就活全滅中で居酒屋バイトの私、常連客の龍神様に溺愛される

剃り残し@コミカライズ開始

第1話

『あなたの長所を、具体的なエピソードを交えて教えてください(400文字以内)』


 深夜二時の居酒屋『隠れ家』のカウンターで、私はこの無慈悲な設問と睨めっこしていた。私の名前は小鳥遊たかなし初音はつね。現在、就職活動という名の荒波で溺れかけている大学三年生だ。


 長所。


 そんなものがあれば今頃こんな場末の居酒屋でバイトなどしていない。


 強いて言うなら「あやかしに追いかけ回された経験から、短距離走のタイムが中学時代より縮んだこと」か。


 人事担当者は書類をシュレッダーにかける前に一瞬だけ遠い目をするに違いない。


「……詰んだ」


 私はボールペンを投げ出した。ここ、居酒屋『隠れ家』は、今日も平常運転で閑古鳥が鳴いている。


 場所が「再開発地区の廃屋」なのだから当然だ。マーケティングという概念が銀河の彼方へ家出している。


 店主の老いた猫又ねこまたは、奥の座敷で酒を飲んで泥酔中。


 つまり、現在この店は、就活に絶望した女子大生と、アル中の猫妖怪によって運営されている。日本のGDPに何一つ貢献していない自信があった。


 その時だった。ズドン、という地響きのような雷鳴が轟いたのは。


 同時に、店の引き戸が悲鳴を上げて開いた。


「…………こんばんは」


 入ってきたのは、一人の男だった。


 高級そうなスリーピーススーツにピカピカの革靴は、一歩歩くごとに「ギュッ、ギュッ」という、カエルの断末魔のような音を立てている。


 何より、顔が良い。前髪を遊ばせた黒髪に、彫りの深い端正な顔立ち。まるで往年の映画スターがスクリーンから抜け出してきたようだった。


 しかし、私が注目したのはそこではない。彼が纏っている、ドス黒いオーラだ。あやかしに好かれやすい私には分かる。


 これは妖気だ。それも『神』にも近しい存在だと直感した。


 男は入り口で立ち尽くし、黄金色の瞳でギロリと店内を睨みつけた。その視線が私を射抜く。私がただの人間だと気づいているのか、いないのか。


 普通の人間なら悲鳴を上げて失禁するレベルの威圧感だ。だが、私は鍛え抜かれたアルバイトである。


 人間が神様だろうが妖怪だろうが、金さえ払えば「お客様 is 神様」だ。資本主義の前では種族差など誤差に過ぎない。


 私は営業用スマイルを顔面に貼り付けた。


「いらっしゃいませ!」


 男は幽鬼のようにゆらりと動き出し、カウンターの端の席へと倒れ込むように座った。ドサリ。椅子が「重いんですが」と抗議の声を上げた気がした。


「……お水をいただけますか?」


 男が呻いた。その声は、深海の底から響くような低音のバリトンボイスだった。しかも、この期に及んで丁寧語だ。育ちが良いのか、余裕がないのか。


「お水ですね。ただいま」


 私はコップに氷水を注ぎ、コースターの上に置いた。男は震える手でそれを掴み、一気に飲み干す。そして、ガチャンとコップを置き、うつろな目で私を見た。


「……失礼ですが。ここは、三途の川でしょうか?」


「いいえ、中央区です」


 私は即答した。いくら再開発地区でも、あの世と合併させないでいただきたい。


「そうですか……では、まだ私は、死んでいないのですね……」


「今のところは。見たところギリギリ生きてらっしゃいますね」


「……ギリギリ、ですか……的確な表現です」


 男は自嘲気味に口角を上げようとして、頬が引きつって失敗した。丁寧な口調と、死相が出ている顔色のギャップが激しい。


「ご注文はいかがされますか?」


 私がメニューを差し出すと、彼はそれを見ようともせず、カウンターに突っ伏した。


「……温かいものを、お願いします」


「温かいもの、ですか」


「はい……咀嚼する気力がありません。流動食を所望します」


「ここ、病院じゃないんですけど」


 思わずツッコミを入れた。居酒屋に来て、丁寧語で「流動食」をオーダーする客は初めてだ。これがあやかし流の最先端ダイエットなのか、それとも単なるワガママなのか。


「申し訳ありません。お代なら、弾みますので……この通りです」


 私はため息をついた。どうやらこの男、顔と言葉遣いと金払いはいいが、生活能力と常識が欠落しているタイプらしい。


「分かりました。温かくて、噛まなくていいものですね」


 私は何を作るか考えながら厨房へと向かった。


 面倒くさい客だ。


 でも、くたびれた紳士に「流動食を所望します」と懇願されて、無下に追い返すほど私は鬼ではない。どちらかと言えば、この状況を「就活のエピソードトークに使えないか」と計算する程度には強欲だ。


(長所:どんな理不尽なお客様のオーダーにも、臨機応変に対応できます)


 よし、これでエントリーシートが一行埋まる。


 私は一人用の小さな土鍋を取り出した。


 ミッション、スタートである。


 ◆


 まず、基本となる出汁だ。こんな時間だが、あいにくインスタントの在庫はない。私は冷蔵庫から昆布と鰹節を取り出して水を張った鍋を火にかけた。

 

 昆布と鰹節の出汁で出来上がる、黄金色の液体。それは、疲れた日本人のDNAに直接訴えかける。出汁の素晴らしさは、あの『あやかし紳士』にも通じるはずだ。日本で生活を送っているのだから。


「……いい匂いですね」


 カウンターの方から、呻くような声が聞こえた。生存確認よし。出汁の刺さり具合よし。


 私はご飯をザルに開け、流水で洗った。ぬめりを取ることで、出汁が濁らず、サラサラとした食感になる。「流動食」をご所望のお客様には、喉越しの良さが最重要課題だ。


 洗ったご飯を土鍋に入れ、たっぷりの出汁を注ぐ。火にかけ、コトコトと煮立つ音を聞きがら、私はまな板に向かった。


 主役は、刺身用の真鯛の柵だ。


 包丁を入れるたびに、ねっとりとした脂が刃に吸い付く。店主がどこかからくすねてきたものかもしれないが、詮索はしないでおこう。


 ご飯が温まったところで火を止める。炊き立てのような湯気が上がるご飯の上に、切ったばかりの鯛の切り身を並べていく。熱によって、鯛の表面がほんのりと桜色に変わっていく。


 仕上げに、刻んだ大葉を散らし、端っこに柚子胡椒をちょこんと添える。


『鯛の出汁茶漬け、柚子胡椒添え』の完成。


 お盆に乗せてカウンターへ戻ると、男は死んだように目を閉じていた。長い睫毛が頬に影を落としている。黙っていれば絵画のように美しいが、放っているオーラは相変わらず人を寄せ付けない絶壁のようだ。


「……お待たせいたしました」


 私が声をかけると、男はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。黄金色の瞳が、ぼんやりと私の顔を映す。そして、視線を手元の土鍋へと落とした。


「……これは?」


「鯛の出汁茶漬けです。流動食ではありませんが、噛まなくても飲めます」


 男は震える手で匙を取った。その動作一つとっても、育ちの良さが滲み出ている。指先が白く、細長い。ピアノでも弾きそうな手だが、今は匙を持つのがやっとという感じだ。


 彼は匙の先端で慎重に鯛の身を崩し、出汁を含んだご飯と共に口へと運んだ。湯気が彼の顔にかかる。眼鏡をかけていたら曇っていただろうな、と私はどうでもいいことを考えた。


 男が、一口食べた。


 直後に「……あふっ」と呻いて熱そうに顔をしかめる。


 この人、猫舌なの!?


「ふふっ……気を付けてくださいね」


「し、失礼しました……」


 慎重にもうひと口を運んだ後、ごくり、と喉が動く。


 その瞬間だった。


「……ふぅ」


 深くて、長い吐息が漏れた。それは、肺の中に溜まっていた、鉛のような疲労と緊張をすべて吐き出すような音だった。


 張り詰めていた肩の力が、ガクリと抜ける。背中に纏っていた、あの刺々しい黒いオーラが、湯気と共に霧散していくのが目に見えるようだった。


「……ああ」


 男が、独り言のように呟いた。


「……生き返る」


 その声には、先ほどまでの冷徹な響きは微塵もなかった。あるのは、ただ純粋な温かさに触れた生物の安堵だけだ。氷の彫像に熱湯をかけたら、中から人間が出てきた。そんな劇的な変化だった。


「お口に合いましたか?」


「……ええ。とても」


 男は短く答えると、そこからは無言になった。猛烈な勢いで茶漬けを掻き込み始める。「咀嚼する気力がない」と言っていたのは誰だったか。


 あっという間に、土鍋は空になった。一滴の出汁も残さず飲み干し、男は満足げに息をついた。


「美味しかったです」


 男が顔を上げた。汗で前髪が乱れ、額に張り付いている。だが、その表情は、入店時とは別人のように穏やかだった。顔色が青白いのには変わりないが、瞳に生気が戻っている。


「それは何よりです」


 私が空いた器を下げると、男はスーツの内ポケットを探り始めた。


「……釣りはいりません」


 差し出されたのは、千円札。適当に作ったので料金も言い値。まぁ800円くらいもらっておけば店長も怒らないだろう。この辺のさじ加減は私に一任されている。


「いえ、お返しします。当店、明朗会計がモットーですので」


 私はレジから百円玉二枚を取り出し、彼の手のひらに乗せた。触れた指先は、まだ冷たかった。けれど、最初よりは、ほんの少しだけ温度を感じる。


「……温かいですね」


 男が、ぼそりと呟いた。


「え?」


「貴女の手です」


 男は自分の手のひらにある硬貨を見つめながら、言う。


「……こんなに温かいものに触れたのは、久しぶりだ」


 その言葉の響きが、あまりにも切実で、寂しげで。私はとっさにツッコミを入れるのを忘れた。「お釣りです」と事務的に返すこともできたはずなのに、喉の奥で言葉が詰まった。


 男は立ち上がり、スーツの襟を正した。背筋が伸び、再びエリート会社員のような仮面を被る。だが、その仮面は、入店時よりも少しだけサイズが合っていないように見えた。


 男が扉を開けると、ザーザーと雨の音が室内に響きだした。


 出口へと向かう背中に、私は声をかけた。


「あ、お客様」


「……なんでしょう」


「傘、お持ちじゃないですよね」


 私は店の傘立てから、ビニール傘を一本抜き出した。いつか誰かが忘れていった、持ち手が黄ばんだ傘だ。高級スーツには似合わないことこの上ないが、ないよりはマシだろう。


「これ、よろしければどうぞ。もう雨、止みそうにないので」


 男は振り返り、差し出された傘をじっと見つめた。そして、ふっと小さく笑った。


「お心遣い、痛み入ります」


「いえ、返却は不要ですので」


「ありがとうございます。ですが……傘は不要です」


 きっぱりと言い切られた。不要? 外はバケツをひっくり返したような土砂降りだ。この高級スーツを雑巾にするつもりだろうか。それとも、濡れるのが趣味なのだろうか。


「あの、風邪引きますよ? 見たところお疲れのようですし」


「ご心配には及びません」


 雨の轟音が響く路地裏へと足を踏み出した。そして、夜空を見上げ、何でもないことのように言った。


「雨くらい、どうにでもできますので」


 彼が指先で空を弾くような仕草をした、その瞬間だった。


 ピタリ。


 止んだ。徐々に小雨になったのではない。蛇口を閉めたように、唐突に、完全に、雨音が消滅したのだ。厚い雲が割れ、嘘のような月明かりが路地裏に差し込んでくる。


「……えっ?」


 私は傘を持ったまま凍りついた。天気予報では、朝まで豪雨だったはずだ。それが、一人の男の指パッチンで晴天に変わるなんてことが、あってたまるか。


 男は振り返り、月光を背負って微笑んだ。先ほどまでの「死にかけの遭難者」の面影はない。そこには、人知を超えた何か――圧倒的で、けれどどこか寂しげな「怪物」の気配があった。


「……助かりました。空腹と疲れで死ぬかと思っていたので。ここはいい店ですね。また来ます」


 男はそれだけ言い残し、乾いた夜風と共に路地裏の闇へと消えていった。


 扉が閉まり、店内に再び静寂が戻る。


 私はしばらくの間、彼が消えた場所を見つめていた。手の中には、行き場を失った黄ばんだビニール傘が握られている。


「……どうにでもできる、って」


 私は乾いた笑い声を漏らした。


「……また、来るのかな」


『雨くらいどうにでもなる』。そんな非常識な力を持った男が、たかがお茶漬け一杯で「生き返った」と言った。そのアンバランスさが、妙に胸に引っかかった。


 これまでの人生でいくつものあやかしに会ってきた。私はそういう体質だから。


 だが、天気を意のままに操れるようなあやかしに会ったことはない。そんなことができるのはかなり上位の……言ってしまえば神様に近い存在だ。


 私はため息をつき、傘を元の場所に戻した。空になった土鍋を洗うために流し台へ向かう。蛇口をひねると、冷たい水が流れ出す。


 長所:あやかしに好かれやすいこと。


 エントリーシートには書けない、私の唯一の特技。それがまた一つ、とんでもなく厄介な縁を引き寄せてしまったことは、火を見るよりも明らかだった。


「ま、いっか」


 私は洗った土鍋を棚に戻した。外からは、虫の音が聞こえ始めていた。さっきまでの嵐が嘘のような、静かな夜だった。

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