて、レークスは少し考えてみる。感情が上手く掴めない。興味がない、とは少し違う。ただ、それがどういう意味を持つのか、どういう感情であるべきなのか、分からないのだ。

そんなレークスの様子を見て、メニィはフッと鼻で笑う。

「だろうね、つまんないの。」

そして、レークスから興味を失ったように、再び周囲を見回した。

「とっととアイツら回収して、次の場所に行かなきゃね。」

気怠そうに言った次の瞬間には、なにもない場所から大鎌を取り出し、刈り取る動作をしていた。亡霊は見えない力で鎌に吸収されていき、やがて町にはレークスとメニィ、そして少しの悪霊だけが残った。

「あー、やっぱ悪霊は残っちゃうよね…まあいいか。」

そう言って、メニィは町から背を向け、歩き出した。

レークスは、その背中をぼんやりとみていた。今度こそ、本当に一人になる。回収されなかった自分は、永遠にこの廃墟を彷徨い続ける。その事実に、抗うべきだという感情は湧かない。しかし、メニィが持つ意思や目的といったものに、自分が失ってしまった輝きがあるような気がした。彼女について行けば、この場所から、この終わりのない時間から、抜け出せるのではないか、という漠然とした予感があった。

気づけば、レークスはメニィの後を追って、歩き始めていた。

メニィは、レークスがついてきていることに気づいていた。むしろ、最初からそうなると分かっていたように、当たり前に歩みを続ける。振り返ることはしない。ただ、問いかける。

「…アタイについてくるの？」

レークスは、絞り出すような声で答える。それは、レークスにとって最初の明確な意思表示だった。

「私も…行く…メニィの、行くところに。」

メニィは振り返って、怪しげな笑みを浮かべた。そしてまたすぐに、前を向いて、歩き始めた。

レークスは意思を持って、その背中の後を追った。

こうして、亡霊の少女レークスは、死神の少女メニィと共に、まだ謎が残されている世界へ旅立った。

レークスの中には、まだ形にならない願いが、微かな灯火のように宿っていた。

それは願いであると同時に、“どこかで見た未来の記憶”でもあった。

なぜ知っているのかは分からない。けれど、その未来を変えたいと、確かに思った。