第2話
『あなたの短所を、具体的なエピソードを交えて教えてください(400文字以内)』
数日後の深夜一時。私は再び、居酒屋『隠れ家』のカウンターで、就活のエントリーシートと対峙していた。私の名前は小鳥遊初音。現在、就職活動という名の荒波で溺れかけている大学三年生だ。
短所。そんなもの、書き出したら原稿用紙が何枚あっても足りない。「あやかしを見るとつい餌付けしたくなること」だろうか。
それとも「名前も知らないあやかし相手に、お茶漬け一杯で恩を売ろうとする図々しさ」か。
どちらを書いても、面接官は私の精神状態を心配して、産業医の予約を入れてくれるに違いない。
「……進まない」
私はシャーペンを回した。外はあいにくの曇り空だ。あの雨の夜から数日が経ったが、私の日常は驚くほど変化がなかった。
店主の老猫又は相変わらず奥で泥酔しているし、客足は絶滅危惧種並みに途絶えている。
唯一変わったことと言えば、ふとした瞬間にあの夜の客のことを思い出すようになったことくらいだ。
ふらっとやってきた謎の紳士。人間離れした整った顔立ちと、それに似つかわしくない不器用な言動。そして何より、彼が纏っていた特級クラスの妖気。
(……ただのあやかしじゃないよね)
私はペン先で頬をつついた。私の体質上、雑多な妖怪には慣れているが、あそこまで澄んだ、研ぎ澄まされた気配を持つ存在は初めてだった。また来るだろうか。それとも、あれきりだろうか。
そんなことを考えていた、その時だった。
ザッ、ザッ、ザッ。
店の外から、革靴がアスファルトを踏む音が聞こえた。結界で守られたこの廃屋に近づく足音。私は身構えた。野良のあやかしか、それとも迷い込んだ人間か。
ザッ、ザッ、ザッ……ザッ、ザッ、ザッ。
足音は、入り口の前で往復していた。入ってこない。行ったり、来たり。行ったり、来たり。まるで、入店するかどうかをコイントスで決めている優柔不断な地縛霊のようだ。あるいは、入り口の引き戸に「結界」ではなく「ためらい」という名の錠前がかかっているのか。
(……怖いんだけど)
私は立ち上がり、そっと入り口へ近づいた。磨りガラス越しに、長身の影が見える。影は扉に手をかけようとして、止めて、また戻って、天を仰いで、深呼吸をしているようだった。
不審者だ。もしかすると、ここに迷い込んだ人間の不審者かもしれない。私はモップを構え、意を決して引き戸をガラリと開けた。
「誰ですか!? お客じゃないなら――」
そこまで言って、私は言葉を失った。
そこにいたのは、あの男だった。
今日はチャコールグレーのスリーピーススーツを完璧に着こなしている。前髪を遊ばせたクラシカルな髪型が、夜風に揺れている。
彫りの深い端正な顔立ちは、相変わらず「美」の暴力だ。ただ、その表情だけが、ひどくバツが悪そうに歪んでいた。
先日、雨を止めて帰っていった、あの『あやかし紳士』だ。
「……こんばんは」
男は、私と目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。
「いらっしゃいませ……何をしてるんですか、こんなところで」
「いえ。……不法侵入に当たるかどうか、法的解釈を検討していました」
「ここは居酒屋です。入り口が開いていれば、入店は合法です」
私はモップを下ろした。男は「そうですか、合法ですか。では合法的に入店します」と訳の分からないことを呟きながら、おずおずと店内に足を踏み入れた。
前回のような、極限まで疲弊した様子はない。だが、緊張感はあった。まるで、彼女の実家に挨拶に来た彼氏のような、妙な硬さがある。
彼は前回と同じ、カウンターの端の席に座った。その動作は優雅で、映画のワンシーンのようだ。背景がボロい居酒屋であることを除けば。
「お冷やでいいですか?」
「……はい。お願いします」
私はコップを置いた。男はそれを一口飲むと、居住まいを正し、私の方へ向き直った。
「先日は、どうも」
「えぇ……また来ていただけて嬉しいです」
「顔にはそんな事書いてなさそうですよ? 『また来たのか』と」
からかうように笑いながら言われてしまった。
「そっ、そんな事ありませんよ!?」
彼の腹の虫が「グゥ〜」と情けない音を立てて鳴いたからだ。あやかしの腹の虫も、人間と同じ音がするらしい。
「今日のご注文はどうされますか?」
私がメニューを差し出すと、男はビクリと肩を震わせた。そして、恐る恐るメニューを受け取る。前回は「流動食」をご所望だったが、今日はちゃんと選ぶ気があるようだ。
男の視線が、メニューの上を彷徨う。刺身、焼き鳥、おでん。彼の視線が動くたびに、眉間の皺が深くなったり、浅くなったりする。
何かに悩んでいる。国家予算の使い道を決める財務大臣のような顔で、彼は居酒屋のメニューと格闘していた。
やがて、彼の視線が一箇所で止まった。そして、そこから動かなくなった。黄金色の瞳が、その一点に釘付けになっている。
「……あの」
男が、蚊の鳴くような声を出した。
「はい」
「……その、質問なのですが」
「なんでしょう」
男は、周囲を警戒するようにキョロキョロと見回した。客は私と彼しかいないし、奥で寝ている猫又はイビキをかいているだけだ。誰も聞いていない。
男は少し前傾姿勢になり、声を潜めて言った。
「……この、『オムライス』という料理は……」
「はい、オムライスですね」
「……これは、大人の男性が、単独で注文しても……法に触れませんか?」
「触れません」
私は即答した。どこの国の法律だ。オムライス禁止法なんて制定されたら、日本中の洋食屋が暴動を起こす。
「そうですか……年齢制限などは……」
「ありません。R指定のオムライスなんて聞いたことありません」
「……左様でございますか」
男は、安堵の息を漏らした。そして、意を決したように、私を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、重要な商談に臨むビジネスマンのように真剣だった。
「では……その、オムライスを。……一つ、所望します」
「かしこまりました」
「あ、あの!」
私が厨房へ向かおうとすると、男が慌てて呼び止めた。
「……卵は、その……ふわとろ、でしょうか」
「ふわとろです。半熟です」
「……っ!」
男の瞳が、カッと見開かれた。そして、口元が緩むのを必死に堪えるように、口を引き結んだ。
だが、隠せていない。目尻が下がっている。「ふわとろ」という単語の響きだけで、この紳士は幸福の絶頂に達しようとしていた。
(……可愛いかよ)
私は心の中でツッコミを入れた。見た目は冷徹なエリート。中身はオムライスにときめく少年。ギャップ萌えというには、落差が激しすぎて耳がキーンとするレベルだ。
「デミグラスソースでいいですか?」
「……デミグラス……素晴らしい響きだ。お願いします」
男は厳かに頷いた。私は笑いを噛み殺しながら、厨房へと入った。
◆
オムライス。それは、大人の中に眠る子供心を揺さぶる、黄色い悪魔だ。特に、社会という戦場で傷ついた男たちにとって、あの優しい卵の布団は、母性そのものなのかもしれない。
私は手早く準備を整えた。玉ねぎと鶏肉を刻むリズミカルな音が、静かな店内に響く。ケチャップライスを炒める音。
甘酸っぱい香りが立ち昇り、換気扇へと吸い込まれていく。背中で気配を感じる。カウンターの向こうで、男が背筋を伸ばしたまま、しかし鼻だけをヒクヒクさせているのが手に取るように分かる。
私はフライパンを熱し、バターを落とした。ジュワァァ、という音と共に、芳醇な香りが広がる。そこに、牛乳とマヨネーズを加えた特製の卵液を一気に流し込む。
ここからはスピード勝負だ。菜箸で大きくかき混ぜ、半熟のスクランブルエッグ状にする。火を通しすぎてはいけない。予熱で固まる計算もしつつ、フライパンの柄を叩いて形を整える。プルプルと震える、黄色い宝石。
チキンライスの上に乗せ、自家製デミグラスソースを回しかける。最後にパセリを散らせば、完璧な「昭和の洋食屋」スタイルのオムライスの完成だ。
「お待たせいたしました」
私がカウンターに皿を置くと、男は息を呑んだ。
「……おお」
低い感嘆の声が漏れた。男は、まるで聖遺物でも見るような目で、オムライスを凝視している。その黄金色の瞳が、卵の黄色と共鳴して輝いているように見えた。
「……これが、ふわとろ……」
「ナイフで真ん中を割って召し上がってください」
「割るのですか? この完璧な造形を?」
「割らないと、ふわとろになりませんよ」
男は逡巡した。芸術品を破壊する罪悪感と、食欲との葛藤。しかし、食欲が勝ったらしい。震える手でナイフを持ち、オムレツの中心に、すっ、と刃を入れた。
とろり、と半熟の卵が左右に雪崩れ落ち、チキンライスを覆い尽くした。湯気と共に、バターと卵の甘い香りが弾ける。
「……!」
男が、小さくガッツポーズをしたのを、私は見逃さなかった。テーブルの下で、こっそりと握り拳を作っている。お客様、喜びすぎです。
「どうぞ、熱いうちに」
男はスプーンに持ち替えた。デミグラスソースと卵、そしてチキンライスをバランスよく掬い取る。そして、口へと運んだ。
パクり。
咀嚼する。その瞬間。
男の眉間の皺が、アイロンをかけたように綺麗に消滅した。
「……んん」
鼻にかかった、甘い吐息が漏れる。閉じた瞼の下で、瞳がトロトロに溶けているのが分かるような表情。
「……美味い」
男が呟いた。
「卵が消えました……口の中で、春の雪のように」
「詩人ですね」
「ソースの深みと、ライスの酸味。そして卵の包容力……これは、完全食だ」
男は、そこからは無心でスプーンを動かし始めた。一口食べるごとに、口元が緩む。前髪が邪魔そうに揺れるが、気にする様子もない。私はその様子を、頬杖をついて眺めていた。
(……なんか、大型犬みたいだな)
そう思った瞬間だった。男の背後、スーツのお尻のあたりで、何かが動いた気がした。
バサッ、バサッ。
(ん?)
カウンターの下を覗き込む。そこには、太くて立派な、青黒い鱗に覆われた『尻尾』があった。トカゲ? いや、それにしては太すぎる。
何にしても、尻尾がメトロノームのように左右に揺れ、床をパタパタと叩いている。
そして、七三分けの流した髪の毛の間からは角が生えていた。
(……出てる)
出てる。完全に、出てる。正体は分からないが、何かしらのあやかしであることは確定。
そんな彼も喜びを隠しきれなかったらしく、口ではクールに食レポしているが、尻尾は正直に「うめぇ! オムライスうめぇ!」と叫んでいる。
「……お客様」
「……んぐ、はい。なんでしょう」
男は口に卵を詰め込んだまま、私を見た。幸せそうな顔だ。指摘するのは野暮かもしれない。
「……いえ、なんでもありません。ごゆっくり」
私は見なかったことにした。美味しいなら、それでいいじゃないか。床が少し傷つくかもしれないが、そこは後で請求すればいい。
男はあっという間に完食した。皿に残ったソースまで、名残惜しそうにスプーンで掬っている。そして、綺麗になった皿を見て、深く満足げな息をついた。
「……ご馳走様でした。素晴らしい体験でした」
「それは良かったです」
男はナプキンで口元を拭い、スーツの襟を正した。尻尾は、いつの間にか消えていた。
「お会計を」
男は立ち上がり、財布を取り出した。今日は濡れていない、パリッとした千円札が差し出された。
それを「ありがとうございました」と言いながら受け取ると、すぐに男は帰り支度を始めた。
「……また、来てもよろしいでしょうか」
帰り際、男が背中を向けたまま聞いた。その声には、少しの不安が混じっていた。
「もちろんです。ここは居酒屋ですから」
「……そうですね。今度は酒でも飲みたいものです」
「飲めないんですか?」
「えぇ……仕事が忙しくて」
「大変ですね……」
「はい。けど……」
男はじっと私を見た。前髪の隙間から覗く黄金色の瞳が、柔らかく細められた。
「……貴女の料理は、優しい味がします。好きになりました」
それは、あのお茶漬けの時と同じ、切実な響きだった。私は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
その表情に顔が熱くなる。好きになったのは料理のことに決まっていると自分に言い聞かせる。
「あっ……ありがとうございます。……また、お待ちしています」
「えぇ……必ず来ます」
男は小さく頷き、扉を開けた。夜風が吹き込む。男は一度だけこちらを振り返り、そして闇の中へと消えていった。
店内に静寂が戻る。私は、彼が座っていた席を片付け始めた。空になった皿が、照明を反射して光っている。
「……オムライス、好きだったんだ」
私はクスリと笑った。あんな強面のあやかし紳士が、ふわとろ卵に夢中になって尻尾まで出してしまうなんて。これは、誰にも言えない秘密だ。就活のエントリーシートにも、もちろん書けない。
「短所:表情に出やすい」
私は心の中で履歴書を更新した。この秘密を知っているのは、世界で私だけかもしれない。
そう思うと、なんだか少しだけ、特別な気分になってニヤニヤしてしまっていた。
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