3. 競争と自己否定

中学校に入学したとき、僕はどこかで「やり直せる」と思っていた。

制服が変わり、校舎が変わり、周囲の顔ぶれも一新される。小学校での不登校は、過去として切り離され、ここでは別の自分になれる。そう信じたかった。

入学直後の僕は、今思えば驚くほど明るかった。

初対面の相手にも声をかけ、笑い、部活にも迷わず入った。新しい人間関係の中では、まだ自分を疑う必要がなかった。期待される役割も定まっておらず、失敗の履歴も存在しない。その曖昧さが、僕を自由にしていた。

だが中学校は、小学校とは違う装置だった。

学力、運動能力、上下関係。あらゆる要素が数値や序列として可視化されていく。競争は明示され、比較は避けられない。

その中で、僕は再び「遅れている側」に位置づけられていった。

最初は小さな違和感だった。それが、やがて確信へと変わっていくことになる。

部活動に入ったことで、競争は一気に具体性を帯びた。

同じ時間、同じ練習をしているはずなのに、差ははっきりと現れる。動きの速さ、理解の早さ、結果としての評価。努力がそのまま成果に結びつく者と、そうでない者が、日ごとに振り分けられていった。

最初のうちは、「慣れの問題だ」と自分に言い聞かせていた。

今はまだ追いついていないだけで、続けていれば同じ場所に立てる。そう信じることで、何とか自分を保っていた。

だが、差は縮まらなかった。

むしろ、時間が経つほど、取り返しのつかない距離として意識されるようになった。ミスをするたび、視線が集まる。注意される声が、人格評価のように響く。

この頃から、失敗は出来事ではなく、自分そのものを示す証拠のように感じられるようになった。

競争は、能力だけでなく、自尊心を削っていく装置でもあった。

失敗が続くと、やがて恐怖が先に立つようになった。

ミスをしないために動くのではなく、ミスを避けるために動かない。そうした選択が、無意識のうちに増えていった。挑戦することは、失敗する可能性を自ら引き受けることだった。それなら最初から動かなければいい、という思考に傾いていった。

練習中、指示が飛ぶたびに体が強張った。

声をかけられること自体が、注目されることを意味していた。注目は評価に直結し、評価は否定へとつながる可能性を孕んでいる。僕はその連鎖を過剰に意識していた。

次第に、周囲と自分を比較することが習慣になった。

同級生の成長を数え、自分の停滞を確認する。その作業を繰り返すたび、自己評価は下方修正されていった。誰かが褒められると、自分が否定されたように感じた。 

競争は、外側の結果以上に、内側の言葉を変えていく。

「まだできない」は、「向いていない」へと変わり、やがて「価値がない」という感覚へと沈んでいった。

やがて、学校そのものが重くなっていった。

部活だけの問題ではなかった。教室にいても、常に自分の立ち位置を測っていた。発言の多い生徒、成績の良い生徒、教師に信頼されている生徒。その輪郭がはっきりするほど、自分の位置は曖昧になっていった。

以前は自然にできていたことが、できなくなった。

笑うこと、話しかけること、輪に入ること。どれも一拍の躊躇を伴うようになった。その一拍が、決定的な遅れを生む。

競争は、勝ち負けを決めるだけではない。

「参加できる者」と「様子を見る者」を分断する。

僕はいつの間にか、後者の側に立っていた。

この頃から、僕は自分を「控えめな性格」と説明するようになった。

それは事実ではなく、自己防衛のための言い換えだった。

一年生の途中で、僕は再び学校へ行けなくなった。

朝になると体が重く、制服に袖を通すだけで胸が詰まった。小学校のときと同じ感覚だったが、今回は理由がはっきりしていた。僕は、競争の中で自分が「劣っている側」にいることを理解してしまったのだ。

理解してしまうと、逃げ場はなくなる。

努力すれば追いつけるという期待も、時間が解決してくれるという希望も、現実によって否定されていた。部活でも、勉強でも、人間関係でも、僕は常に一歩遅れていた。

学校を休むことで、僕は一時的に競争から降りた。

だがそれは敗北宣言でもあった。参加しないことでしか、自分を守れなかったという事実が、さらに自己否定を強めた。

家にいる時間が増えるにつれ、頭の中には同じ言葉が反復された。

「どうせ自分はできない」

その言葉は、慰めではなく、判決のように響いていた。

二度目の不登校は、一度目よりも静かだった。

小学校のときのような戸惑いも、混乱もなかった。ただ、そうなるべくしてなった、という諦観に近い感覚があった。自分は競争に向いていない。その結論に、身体が先に辿り着いてしまったようだった。

周囲は以前より慎重だった。

母は理由を聞かなかったし、父も強い言葉を使わなかった。まるで、僕が壊れやすいものになってしまったことを、家族全員が理解しているかのようだった。その理解は優しさであり、同時に、取り返しのつかない断絶を示してもいた。

姉は、相変わらず学校へ通っていた。

彼女は部活も勉強もこなし、日常を途切れさせることなく進んでいく。その姿を見て、羨ましさよりも先に、別の種類の感情が湧いた。自分とは構造が違う、という諦めに近い認識だった。

世界は同じ速度で進んでいる。

それについていけない自分が、ただ立ち止まっているだけだ。

そう考えることで、僕は自分を責めることを、少しだけやめることができた。

一年生の後期、僕は再び学校へ戻った。

きっかけは、友達と担任の存在だった。無理に引き戻そうとするのではなく、「来られるときでいい」「ここに席はある」と繰り返し伝えられた。その言葉は、強い光ではなかったが、完全に閉じていた扉に、わずかな隙間を作った。

教室に戻った初日は、必要以上に周囲を観察していた。

誰がどんな表情でこちらを見るのか。どの距離まで近づいていいのか。言葉を発するたびに、自分の声の大きさや調子を確認した。そこにあったのは自然な振る舞いではなく、慎重に組み立てられた動作だった。

最初のうちは、それでも「前向きな努力」だと思っていた。

空気を読むこと、場に合わせること、失敗しないこと。社会で生きるには必要な能力なのだと、自分に言い聞かせていた。明るく振る舞うことも、愛想よくすることも、回復の過程なのだと。

だが、気づけばそれは努力ではなく、演技になっていた。

笑うタイミングは無意識に計算され、発言は頭の中で何度も検閲されてから口に出た。自分がどう感じているかよりも、どう見られるかが常に優先された。疲れていても元気なふりをし、傷ついていても平気な顔をした。

それを続けるうちに、僕自身が分からなくなっていった。

今の笑顔は本心なのか、それとも場に適した表情なのか。今の沈黙は考えているからなのか、目立たないためなのか。区別がつかなくなっていった。

それでも、居場所は確かにあった。

放課後に一緒に帰る友達がいて、くだらない話をする時間があった。その時間だけは、競争から切り離されているように感じられた。ただし、その関係もまた、僕が「うまく振る舞っている限り」において成立しているような気がしていた。

僕は、嫌われないために生きていた。

好かれなくてもいい。ただ、問題のない存在であり続けたかった。そのために、自分を削り、整え、丸めていった。

いつしか演技は癖になり、

癖は性格になり、

性格は、僕自身だと思い込まれるようになっていった。

学校へ戻ってからも、競争は終わらなかった。

ただしそれは、以前のように外から与えられるものではなく、完全に僕の内側へと移動していた。誰かに比べられなくても、自分で自分を比較し、評価し、減点する。その作業が、呼吸と同じくらい自然に行われるようになっていた。

演技は、もはや意識的なものではなかった。

明るく振る舞うことも、空気を乱さないことも、最初は選択だったはずなのに、いつの間にか反射になっていた。何かを言おうとすると、言葉が口に出る前に「それは適切か」という検閲が入る。その検閲を通過したものだけが、発言として許可される。

僕は自分を守っているつもりだった。

失敗しないため、嫌われないため、再び壊れないため。その防御は確かに機能していた。問題を起こさず、扱いやすく、無害な存在として、僕はその場にい続けることができた。

だが同時に、何かが確実に失われていた。

衝動的に笑うこと。思いついたことをそのまま口にすること。失敗しても構わないと感じる瞬間。そうしたものが、ひとつずつ消えていった。

「自分らしさ」という言葉が、遠いものになった。

そもそも、自分らしいとは何だったのか。演技を重ねるうちに、基準そのものが分からなくなっていた。今の自分は守るために作られた形であって、本来の自分ではないのかもしれない。だが、その「本来の自分」を、僕はもう思い出せなかった。

競争は、僕を敗者にしただけではない。

自分を信じる感覚を、静かに、しかし確実に奪っていった。

こうして僕は、勝つことも、負けることもできない場所に立つようになった。

ただ、適切に振る舞い続ける存在として。

それが、中学生の終わり頃に出来上がった、僕の輪郭だった。

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