#2 帰還、されど生還にあらず
#2-1
「しかし……信じられんこともあるもんだな」
裏に蛍光灯の入ったパネルの上に、何枚も並べたレントゲン写真を一つ一つ
「警察からは、デパート入口に車が突っ込んで大破して、巻き込まれたと聞いた。常識で考えりゃ無事じゃ済まない。なのに」
胸部を写した写真を指差して、
「内臓破裂は元より、骨折も打撲もないと来たもんだ」
半ば呆れながら、そんでもって小太りの二重あごを震わせながら、医師は首を
川上夏希は、はぁ、とすっ惚ける。
医師は、今度は頭部のCTスキャン画像を指す。
「脳への異常もまるで見られない」
夏希は尚も分からないフリをする。
「超ラッキーですね、あたし」
「そういう問題じゃないだろう」
医師は密かに感心しながら夏希の方に身構えて、
「しかし……本当に大丈夫なのか? 何の後遺症もないなんて信じられん」
眉をひそめて尋ねて来る。当然だろう。一般常識からは考えられないこと、あり得ないことだ。
でも、夏希は全く平然として、
「大丈夫ですよぉ、ほらっ」
と、椅子から立ち上がり、両腕、両足をぱんぱんと叩き、全く異常がない様子を表す。健在ぶりをアピールした恰好だ。
医師が怪訝な表情に変わる。
「君は……人間なのか?」
「ひゃははははは、あの医者ケッサクやなぁ」
都内随一の規模を誇る総合病院・聖R病院の、内科外科病棟新館の廊下の椅子に、夏希と並んで腰を下ろしながら、エンマは先ほどの医者の狼狽振りを思い返してくすくす笑っている。黒いスーツに真っ白なシャツ。およそ病院にお見舞いに来るには似つかわしくない衣装だ。
「そりゃそーよ。普通なら即死だよ即死。それが全く無傷ってんだからね」
他人事のように肩を竦める夏希。
「でも、かすり傷ぐらい残しといてくれた方が良かったな。色々詮索されないで済んだしね」
「贅沢言うな」
それにしても、病院の雰囲気にはどうも夏希もエンマも慣れない、居心地の悪さを感じてしまう。
「はーあ」
夏希は壁に背中をもたれかけながら、大きく伸びをする。
「1日とちょっと入院しただけでも退屈だねぇ、病院って」
交通事故にあったのが土曜の午後0時半頃。resumeを発動させ、エンマを伴って下界に戻って来たのが午後5時半頃。そして、現在時刻が午後8時前。実に慌ただしい一日である。
それもあってか、エンマも疲れた模様で足を伸ばして欠伸をする。
「やんちゃしとった時には何遍も世話んなったっけ」
「やんちゃしてたんなら自業自得でしょ」
夏希はエンマの方を指差して吹き出す。
「看護婦さんに怒鳴り付けられたりしてたんじゃないの?」
「病院に運ばれる度に、そこの婦長と喧嘩しとったわ。でも大抵俺負けてまうねん」
「根性据わってんのね、婦長さんって」
んー、つか、とバツが悪そうに、エンマは指で顎を掻く。
「スミレさんが向こうの味方するねん……」
あっはっはっは、と夏希は手を叩いて笑い転げるが、廊下にその声が響き渡ったのに気付いて、慌てて口を噤む。
エンマも咳払いをしながら、話題を変える。
「そういや親父さん、何時ぐらいに迎えに来んの?」
何気なく聞いたつもりだったが、夏希は突如ぶっきら棒な口調になって、向い側の壁の時計を見ると、
「9時ぐらい」
と、答える。
「えらい遅いなぁ。普通ならすっ飛んで来るんと……」
エンマの言葉を途中で切って、何故か怒ったような口調になる夏希。
「店が忙しいんじゃないの?」
そう言い残すとすっくと椅子から立ち上がり、すたすたと病室に戻って行く。
エンマは、何が彼女の気に触ったのかピンと来ない。
「夏希?」
慌てて彼も立ち上がり、後を追いかけるが、夏希は振り向きもしない。
「なんやお前、どないしてん? 急に怒り出しよって」
「別に」
「どこがやねん、なんか俺悪いこと言うたか?」
「あんた悪いことしか言わないじゃん」
「お前なぁ」
四人部屋の病室の入口で(いるのは夏希一人だが)、くるりとエンマの方に向き直り、まくし立てる。
「大体さ、何でパパに迎えに来てもらわなきゃなんないのぉ? あたし一人でも帰れるっつーの」
夏希はエンマにせがまれ、検査が終わった後に店に電話して迎えに来てもらう算段をつけていたのだった。嫌々ながら。
エンマは苦笑しながら夏希にツッコミを入れる。
「お前、一応自分が『病人』ってことになってるの分かってる?」
「あんたが『健康』にしたんでしょーが」
「生き返らせろって言うたんはお前やろが」
口論している二人の横を、年輩の看護婦が早足で通り過ぎて行く。
「病院では静かにして下さいねー」
その言葉にハッとした二人。甲高い足音を立てて廊下を闊歩して行く彼女の背中に向かって、声のトーンを落として相次いで呟く。
「はい」
「すんません」
完全に彼女の姿が見えなくなってから、夏希はむくれながら自分のベッドに歩いて行く。
エンマはその後を追いかける。
「とにかく、親父さんが来るまで大人しゅうしとけ」
「口うるさい閻魔大王様ねぇ」
「別にどう思われてもかまへんけどな」
壁に背中を預けて、じろりと夏希を見据え、重々しい口調でこう言い渡す。
「親は、大事に出来る内に大事にしとけよ」
さっきまでとは違う、重い声のトーンに、夏希はドキリとする。ベッドにぺたんと腰を下ろして、少しだけ怪訝そうにエンマを見据え返す。
「どうしたの」
目を細めるエンマ。
「後で絶対後悔するぞ?」
夏希にそれ以上聞く勇気は湧かなかった。それくらい、エンマの表情は重苦しいものだった。
夜の病院の入口に、中年の男が大慌てで駆け込んで来る。
何かを控えているのであろう、小さなメモ用紙を見て立ち止まり、周囲をぐるぐる見回して、どたどたと廊下を直進して行く。
たまたま傍を歩いていた若い看護婦を見つけてはまた立ち止まり、荒い呼吸を整え整え、やっとこう切り出す。
「あの、かっ、川上ですけど、む、娘がこちらに運ばれてると聞いて来たんですが」
看護婦は状況をすぐに察知する。
「もしかして川上夏希さんのお父さんでらっしゃいますか?」
聞き慣れた名前が彼女の口から出たことに、男・
「娘の部屋はどちらですか」
「御案内します。こちらへ」
看護婦に伴われて、健介は夏希のいる病室に向かう。
健介が病室に入った時、夏希はすっかり出立する準備を整えてぼんやりとベッドに座っていた。
「夏希!」
その声に振り返る夏希、一瞬安心したような眼光を浮かべるが、すぐに強張った表情に戻り、つい心根とは反対のことを言ってしまう。
「あたし一人でも帰れたのに」
健介も、五体満足、元気そのものの我が子を目にして安心した刹那、その言葉にカチンと来てしまう。悪循環そのものだ。
「そんな言い方はないだろう」
「大きなお世話なんだよ」
「娘の身を案じない親なんて狂ってるぞ」
何でこう、悪い方へ悪い方へと話が向かってってしまうのだろう。たまらず夏希がこう打ち切る。
「もう出よう。こんなトコにいるのうんざり」
健介が運転し、助手席に夏希が座っている。で、エンマは後部座席に姿を消して座っている。無論健介は気付く由もない。
それにしても、この親子は会話がない。
健介は正面を真一文字に見据えて淡々と運転している。
夏希は夏希で横の窓を開け放って頬杖をつき、流れる景色をぼんやりと眺めている。
カーラジオが垂れ流す音楽がなければ居心地の悪い車内になっていた所だった。
さっきの病室でのやりとりも、エンマは全て聞いていた。妙な親子だ、と思った。同じ喧嘩腰でも、自分との時とは随分違う。数年前の母親の自殺と何か関係がありそうだが……
エンマも、窓の外の光に目を遣る。久しぶりの下界だ。
大阪生まれの自分とスミレが、一念発起して上京したのは、もう何年前のことになるのか。そして『あの事件』を起こしたのも東京だった。複雑な思いが、胸中を駆け巡る。
「そういえば……
不意に健介が呟いたその言葉に、夏希が目を見開く。そうだ、待ち合わせてたんだった。
「携帯も、家の電話も全然繋がらなかったからって、店にまで電話して来てな」
夏希は、スカートのポケットから携帯を取り出し、画面を見る。ショートメールが3通、不在着信が5通。
健介の口調が怪訝そうなものに変わる。
「警察から聞いたけど、デパートの入り口に車が突っ込んだとかいう、大変な事故だったらしいじゃないか。裕二くんも心配してた。なのに、お前……」
なのに、娘は怪我一つないのだ。
「本当に、大丈夫なのか」
「あ!」
事故現場でもある、例のデパートの前の交差点にちょうど差し掛かった時、夏希がもう一つ何かを思い出したように、突如声を発する。
健介がびくっとする。
「どうしたんだ急に」
ちょうど赤信号で停車中である。
「ちょっとあたし、取りに行って来る」
「何を」
夏希は、カメラ、とだけ言い残すと、さっさと車から下りて、まだ人通りの多い横断歩道を駆け出して行く。
健介には、その言葉だけでピンと来ている。
カメラ。
娘の異様な執着振りに、複雑な思いをしつつも、自分からは何も言うことは出来ないと思っていた。
一目散にカメラ屋に向かう夏希の背中を眺めながら、彼女はきっと無言で俺を非難しているのだ、と感じていたのだった。
カメラ屋のシャッターはとうに下りていたが、夏希は構わず、横のインターホンを鳴らす。行き着けの心安さが為せる技だ。
ややあって、ようやくインターホンのスピーカーから返答がある。
「はい?」
「夜遅くすみません。川上夏希です」
スピーカーの向こうの男は、声のトーンを一変させる。
「おお! 随分遅かったじゃないか。心配してたんだよ」
「色々事情があって。メンテナンス終わってます……よね?」
「バッチリだよ。ちょっと待ってて。今シャッター開けるから」
インターホンはそこで切れる。姿を消したままのエンマが声だけを発する。
「何なん?」
夏希はすこし嬉しそうである。
「カメラをメンテナンスに出してたの。結構年季ものだから、大事に使わないと機嫌損ねちゃうんだよね」
「機嫌?」
シャッターががらがらと開け放たれ、店内の蛍光灯の光が眩しく外に洩れて来る。
中から現れたのは、眼鏡をかけた中年の男だった。ざっと見て、健介よりも少し年上と言った所だろうか。にこにこと夏希に笑いかけて来る。
「入って」
促されて、夏希が店内に入る。
古ぼけたライカM3が何台も陳列されている。いつかお金がたまったら使ってみたいとは思っているが、今はまだ憧れの域を出ないでいる。それに、今は浮気が出来ない。
夏希はこの店の匂いが好きだ。使い込まれた道具が放つ、皮と金属とが入り交じった、独特の匂い。こんな人生を送ってみたいな、と思う。
「お待たせ」
男が、ビニール袋に包まれた黒いカメラを手に、店内奥から現れる。
夏希はそれを見るや、まるで我が子を見つけたかのごとく駆け寄って行く。
「特に異常は見られなかったよ。ストラップの金具がくたびれてたんで、新しいのに換えといた」
「ありがとう」
男は店のカウンターに向かい、白い紙袋を取り出して、その黒いカメラを中に納める。
夏希もそこに駆け寄るが、急に俯き出す。
その雰囲気に、男は敏感に反応する。
「お代はいいからね」
ええっ? と、夏希は心底申し訳なさそうに顔を上げる。
「いつも悪いですよぉ、そんな……」
手を振ってそれを制する男。
「いいんだよ。俺が好きで面倒見てるんだし。夏希ちゃんがそれを大事に使ってる気持ち、それだけで俺に取っちゃ何万円分にもなってんだから」
「すみません……」
恐縮して一礼する夏希に、にっこり笑いながら彼女の本質を突く男。これも照れ隠しの一つなのだ。
「そもそも持ち合わせもないだろうしね」
別れ際に、ありがとうございました、と、もう一度頭を下げながら、店を後にする夏希。手には、愛機の入った白い紙袋が大事に抱えられている。
エンマは姿を消し、声だけで話し掛けて来る。
「それを取りに行く途中やったんやな」
ん、と頷く夏希。病院を出た直後よりは随分機嫌も直っているようだ。
「すっごく大事なカメラなんだ、これ」
「ふーん」
そう声を上げると、エンマは突如実体を現す。
「でも意外やったな」
「何が」
お前でも、と言ってから一旦言葉を切り、にやりと笑いかける。
「恐縮することがあるんやな」
「……あたしどんな人間だって思われてんのよ」
エンマは、にゅっと紙袋の中身を覗き込み、
「ちょっと見して」
と、カメラを取り出そうとする。
夏希は猛然とその手を叩き落とす。
「ダメ!」
その剣幕に少なからず驚きながら、エンマは叩かれた手の甲をさすって口を尖らせる。
「ちょっと見るだけやんけ」
しかし夏希はキッとエンマを睨みつけて、
「ダメなものはダメ」
と、すたすたと車に向かってしまう。
エンマは尚も手をさすりながら、このカメラへの執着に、夏希という人間を知る鍵が有りそうだと察するのだった。
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