第9話 脱落=死

 凌空がA区へと足を踏み入れた、その瞬間から、

 会場全体は、まるで潮が引くように次第に静まり返っていった。


 そして彼が、何の躊躇もなく最上段の席へ腰を下ろしたとき、

 そこには完全な沈黙しか残らなかった。

 針が床に落ちる音さえ聞こえそうなほどの、張り詰めた静寂。


 無数の視線が、実体を持つ針のように、彼一人へと突き刺さる。


 全員が着席すると同時に、背後の巨大スクリーンが切り替わり、

 五つのエリアそれぞれの名簿が高速で表示された。


 そこには、名前と所属事務所だけでなく、

 各参加者の総合評価までが明記されている。


 大半はC〜Bランク。

 Aランクはごくわずかだった。


「思ったより低い……」


 そう感じた者が席を立ちかけるが、

 即座にアナウンスで警告が入り、

 それ以上、席を移動しようとする者はいなくなった。


 凌空は、スクリーンに映る自分の評価――

 その「D」の文字を一瞬だけ見上げ、何事もなかったかのように視線を引っ込めた。

 どこかから、息を呑む音が漏れ、それに続いて、抑えきれない囁き声が広がっていく。


「……あいつ、度胸ありすぎだろ」


「芸楽の……紫崎凌空?

 聞いたことない名前だけど……」


 孔雀青色ピーコックブルーのエリアに座る練習生が、信じられないといった調子で言った。


「正気か? A区だぞ?

 あそこはシリルみたいな化け物用だろ。

 評価Dで座る場所じゃない」


「目立ちたがりなだけさ」


 Bエリアの練習生が腕を組み、冷ややかに言い捨てる。


「こういう身の程知らずは、

 だいたい一番早く脱落する噛ませ犬だ。

 見物だな」


 その言葉を聞いた夏樹なつきが、軽い調子で口を挟んだ。


「おいおい、さっきロビーで危うく人踏みかけてたの、もう忘れたのか?

 それに、さっき上がれって言ったときは断ったくせに。

 もしかして今さら後悔とかしてたりして?」


 同じ雲錦エンタ所属のチームメイトは、一瞬きょとんとし、


「そんなことあったか?」


 と首を傾げた後、すぐに言い返した。


「ていうか、俺は堅実に行くタイプなんだよ。

 上がるのは簡単でも、あとで落ちたら目も当てられないだろ?」


 彼らは去年も番組に参加しており、

 この場の会話が収録されないことを知っている。


 表情は笑顔や驚きを保ったまま、言葉だけは遠慮がなかった。

 夏樹は声を上げて笑い、何言か冗談を交わした後、再び視線を最上段へ戻した。

 そこには、すでに二人しかいない。

 二人は何やら、言葉を交わしているようだった。


 凌空は、四方八方から注がれる視線を受け止めていた。

 驚愕、警戒、疑念、侮蔑、そして興味。

 それらが混じり合った無形の圧力が、波のように押し寄せる。

 だが彼は、その中心で微動だにせず、静かに座っていた。


 そのとき――

 隣から、低く、耳に心地よい、奇妙な律動を帯びた声がかかる。


「僕はシリル・エリオットだ。君が、紫崎凌空か?」


 振り向いた瞬間、

 灰緑色の瞳に、ちょうどいい塩梅の興味が揺らぐのが見えた。


 優雅な佇まい。

 ただ首を傾けただけで、見られているのが“人間”ではなく、“獲物”であるかのような圧を感じさせる。


 ――スクリーンには、彼の情報が映し出されていた。


『シリル・R・エリオット

 所属:なし

 総合評価:A+』


 会場最高評価。

 彼がこの席に座る理由は、それだけで十分だった。

 凌空は正面からその視線を受け止め、淡々と頷いた。


「こんにちは」

 親しげでもなく、怯えもない。

 ただ、ありふれた挨拶に応じただけの声音。


「芸楽の練習生か」


 シリルは無意識に、左手首の内側を指でなぞりながら言った。


「評価DでA区を選ぶなんて……

 勇気、いや、野心かな?

 他のD評価の人たちと比べて自分には何か特別なものがある、と?」


 低く、チェロのような声。

 礼儀正しいが、聞く者を落ち着かせない。

 空気が、一瞬、凍りついた。

 だが凌空は、挑発に怒ることもなく、むしろ面白い話題を振られたように口角を上げた。


「勇気にも、いろいろありますよ。エリオットさん」

 彼は肘掛けに肘を預け、指先で軽く叩く。

 小さな、規則正しい音。

 その視線は、完璧な顔立ちの奥を射抜くようだった。


「不可能を承知で踏み出す勇気むぼう

 あるいは――」


 一瞬の間。


「牙を貧弱な表の裏に隠し、必要な瞬間だけ、鋭さを見せる勇気ちえ

 相手の、きっちり整えられた濃緑の長髪を一瞥し、問いかける。


「あなたは、俺がどちらだと思います?」


 シリルの瞳から、笑みがすっと消える。

 だが唇には、依然として優雅な微笑が残っていた。


 そのときだった。


 対面のスクリーン前に、セイラのほか、もう一人の人物が現れる。

「……嘘だろ……」

「Ring……!?」

「Ringだ!!」

「本物のRingとかまじかよ?!《クラウン》の《仮面の下》、俺大好きなんだけど!!」

 群星殿は、完全に沸騰した。


 座っていた者も、立っていた者も、

 一斉に背筋を伸ばし、

 驚愕と歓喜を顔に貼りつける。

 銀髪の男を知らない練習生はいない。


 元・トップ男性アイドルグループ〈クラウン〉の伝説的なセンター。

 世界個人人気ランキング常連の頂点。


 表舞台に姿を現すことは稀で、こういったオーディション番組の審査員を務めるのはおろか、クラウンが解散してから、バラエティ番組に出るのがそもそもなかったのだ。


 解散後もステージに潜り続ける、業界屈指の働き者、そして実力者。


 光を抑えた今なお、Ringは象徴的な銀灰色の短髪のまま、冷静に、下方を見渡す。

 彼は何も語らない。

 しかし視線だけで、山岳のような威圧感が会場を覆った。


 彼がわずかに手を上げ、 その瞬間、すべての喧騒が、まるでスイッチを切られたように消えた。

 残ったのは、高鳴る心臓の音だけ。


「座席順位選びは終了です」

 セイラの、澄んだ声が響く。

「これより、第一回脱落戦に入ります。


 皆さんが挑むのは――

 Ringがかつて、単独で踏破したDランク副本

残戯ざんげき


 そして今回、番組はその使用権を獲得し、

 大幅な改修を施しました


 その名も――」


 画面いっぱいに、古びた芝居小屋のビジュアルが映し出された。


 焼け焦げた木造の梁。

 剥がれ落ちた絵看板。

 能面と歌舞伎隈取が混じり合った、異様な舞台装飾。


「【封塵座敷ふうじんざしき】」

 一瞬、空気が冷える。

 画面越しですら、このステージ特有の“不穏さ”が伝わってくる。

「ただし、注意してください」


 星澄セイラの言葉を継ぐように、Ringが一歩前に出た。

「【封塵座敷】は、模擬ステージでも、演出用のコピーステージでもない」

 彼の視線が、五つのエリアをゆっくりとなぞり――

 最後に、A区で止まる。


 シリル・エリオット。

 そして、その隣に座る――

 評価Dでありながら、最上段に腰を下ろす男。


 紫崎凌空。


「お前たちが立つのは、

 完全なルール体系と、現実の危険を備えた

 “残響”ステージだ


 この【封塵座敷】は、

 天幕ヘヴンズカーデンシステムと深くリンクしている


 ステージ突入の瞬間から、

 君たち一人一人の行動は、

 世界中へ――リアルタイムで配信される


 回避、連携、

 観る者を震わせる表現力、

 あるいは、追い詰められた末の醜い足掻きさえも


 観客が抱く感情――

 歓声、期待、熱狂、恐怖


 それらすべてが“輝光値グロウ”へと変換され、

 このステージで生き延びるための、

 唯一の武器となる」


 Ringの声が、低く冷たく落ちる。


「覚えておけ。


 このステージでの脱落は――

 ただの失格じゃない


 本物の、死だ」


 静寂。


「生き残り、

 最後まで舞台に立ち続けた者だけが――


 真のアイドルとなる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る