水曜日の彼女の記憶
永久野 和浩
前編
(バレた。さいあくだ)
母親に腕をつかまれたアイカはそう思った。無数に走る切り傷の跡。面倒なことになると思ったから、長袖で隠していたのに。
だけど、この人に私をとやかく言う権利があるだろうか?物心つく前から見ていた母の腕にも、切り傷の跡があるのをアイカは知っている。それが、自分でつけたものであるということも。
イライラする。「個性」という綺麗事のもとに、発達特性を隠しもしない支援級のクラスメイトも、通常級にいられなくなっていまさらこっちに入ってきたくせに「お前らとは違う」とか言い出しちゃう普通気取りのバカも、そんな私たちを内心バカにしてる通常級の奴らも。何もかもが、イライラする。
その気持ちをおさえるのに自分を傷付ける事の、なにがいけないっていうんだろう。
************
なんとなくすぐ家に帰りたくなくて、アイカはふらりと通学路の途中にある公園に立ち寄った。
スマホを持ってはいるが、この前のことがあってから親にロックをかけられてしまった。家に帰ってロックを外してもらわないと、操作できない。
すぐに帰りたくはないけど、帰らないとスマホを見れない。それもイライラした。アイカは公園の小さなブランコに座って、ただぼんやりと操作できないスマホをながめていた。
ふと、タバコの匂いがした。今どきアイカの父親ですらタバコなんて吸わない。いかにも心配してますなんて顔したオッサンに声をかけられたらやだな。アイカはそう思いながら顔を上げて周りを見回したが、公園には自分一人しかいなかった。どこから匂ってくるのだろう?
「……あ」
その答えは、上のほうにあった。公園の隣に建っているアパートの2階。その窓を開け放って、窓枠にもたれかかりながら煙を吐いているのは、アイカの想像していたようなオッサンではなく、長い髪を気だるそうにかき上げた黒いタンクトップ姿の女性だった。
「ハハ、見てたのバレちゃった」
そう言って彼女は笑うと、口元のピアスがキラリと光った。よく見ると耳にも、いくつものピアスが飾られている。
「ねえ、何してんの?」
「べ、別に……そ、そ、そっちは?」
「あたし? 見ての通りだよ、タバコ吸ってんの。こうしないと部屋が臭くなるって、同居人がうるさくてさ」
そう言って彼女はまたタバコを吸い込み、煙を吐き出した。目を細めて薄く笑いながらこちらを見ている。なんだろう、なんだかドキドキする。
「ねえ、そっち行っていい?」
「は?」
「いいでしょ? 今ヒマなんだ。ちょっと付き合ってよ」
「は、え、ちょっと……」
アイカのとまどいの声を聞きもせず、彼女は窓から引っ込むとしばらく間を開けて窓を閉めた。
あっけにとられたアイカは、手の中のスマホのことすら忘れていた。手からすべり落ちて砂の上に落ちたスマホをあわてて拾い上げ、砂をはらい落とし終わった頃、公園の正面からさっきの女性がやってきた。
先ほどのタンクトップの上からモノトーンの大柄なシャツをはおり、髪を軽くしばっている。下はゆったりとしたデニムのボトムズだった。
目を引いたのはその髪だった。わざとらしいぐらい真っ黒な髪はおそらく染めたものだろう。髪をひとつにしばったことで、もみあげから少し上まで剃り込みが入っているのがわかった。いわゆるツーブロックだ。
「おまたせ。隣、座ってもいい?」
アイカはすぐに言葉が出なかったが、かろうじてうなずくことはできた。彼女は笑って「あんがと!」と言うと、空いていた隣のブランコに座った。ふわりと香ってきたのは先ほどのタバコと、香水だろうか?
「えー? ブランコに乗るとかいつぶりだろ? 君……あー、なんての? 名前」
「……アイカ」
「アイカね。あたしイオリ。よろ」
「はぁ……」
やたらとドキドキして、気の抜けたような返事しかできない。顔を少しだけイオリのほうに向けると、タンクトップのすき間から胸の谷間が見えて、あわてて顔を正面に戻した。それはふくらみ始めた自分のものと比べると、かなり、大人を感じさせるものだった。
「アイカってさぁ、バンギャだったりする?」
「は?」
「カバンに付けてるストラップ、見覚えある」
アイカはイオリが指差したほうを見た。カバンには色々付けているが、その中でひときわ目立つ、真っ黒なストラップの事だとすぐにわかった。
「これ……ママからもらったんです。ママが好きなバンドの……」
「ママ!? ……あーでも世代的にそうか……えまって、アイカ何歳?」
「中1……」
「マ!? チュウイチっていうと……じゅう……」
「13」
「うっわマジかー。13年前って……それこそあたしも中学生か? 時間経つの早すぎわろた」
13年前が中学生というと、イオリは20代後半といったところだろうか。それよりは若く見えたので、アイカは意外そうな顔をした。
「あたしもそのバンド好きになったの親の影響だったからなー。じゃあアイカのママは大先輩だ。こんな身近に同志がいると思わなかったから嬉しくてさ、声かけちゃった」
そう言ってニカッと笑うイオリに、目の奥がチカチカするような感覚を覚えた。
「あの、じゃあママを紹介しましょうか……」
「あー、いいよいいよ……どした?」
イオリと話を続けたくて、母親の連絡先だけでもと思いスマホをいじろうとした時に、アイカはそのスマホがロックされていたことを思い出した。
「そうだった……スマホ使えないんだった」
「え?」
「親にパスワード変えられちゃって……使えないけど、GPSのために持ってろって」
「えー……それはダルいね……」
イオリはそうつぶやくと、シャツの胸ポケットから流れるようにタバコの箱を取り出した。そして一本咥えてライターを手にし、そこで何かに気付いたように気まずそうな顔をした。
「苦手?」
「あ、別に……」
「そう? ……んー、でもやめておくか。ジョウソウキョウイクに悪そうだし」
そう言って咥えたタバコを箱に戻したイオリは、ふとある一点を見つめて手を止めた。アイカはなんだろう、と思ったが、イオリの目線の先が自分の手首であることに気付いて青ざめた。
しまった、そう思って制服の袖を伸ばそうとしたが遅かった。イオリはブランコから立ち上がってこちらに向かってくる。揺れるブランコのチェーン。手からまたすべり落ちるスマホ。抵抗する間もなく掴まれた腕。イオリは無造作にアイカの制服の袖をまくった。いくつもの自傷跡があらわになった。
「これ……」
「何よ」
「自分でやったの?」
「……そう」
「……」
「何よ。アンタもやめろって言うの?」
イオリからの返答はない。なんだ、またか。みんなみんなやめろって言う。そんなことはよくないって言う。何も知らないくせに。私の気持ちも知らないくせに。
不意に、手首に柔らかい感触が当たった。イオリは、アイカの腕を両手で抱え込んでいた。手首に当たったのはイオリの胸の感触だった。アイカは驚いて口をぱくぱくさせていると、先ほどまで饒舌だったイオリの声が、掠れるような音で聞こえてきた。
「言わないよ……言わない……」
その声は、掠れているけど熱っぽくて、アイカはさっきまでの怒りを忘れ、ただその胸から伝わってくるイオリの心臓の音に顔が熱くなるのを感じた。
「……あたし、好きだよ。この傷跡」
そう言って、唐突にイオリが手首に口付けたので、アイカの顔はもう、爆発するんじゃないかと思うぐらいに熱くなっていた。
「だって、いろんなものと必死に戦ったショーコじゃん。自分を痛めつけることで、落ち着こうとしてるわけじゃん。すごく……なんて言えばいいんだろ? いじらしい? ……って思う」
「……いじらしい?」
アイカはその言葉の意味がわからずポカンとしていたが、イオリはアイカの手を開放して、砂の上に落ちたアイカのスマホを手に取った。そして、何やら操作しているようだった。
「おっ、ビンゴ……やったね」
「えっ?」
「アイカのママ、案外チョロいかも。パスワードわかったよ」
「えっ!? なになに!?」
「んー、どうしよっかなぁ。教えてあげようかなぁ、やめとこうかなぁ」
「えー、教えてよ!」
アイカがスマホを覗き込もうとするとイオリは背を向けて逃げる。また覗き込もうとして逃げられる。それを繰り返して、アイカとイオリは公園中を走り回っていた。
「ほい!」
突然、イオリがスマホをアイカに投げ渡した。アイカは慌てて受け止めたが、そのスマホは既にロック画面に戻ってしまっていた。
「ちょっと……!」
「よかったね! ペアレントコントロールは入ってないっぽいよ!」
「そうじゃなくて!」
「条件付けたげる! 毎週水曜日の夕方、またここにおいで。そしたらそのうちパス教えてあげるよ」
「本当?」
「ホントホント。あと、あたしのLINE入れておいたから!」
「……!」
その言葉に、アイカは思わずスマホをギュッと抱きしめた。イオリはいたずらっぽく笑うと、腕時計を見て途端に焦ったような顔をした。
「やべ! 仕事の準備しなくちゃ! アイカもそろそろ帰んないと、ママが心配するよー!」
そう言われて気付いた。既にあたりは暗くなり始めている。イオリは足早に公園から出ると、アイカに手を振りながらアパートの階段を駆け上っていった。
嵐のような出来事で、まるで夢を見ているようだった。ただ、アイカの手元にはスマホがある。家に帰ってロックを外してもらえばわかることだ。アイカはドキドキしたまま、家への帰り道を走り始めた。走らずにはいられなかった。
************
アイカは母親にスマホのロックを解除してもらうと、すぐさま自室に戻ってスマホを覗き込んだ。開いたLINEの一番上には、見慣れないアイコンと「イオ」の文字があった。その隣には通知数がすでに「3」と表示されている。
アイカはもどかしい手つきでそのトーク画面を開く。真っ先に目に入ったのは、可愛らしいキャラが手を振っているスタンプだった。
『イオリだよ! 今日はありがとね!』
『また次の水曜日にあおーね』
「イオリ……さん」
名前を口に出した瞬間、手首を抱え込まれた時のことを思い出してアイカはまた顔が熱くなった。あわてて返信を打とうとしたその時、母親の足音が聞こえてきた。
「アイカ、宿題やんなさいよ」
ドアの外から聞こえてきたその声に、アイカの気持ちは急速に冷めた。いつもこうだ。
しかしその時、アイカはふと思い出したことがあった。スマホを机の上に置いてドアを開くと、立ち去ろうとしていた母親が驚いたような顔でこちらを振り返っていた。
「びっくりした……どうしたの?」
「ママ、うちに国語辞典ってある?」
「あるけど……」
「どこ?」
「リビングの本棚。え、知らなかったの?」
母親の疑問には答えもせずに、アイカは母親を追い抜いてリビングの方に走って行った。アイランドキッチンのカウンターの下が本棚になっている。アイカはその本棚を、指を差して探していった。あった。一際分厚くて色褪せた国語辞典。アイカはその国語辞典を抜き取ると、ある言葉を探し始めた。
「なんて言ってたっけ……い……『い』だ!」
パラパラとページをめくり、『い』の並びを探していく。「硫黄」、違う。「遺憾」、違う。「いけず」、違う。「勇ましい」、違う……
やがてアイカは、あるページで手を止めた。アイカの指は、その中の一文をなぞっていた。
(いじらしい……弱いものが一所懸命に努める有様や心根が、いたいたしくあわれ……共感してかわいそうがるほど……)
アイカは文字をたどって、少しがっかりした。なんだ、同情か。そう思った時だった。
「……けなげで、可憐?」
「アイカ、勉強?」
後ろから母親に声をかけられて、アイカは心臓が飛び出るかと思うほどびっくりした。思わずあわてて国語辞典を閉じる。
「そ、そう。勉強に使うから、これ借りていい?」
「別にいいよ。ママが学生の時に使ってたやつだから、だいぶ古いけど」
「大丈夫。じゃあ借りるね」
アイカはそう言って、国語辞典を抱えるとまた走って部屋に戻った。部屋のドアを閉めると、アイカは国語辞典を抱えたまま、ドアにもたれかかって座り込んでしまった。
「……可憐」
かみしめるようにそうつぶやくと、また顔が赤くなっていくのがわかった。
(ああ、一体なんて返信すればいいんだろう!)
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