中編



  5


 姿を現わした門倉かどくら貴紀たかのりは、上はセーター、下はジーンズというラフなスタイルで、髪型は一応整えているものの、耳のあたりから後頭部にかけて乱れもあり、あわててセットしただろうことがうかがえた。

「お待たせいたしまして」

「いえ、こちらこそ、お忙しいなかお時間をとっていただき恐れ入ります」

 席から腰を上げ観音坂かんのんざかひとしは礼を述べる。傍らでわすれくさかやは変わらず軽く会釈するだけだ。一瞬このコンビの姿に警戒するような色が浮かぶが、次いで提示された警察手帳でひとまずは納得したようだった。

「先ほどは大変失礼いたしました。ここのところまたおかしな電話も多いものでして……」

 天知あまちひよりから西崎にしざき委恩いおんの数少ない友人だと教えられた門倉に連絡をとったところ、はじめはいたずらか詐欺の類と思われ、けんもほろろな対応を受けたのだった。

「とんでもない。年末ですから、あのくらい警戒されているのも当然だと思います」

 注文を聞きにきたウェイトレスに門倉はコーヒーを頼んだ。

 連絡を取り直し、自分達が正真正銘の警察官であることをどうにか納得してもらい、時間がとれないかと伝えたところが、近所だというこの喫茶店を指定されたのだった。

 門倉宅は絵樟えくす駅から見て西崎のマンションと反対方向にあたり、かかる距離も似たようなものだった。

「それで西崎のことで。死亡したとうかがいましたが……」

 狼狽した表情で身を乗り出して、門倉の方からそうたずねてきた。細面の眼鏡の奥で瞳が不安そうに揺らいでいる。

「その件につきまして、申し訳ありませんが、こちらの写真をご確認いただけますか」

 均は懐から一枚の写真を提示した。それは解剖を終えた西崎委恩の顔を写したものだった。後頭部の骨折による脳挫傷が死因のため、正面からでは傷は見えないが、それでも目を瞑り肌の色の褪せた顔は、明らかに生物とは異質の雰囲気をまとっている。

 それを目にするや門倉の顔が蒼褪めた。

「西崎、西崎委恩にまちがいありません」

 落ち着こうとしているが手は細かく震え、返却しようとした写真も揺れていた。

 門倉は大きく目を見開いて、口をまっすぐに結び、腕を組み顔をうつむかせたまま黙り込んでしまった。

 均もあえて声をかけなかった。どう切り出すべきか考えあぐねていたというのもある。

 やがて注文のコーヒーが運ばれてきて、ほんの一口、ほとんど唇を湿らす程度を含ませると、意を決したように声を発した。

「どういうことですか」

 そこで均は昨晩の遺体発見までの経緯を掻い摘んで説明した。

「なるほど」

 表情はまだまだよくないが、それでも一度大きくため息をついて、なんとか動揺を鎮めようと努めている。

「それで申し訳ありませんが、天知さんより西崎さんの御親友だとうかがいまして、いくつかおたずねさせていただいてもよろしいでしょうか」

「はい」

 緊張した面持ちでうなずく。

「改めまして、お名前とご職業などを教えていただけますでしょうか」

「門倉貴紀。三十四歳。職業はイラストレーターです。住所は……」

 緊張を隠せず門倉は一言ずつ確かな口調で個人情報を語ってゆく。それを一通り聞き終えると、均は質問をはじめてゆく。

「西崎さんとはいつ頃からのお知り合いですか」

「高校からです。僕も西崎も新潟の出で、卒業後、大学は別でしたが関東に越してきてきたのは二人だけでしたので、つきあいは続いていました」

「それは社会人になってからも?」

「そうです」

「ちなみに、直近でお会いになったのは、いつごろでしょうか」

「対面ということでしたら……。ちょっと調べてもいいですか?」

 ポケットに手を当てて、携帯を出してもいいかという仕種をするので、「もちろんです」と均は応じる。

「最後に会ったのは二カ月ほど前、九月の末近くですね。いっしょに飲みに行きました」

 門倉はスマートフォンのディスプレイを見えるように差し出してきた。そこにはメッセージアプリでの会話の様子が表示されていて、門倉の方から誘いかけて飲みに出かけるまでのやり取りが記録されていた。とても簡素なもので、逆に気心の知れた感じが表れている。

「おそれいります。その際になにか変わった様子を感じたということはありませんでしたか?」

 たずねられて門倉は拳を顎のあたりにあて、しばらく眉を寄せて当日のやり取りを思い返しているようだった。

「特に変わったということはなかったと思います。いつも通り飲んで、いつも通りお互いの近況を話し合って、愚痴や世間話をしたという程度です」

「愚痴ですか」

「ありきたりなものだと思います。とんでもないクライアントに出会ったとか、あの仕事はもっとうまくやれたのにとか。僕らは、個人事業主やフリーランスと言葉が変わっても、その日暮らしの稼業には違いありませんから、仕事や生活への不安は常に抱えていてつい愚痴として出てしまいます」

「なるほど。その九月以降、会おうという話はありませんでしたか?」

「そうですね。年末はお互い忙しいですから、ここ何年も直で会うことはありませんでした」

「電話やネットなどでのお話は?」

「それはありましたが、頻繁でも数日おきくらいで、数週間空くのもざらでした」

 均は自分に置き換えて考えてみたが、仕事以外の知人となるとそのくらいの頻度は特に不自然ではない。

「なにか近く人に会うなどという話は出ませんでしたか」

「いえ、なかったと思いますけど」

「絵樟駅前公園はご存知ですか」

「はい。絵樟駅の裏にある広い公園ですよね」

「西崎さんが、昨晩、あの公園にいた理由に心当たりなどございませんか?」

「わからないです」

「ちなみに昨晩の七時から八時にかけてどちらにいらっしゃいましたか?」

 門倉の肩のあたりに力が入り、さらに全身が強張るのがわかる。

「皆さんにおうかがいしていることですので」

 極度の緊張に均の方が申し訳なく思えてくるほどだった。

「すいません。昨日でしたら、部屋でずっと仕事をしておりました」

「ずっと、ですか」

「はい。年末進行といいまして、十二月は雑誌などの刊行が年末年始で圧縮されるために、締切も前倒しされるんです」

 いわれてみれば均もそういう単語を聞いたことがある気がした。

「そのようなお忙しい時に呼び出してしまい申し訳ないです」

「いえ、そういうつもりじゃなくて、ですね」

 均のねぎらいがかえって皮肉にとられてしまったものか、門倉はさらに委縮してしまった。

「萱さん、なにかありませんか?」

 門倉の扱いに弱りきってしまって均はつい隣席の先輩に助けを求めた。萱は背を丸めた姿勢のまま、注文したレモンティーにも手をつけず、じっとのぞき込むように向かい合うイラストレーターの顔を注視していた。

 するとその態勢のまま、コートのポケットをまさぐって取り出した物をテーブルの上に置いた。

「知ってる?」

 それは現場に散乱していたのと同じ種類のカードだった。待ち合わせの前に萱は大きめの家電用品店に立ち寄りパックを一つ購入しておいたのだった。

「『セレクティング・アルカナ』のカードですね」

「ご存知なのですか?」

 均は反応があったことに驚いて、萱の質問の最中にもかかわらずたずねてしまっていた。

「はい。昔少しやっていましたから」

「彼も?」

 萱はカードの隣に西崎の写真を滑らせて確認する。

「はい。というよりも西崎が一番熱くなっていたんですよ。何でもはまったらとことんって奴でしたからね。あいつにつきあって高校時代はクラスを越えてメンバーがいて、大学に入って関東に来てからも会う時はデッキを持ち寄ったものでした。あいつはあちこちの大会にも出ていたらしいです」

 封が切られたパックの中の十枚ほどのカードを懐かしそうに眺めながらそうつぶやいた。

 プレイ経験のない均でも、デッキというのがTCGを遊ぶ際に使用する山だということくらいは知っている。

「今は?」

「もうやっていません。何年くらい前でしたでしょう。顔を合わせた際に『もうカードはやめた』といってそれきりでした。何かショックなことがあったのかもしれません」

「ショック?」

 淡々とした萱の質問は続く。

「直接聞いたわけではありませんが、その時のしゃべり方とか雰囲気でそういう風に思ったんです。とはいえ、もう大学も卒業して、お互い働きはじめていましたからね。時間がとれなくなって興味が失せたということかもしれません」

「あなたは?」

「僕もそれきりです。しばらくは保管していましたが、ある時に全部処分してしまいました。こんなことになるのだったら、せめてデッキくらい残しておいたらよかったですね」

 しゃべっているうちに思い出すこともあったのだろう、門倉は唇を噛んで悔しそうな顔を見せた。

「マジシャン」

 そのしんみりとしかけた空気の間に、萱は切り込むようにそう掠れた声を突き刺した。

「はい? ああ、西崎の仕事ですね。はい、脱サラをしてマジシャンを専業にしていました」

「仕事」

「正確には僕も知りませんが、芳しくはなかったと思います。はじめは師匠の下について、一年くらいだったかな、あちこち飛び回っていました。でも独り立ちしてからはかなり苦労していたみたいで、最近でも決まった仕事は月に三回か二回だったかマジックショーを見せるバーで出演するのが唯一だっていってましたね。あとは単発の依頼がどのくらいあったものか。それ以外は居酒屋でアルバイトを続けていました」

「師匠」

「教えてもらったはずなんですが、なにしろかなり前ですからね、うろ覚えでして。確かカタカナと漢字を組み合わせた名前だったと思うんですが」

 残念ながらその手の名前は多く、それだけだと決め手にはならない。

「店」

「そちらでしたらバーも居酒屋もわかります。何度か足を運んだことがありまして」

 再びスマートフォンを取り出して調べると、萱と均にそれぞれの名前と電話番号、かんたんな所在を伝えるのだった。



  6


 均と萱はすぐに西崎がマジシャンとして定期的な仕事を行っていたという店に向かうつもりだったが、オープンまでまだ間があるらしく電話をかけてもつながらなかった。そこで先に、ひよりからもうかがっていたアルバイト先という居酒屋を訪れることにした。

 居酒屋「土瓶どびんそん」の店長は五十絡みの口髭がトレードマークで彫りが深めの男性だった。オープン準備中にやって来た二人、特にいかにも怪しい風体の萱を目にして訝しそうな表情をしていたが、刑事である旨と西崎委恩が殺人事件の被害者となった件を伝えると驚いて中に案内した。

 店内はカウンターとテーブル席、それから奥には座敷も揃えた小規模ながらも落ち着く雰囲気になっていた。

「西崎君がまさかねえ」

 口を固く結びため息をもらす。

「目下絵樟署では総力をあげて犯人を捜索中です。つきましては、西崎さんがトラブルを抱えているなどうかがっていませんでしたか?」

「いやあ、ないなあ。というより、彼、あんまり自分からプライベートを話すタイプじゃなかったしねえ」

「何か世間話の合間におかしなことをしゃべったとか、そういうことなどは」

「そういうのが全然ないやつなんだよ。夕方お疲れ様ですってやって来て、夜にまかない食べてまたお疲れ様ですって帰っていく。その間何もしゃべらないってこともざらだったしね」

「他の店員の方との関係は」

「普通だと思うよ。うちは俺の他には副店長と、西崎君以外にバイトが三人いるけど、そのうちの誰かと特別に仲がいいって感じはなかったな。入れ替わりもそれなりにあるしね」

 念のためにそれぞれから直接に話を聞きたいので、刑事課へ店員それぞれの連絡先を後ほど知らせてもらえるよう依頼をしておく。

「西崎さんの仕事ぶりはどうでしたか」

「よく出来たよ。掃除、洗い物、配膳、注文取りと、教えた仕事はなんでもこなしたし、案外と気のつく方でね。あれでもうちょっと愛嬌があったらねえ」

「不愛想ということですか」

「いや、愛想は悪くないんだよ。店員同士もちろん挨拶もするし、お客さんがやってきたら『いらっしゃいませ』『お決まりですか』ちゃんといえる、受け答えだってしっかりしてる。ただ、本人の決めた一線というのがあって、これを超えることは絶対にできないんだよね。やらないじゃなくてできない」

 わかるようなわからないような話だった。そんな均の顔を察してだろう、店長はさらに言葉を接いだ。

「そういえばこんなことがあったよ。彼、マジシャン志望だったでしょう。だから一度店でも軽めなものを見せてもらえないかってたずねたんだ。店内の盛り上げになるかなと考えてさ。その時、なんていったと思います?」

「できないと?」

「逆、逆。すごく事細かに注文をつけてきたの。これだけのスペースを用意してもらって、テーブルの高さ、サイズはこれ、ここからここまでは誰も入ってこないようにってね。座敷まるごと使うくらいの勢いでさ。そんなの許可出せないじゃない。でもね、目は真剣なんだよ。やりたくないから無理をいってるんじゃなくて、やるからにはそれが当然だと思ってるんだよね。こちらは店の余興としてお願いしているんだけど、彼にしたら本気の仕事なんだよ。だからその話もそれっきりだったね」

「西崎さんのことを生真面目という方もいらっしゃいましたが」

「良くいえばそうでしょうね」

 悪くいった場合については、あえて口にしなかった。

「彼女……、友達……」

「はい? ああ、西崎君の交友関係ってことですか?」

 突然均の肩越しに顔を突き出してたずねてきた萱に驚いた様子だったが、さすがに接客を生業としているだけにすぐに気を取り直した。

「詳しくは知らないけど、彼女はいたよね。何回か店につれてきたことがあったかな。つれてっていうよりは、向こうから引っ張ってきたって感じだったかな。まあ、西崎君みたいなのが、どんなところで働いているかって興味出るよね。友達の方もそんな感じだったかな。こっちはもうちょっと落ち着いてたけど。眼鏡かけてひょろっとしたタイプだったな」

 おそらく門倉のことだろう。

「正直、西崎君といっしょっていう驚きがあったから印象に残っているだけで、あんまり友達の方は記憶にないんだよね。ただ彼女の方は覚えがあるよ。かなりぐいぐいいくタイプでね、始終彼が押され気味だったのが面白くてさ。初めて注文とりにいった時なんだけど、西崎君がまずはビールを二人分頼もうとしたわけ。ところが彼女さん、横からさっと口をはさんできて『今日はビールの日じゃないから日本酒で』っていうのよ。すると西崎君は小さく『はい』。その従う様子と、ビールとか日本酒に日があるんだっていうので、なんだかすごくおかしくなっちゃってね」

 それはおそらく本当によろしくない日だったのだろう。均は天知ひよりとのやり取りを思い出して確信していた。

「あまり仲良さそうではなかった?」

「そのあたりが男女の仲の不思議なところでねえ、主導権は完全に彼女に握られているんだけど、西崎君本人の様子は満更でもなさそうでね。働いている時とは違ってくつろいだ感じもあったなあ」


 土瓶そんを後にすると西崎が定期的に出演していたとされるバーと連絡がついたので、国道を走らせ一路そちらへと向かう。

 マジックバー「ドクターD」は絵樟駅から東へ――なので駅前公園とは反対側へ五百メートルほどの位置にあった。

 通りに面してはいたが、店舗は地下で、階段前には準備中と書かれた立札が置かれていたが、それを横目に下っていき現れた扉をノックしつつ引き開いた。

「恐れ入ります。絵樟署の者ですが」

「あら、いらっしゃいませぇ」

 そのままUターンして引き返そうかと思った。実際足は止まって一瞬その場に棒立ちになってしまった。けれども、こんな時に限って萱は後ろから背中をぐいぐい押して無理矢理歩を進めさせた。

「絵樟署刑事課観音坂とこちらは萱です」

 しかし、逃げ出すなんていう選択肢がとれるわけもない。手帳をかざして均は自己紹介を行う。

 すると出迎えてくれたこの店のオーナー店主萩家はぎやきよしは顔を寄せてしげしげと手帳を、というよりも均の手そのものを凝視してくる。

 想像通り強い白粉のにおいが漂ってきた。

 萩家はワイシャツにベスト、それにネクタイというバーテンダースタイルだったが、顔面は真っ白に塗りたくり、肉厚の唇にはたっぷり紫の口紅を差して、荒いラメ入りのアイシャドウと強烈に突き出るつけまつ毛で目のまわりもインパクトを強めた、いわゆるおかまメイクでばっちり固めていた。

「さっきの電話の声で思った通り! かわいい子が来てくれたわねえ!」

 警察手帳と均の顔を何度も見比べて、満足したかのような野太い歓声があがる。

「さあさ、どうぞどうぞ、奥まで奥まで、ぐぐーっと奥まで来ちゃって!」

 跳ねるようにして萩家は後方に下がると均を店内に誘う。

 こちらで結構です、という言葉が出かかったところで、やはり萱が突き押して前に進ませた。

 店内はカウンターメインだが壁際にはテーブル席も用意されている。そこまでは普通のバーと大同小異の造りだったが、店の奥には一段高い小さなステージが設えられていて、どうやらそこでマジックが行われるらしかった。

「何にする? あたしのおごりよ」

 勧められるままにカウンター席に座ったところで、向かいに立った萩家が情感たっぷりにそういってくる。

「と、とんでもない! 勤務中ですのでいただけません」

「んまっ、お堅いのね。いいわよ、ますますあたしの好み」

 何をいっても深みにはまっていく気がする。均はとにかく用件を手早く済ますことに集中しようとした。

「電話でもお伝えしましたが、西崎委恩さんのことをおうかがいしたいのですが」

「委恩ちゃんね、毎月第二、第三木曜日に来てもらってるのよ。どうしたの彼、何かやったの?」

 遺体が西崎と確認されてからまだ半日も経っていない。この時点ではまだ警察発表も行われていないため当然報道もされていなかった。

「昨晩絵樟駅前公園にて死亡している状態で発見されました。われわれは他殺の方向で捜査を行っております」

 途端に萩家は限界にまで大きく目を見開いて、厚く塗られたファウンデーション越しでもわかるほどに顔色が変わった。

「うそ……」

 絶句してうつむき、肩を震わせたかと思うと、嗚咽が漏れ出てきてたちまち大粒の涙がこぼれだした。

「ごめんなさい、見苦しいところを」

 しばらくして一度口をすぼめて大きく吐息をついて、均に向き直ったその目は真っ赤に血走っていた。

「いえ。それで現状、われわれといたしましても、当日の足取りを追うためにも、関係者の皆さんより西崎さんの人となりなどをうかがっております。よろしいでしょうか」

「ええ」

 激しく鼻をすすりながらそう応える。

「すみません、まずはその前に、マジックバーというのはどういう……」

「店の形態はいろいろあるけど、うちはお酒を飲んでもらうのがメインで、その間にマジックを見てもらったりかんたんな道具で自分で体験してもらったりして場をつないでもらうって感じね。普段はあたしやスタッフが基本的なものをやるんだけど、日によってはプロに来てもらってるの」

「なるほど、あちらのステージはプロ用ということですね。その西崎さんの割り当てが第二、第三木曜だったと」

「そう、ウエストコースト原田って名前でね」

「ウエストコースト?」

「芸名よ、芸名。本名で活動している人なんてなかなかいないわよ」

「トラブルが絶えないとか?」

「そうじゃなくて。マジックを見るにしてもみんな騙されたいわけじゃない。騙されて一時日常を忘れようと思ってるの。その第一歩からいきなり鈴木一郎です、なんて名前で出てきてみなさいよ。せっかく騙されようって歩み寄っているお客様を現実に引き留めるみたいなものでしょ」

「なるほど」

 均からするとうまく飲み込めない話ではあったが、そこはうなずいておくに留めた。

「けど、そういう点でしたら、西崎さんの本名は結構珍しいですよね」

「そうなのよねえ。そこはあたしも何度かウエストコースト原田なんて野暮ったい名前やめて、まるまる本名が嫌なら少しひねって使ってみたらっていってみたんだけど」

「承知しなかったと」

「もう何年もこの名前でやっているから、今更変えて覚えてくれたファンを混乱させたくないっていってね。生真面目だけど融通利かないところがある子だったから」

「ファンということは、西崎さんは人気があったんですか?」

 萩家は少しうつむき気味に「一生懸命やってはいたんだけどねえ」というだけだった。

「逆に苦手や避けているような人はいませんでしたか」

「委恩ちゃんが? そんな子がいるなんて聞いたことがないし、あたしもそんな風には見えなかったわねえ」

 その表情は特に何かを隠したりごまかしたりしているようにはうかがえなかった。

「こちらは関係者全員に形式的に聞かせてもらっていることですが、昨晩の七時から八時にかけてはどちらにいらっしゃいました?」

「ここよ、ここ。昨日はスタッフの子とオープンからずっと勤務よ」

「ですよねえ、ありがとうございます」

 西崎の人となりを知るために、他のスタッフにも話をうかがう可能性がある旨を告げて、均の質問は一通り終了した。

「マジック……種類……」

 それまでカウンター席に腰掛けたままぴくりとも動かなかった萱が、均の隣から薄暗い間接照明に照らされるだけで、前髪の掛かる向こうから上目遣いでたずねてきたため、思わず萩家もびくりと全身を震わせた。

「びっくりした。委恩ちゃんがやってたマジックの種類ってこと? そうねえ、結構満遍なくやっていたから、特にこれっていう得意にしているものはなかったわね。ああ、ただ、カードマジックはやらなかったわね」

「理由」

「たしか他のマジシャンがよくやっているようなものをやっても仕方ないとか、そんなことをいってた記憶があるわね」

「出演、経緯」

「えっと、委恩ちゃんが、うちに出演するようになった理由ってことね?」

 短い間でも萱のペースに慣れてきたらしく、萩家はその言葉の意味を汲んだ。するとわずかに萱の頭が上下する。うなずいたらしい。

「紹介があったのよ。うちの店で面倒を見られないかって。お師匠さんから」

「そういえば西崎さんにはプロマジシャンになるにあたって師事されていた方がいらっしゃったんですよね。ご存知でしたか」

 門倉から聞いた師匠の存在を均は思い出した。

「もちろん」

 萩家は、萱とは対照的に、力強く大きく首を縦に振った。



  7


 パーティグッズの専門店で売っているような遠目からも作り物とわかるブロンドのカーリーヘアのかつらをつけて、着ているのはタキシード、首もとは蝶ネクタイで飾っている。

 矍鑠かくしゃくとしているが、そもそも矍鑠としているという形容が似合うほどの年齢だということで、金髪かつらの下の白いものが多くまじる眉にしても皺の刻まれた額や目じり、ひびの入る唇にしても、十分に前期高齢者以上の様相を呈している。

 全体的にとてもアンバランスな外観だが、口を開けば出てくる言葉はさらにギャップに満ちている。

「アルカトラズ島って知ってるか? サンフランシスコ湾に浮かぶ米粒みたいなちっこい島なんだ。サンフランシスコはわかるよな? そこのお母さん言ってやれ。アハハハハじゃないよ。そっちのじいさんはどうだ。急に目を白黒させるんじゃないよ。びっくりしてんだか急病なんだかわかんないだろ。しょうがねえなあ、サンフランシスコ、アメリカ西海岸、想い出のサンフランシスコって歌があっただろ、あいれふとまいはーといんさんふらんしすこって!」

 洋楽をひらがなで歌いつつ景気づけに一声発しつつ大きく両手を振るうと、いつの間にかその中には一枚の北米の地図が握られていた。

 金髪かつらの老人は、それをあらかじめ用意されていたポスタースタンドに掛ける。

「これがアメリカ合衆国だ。都合上アラスカとハワイは端っこに描かれているけど気にすんな。サンフランシスコは西海岸このあたりだな。で、問題のアルカトラズ島はここだ。ちっちゃいだろ。え? だから、ここだって。ここ! 見えない? 見栄張るなよ。老眼だから遠くの方がよく見えるだろ。ったく、しょうがねえなあ。じゃあ、イチ、ニのサンで、この地図を大きくしてやるからな。そら、イチ、ニのサン!」

 いいながらくるりとひっくり返すと裏面はサンフランシスコ地方の拡大地図になっている。

「それでアルカトラズ島は……。なんだ、納得いかないって顔してんな。もしかしてさっきの全体図がぶわっと大きくなると思ったか? そんなことできたら印刷会社はかたなしだよ。この小さな地図がさ」

 と再び反転させてみると、今度は先ほど北米の地図だったはずの面までもがサンフランシスコ地方の拡大地図になって、裏表同じ図柄になっている。

「で、アルカトラズ島はこれだ。こっちの地図にしたってちっちゃいだろ。すぐ近くにある海峡がゴールデンゲート。ゴールデンゲートブリッジくらいは知ってんな。ありゃあこの海峡に掛かってんだ。ここからぷっと吹き出されてみろ、そこから先は太平洋、離岸流に引かれたらあっという間に大海原で海の藻屑になっちまう。でもこのちっちゃい島はここにしぶとく張りついてるんだ。こいつのせいでまわりの海流は複雑で流れも速い、島にはかんたんに近寄ることはできないし、逆にいやあ出るのだって命がけって寸法だ。コロンブスがやって来る前から住んでるやつぁだれもいない、恐れられた島だったんだ。おっかねえ言い伝えはてんこ盛り、それでうまいことを考えたやつがいたね。ここを刑務所にしちまえばいいって」

 スナップを利かせて地図を勢いよくパンと叩く。

「それがアルカトラズ刑務所だ。知ってるよな? 映画にもなってただろ。イーストウッド主演でさ。通称、ザ・ロック。南北戦争の頃から監獄に使われてたってんだから折り紙付きだ。有名な囚人にアル・カポネがいるな。その名うての刑務所においらも入ってたんだ」

 親指で自らを差してにやりと笑う。

「しかも入ってただけじゃねえぞ、おいらはその上で脱獄まで果たしたんだ。今日は特別にその華麗なる脱獄術をここにいるお客様だけにお教えしてやるからな。アルカトラズ刑務所内はまず全部独房だ。相部屋なし。そこにおいらくらいの大物になると、牢屋の中でも常に手錠が掛けられている。こんな具合だ」

 老人は自ら両手に手錠を掛け、上下左右前後に振ってみせて、金属製の鎖が音をたてて不自由な様子を確認させる。

「頑丈なもんで力任せに動かしてみたってびくともするもんじゃねえ。囚人にとっちゃとんだ厄介物だが、刑務所側からしたら安心の代理だな。けどな、安心してる時ほど人間油断が生まれるんだな。あいつは鎖につながれてるから見張る必要はないだろう。これが油断だよ。けどな、こんな手錠くらい、おいらにかかりゃ、イチ、ニのサン」

 掛け声とともに、前に突き出したままの両手を軽く揺すると、たちまち手錠は音をたてて床に落ちた。

「な? そんで、おいらはやすやすと牢獄から脱出すると外へ」

 つかつかと舞台袖へ向かいかけたところで、老人はその場に両腕をばんざいに上げた状態でうつぶせに倒れてしまった。

 いつの間にか、その右足首に先ほどまで両手を封じていた手錠が掛けられ、もう片方は壇上の小型テーブルの足につながっていて、そのままつんのめって倒れてしまったのだった。

「逃げ出すつもりのところが、足の手錠を忘れてて、そのまますっ転んじまって、お前みたいなバカな奴を刑務所に入れておくのも無駄だからって外に放り出されたよ!」


 楽屋はもちろん、均は寄席自体に足を踏み入れるのは初めてだった。

 東京本郷の常設寄席らく。

 落語を一年三百六十五日通して行っている演芸場であり、噺家と噺家の合間に、例えば漫才師や紙切りといった芸人も色物と呼ばれる枠で出演する。マジシャンもそんな色物に数えられていた。

 その寄席には昼の部と夜の部があり、それぞれ十五組以上の芸人が入れ代わり立ち代わり舞台に登場する段取りだというのも初めて知った。本郷の喜らくでは、夜の部が夕方五時から九時までとなっている。

 落語専門の舞台と聞かされていたために均が頭に描いていた姿とは裏腹に、鉄筋コンクリートのビルで、表に幟こそ立っているものの、それと知らなければわからないだろう外観をしていた。

 ドクターDの店長萩谷から西崎委恩のマジックの師匠の情報を得て、所属の事務所に問い合わせると、舞台に出演予定なのでその後なら対面が可能だと伝えられたのだった。

 一度署に車を返して、絵樟より電車を乗り継いで到着してみると、ちょうど出演中だと教えられた。

「よろしければ御覧になられますか?」

 入場券の販売所で身分を明かしてたずねると、パート従業員だとばかり思っていた係の女性は意外にも席亭夫人ということで、特別にそう申し出てくれた。出番は十分前後ということだったので、均は正直なところどちらでもよかったのだが、

「是非」

 驚いたことに萱が食いついてそれを受け入れたのだった。

 舞台はビルの三階にあり、老人といっていい男が一人立ってしきりにしゃべっていた。客席は七割ほど埋まっており、音をたてないようにと注意を受けて、扉を開けてもらい最後列に二人で収まった。マジックというよりは漫談がメインで、要所要所で笑いがおこっている。観客は舞台に集中しているように見受けられ、舞台上の人物の腕前がうかがえた。

 さして興味なく見ていた均も次第に引き込まれ、最後のそれまで両手を繋いでいた手錠がいつの間にか足にかかっていて大きく舞台で転倒した場面では、あやうく声が出そうなほどに驚かされた。

 その後楽屋へと案内された。

「恐れ入ります。絵樟署の観音坂と萱と申します」

 喜らくの楽屋は思っていた以上に狭く、畳敷きの室内は十人も入ればいっぱいになりそうだ。

「おう、聞いてるよ。あの馬鹿死んだんだって?」

 ジャケットを脱ぎ蝶ネクタイを外して胸もとをゆるめた姿で、西崎委恩の師匠は金髪かつらを外した、すっかり生え際の後退した頭を突き出して、碧い瞳でこちらをねめつけるようにしてにじり寄って来た。来訪の意図とその目的についてはあらかじめ伝えてある。

 男はわざわざ均と萱の間を擦り抜けてそのまま廊下に出ると、ぽつんと置かれた椅子に腰かけた。楽屋内では他の芸人の目もあるからということらしい。

 そこで均は立ったままで、背後に萱が控える形で聴き取りをはじめることにした。

 ウイリアム照蔵てるぞう。もちろん芸名で、本名は近村ちかむら佳男よしお。金髪碧眼の自称イギリス系日本人ながらしゃべるのは伝法な江戸弁で、漫談をまじえた奇術――マジックを頑なにそう呼んだ――を披露するという芸風の、この道五十年に近いベテラン芸人だ。電車での移動中に時間があったため、携帯で人物を調べておくことはできた。所属は落語演芸協会となっているのが不思議だったが、こうして寄席に出るのに都合がいいらしい。

 正直、これまでマジックにひたむきに過ぎるほどの西崎の姿を聞かされていた均からすると、その師匠が寄席や演芸場への出場をメインにしている芸人だというのがすごく意外だった。

「お気落としのところ申し訳ございません。少し西崎さんのことについてお話をうかがいたいんですが」

「よくいうぜ、嫌だつったって、どうせ聞いていくんだろ」

 あまりにもあけすけに毒づいてくるため、均は咄嗟に言葉を接げなかった。

「どうしたい、なにもないってんなら、おいら帰るぜ」

 本当に腰を上げようとさえする。

「い、いえ、すみません」

「だったら早くしなよ、寄席だっていつまでも開いてるわけじゃねえんだよ」

「はい、今すぐに」

 小柄な老躯にもかかわらず威圧感が半端ではなく、完全にペースをつかまれてしまっている。

「西崎さんは近村さんの弟子ということですが……」

「おい」

 途端に青い目がギョロリと均を睨んできた。

「はい?」

「楽屋といえども寄席はおいらたちの仕事場だ。仕事場で仕事以外の名前を使うな」

「はい、すみません! え、えっと、ウエストコーストさんは……」

「おい」

 ところがそこでまた制止の声がかかる。

「あの野郎のウエストなんとかっていう名前は、おいらに無断で手前でつけやがったもんだ。そんな気分の悪いもん使うんじゃねえ」

 どうしろっていうんだ。均は思わず嘆きたくなった。

「本名と芸名」

 これまでと違い、均の質問の最中に、萱が不意に隣から口を挟んできた。

「そうだ。あいつには親御さんからもらって、しかも芸名にもぴったり合う委恩っていう立派な名前がありやがったんだ。いおんだぞ、いおん。営業に売り込みやすいし、うまくいきゃテレビで使ってもらえる可能性だってあらあな。なのに、あの馬鹿ときたら、自分はそんなことで注目されたくないとか生意気なことぬかしやがって」

 両膝の上に置いた拳が白くなるほどに固く握られる。

 萱はそれ以上続けるつもりはないらしく、しかたなく均がもとの質問に戻した。

「えっと、そうしましたら、西崎さんはウイリアムさんの弟子ということですが、その弟子入りにはどのような経緯があったのでしょうか」

「なにも特別なことなんかありゃしねえよ。あいつが弟子入りしたいっていってきたから認めてやった。それだけだ」

「それ以前の面識は?」

「ねえ」

 上下のまぶたを左手の指で大きく開いて、眼球に右の指を近づける。均がぎょっとしている間も指をまさぐらせ、しばらくして離すとウイリアムの瞳は黒に変わっていた。舞台上ではカラーコンタクトをつけていたのだ。

「ウイリアムさんを選ばれた理由については聞かれていますか?」

「なんだ、おいらだったら悪いっていいてえのか?」

「とんでもない! ただ経緯をうかがいたいだけでして……」

 意外と思っていたのは事実なので、つい狼狽えてしまう。

「経緯経緯ってうるせえ野郎だな。あいつ新潟の出だろ。そこでガキの時分においらの営業の舞台を見たんだとさ。そん時の奇術が忘れられなかったんだとさ」

「いい話ですね」

「馬鹿野郎! 親のカネで大学出させてもらって、せっかく就職した先を蹴ってまでやる仕事か、これが」

 安物の金髪かつらを見せつけるようにして振るう。だがそういうウイリアムの顔はやや照れくさそうでもあった。

「弟子入りされてからはどのくらい過ごされたのでしょう」

「一年だな。うちは修行期間は一年て決めてるんだ。その間はおいらの仕事についてこさせて、道具の扱い方、舞台への出し入れ、会場の人間への挨拶のしかた、それぞれの芸人の名前と顔なんかを覚えさせる。それから方々への顔出しだな」

「方々」

 またも萱が反応を示した

「あ? ああ、顔を覚えさせる場所かい? 色々だ。寄席やホールみたいな劇場に、テレビにラジオに雑誌とかのメディア、それから奇術用の道具を売っている店や、専用に作ってくれる工場だな」

「マジックを教えるのではないのですか?」

 均も萱に続いてできるだけ自然に質問を接いだつもりだった。

「そんなことは当たり前じゃねえか。奇術師の下に弟子入りして奇術やらねえ馬鹿がどこにいるんだよ。その当たり前の部分を除いてやることいってんだ」

「すみません」

 先ほどから均は謝り通しだ。

「そうして西崎さんは独り立ちされたということですが、それ以降は?」

「修行期間終えてからなんて、おいらの知ったことか」

「けど、ドクターDに推薦されたのはウイリアムさんなんですよね」

「わかってんならいちいち聞くんじゃねえよ」

「確認をとらせてもらうのも、ぼくらの仕事なものでして……」

 どうしても下手に出てしまう。

「どういう経……いきさつでドクターDに西崎さんを推薦なさったんですか?」

「どうもこうもねえよ、店長が奇術師を探していたから、あの馬鹿を教えてやったってだけのこった」

「けど、こういう寄席とマジックバーですと、かなり毛色が違いますよね」

 途端、ぎょろりと大きな眼球が動いて、均を睨みつけてきた。

「違うがどうしたい。寄席で笑ってもらいながら奇術を見せるのと、ステージに立って酒のつまみに見てもらうのと、場所はそりゃ違うだろうさ。けど、お客様に喜んでもらうっていうところはいっしょだろうが。え、違うかい? おいらは落語協会に口をきいてやるから籍だけは入れとけって言ったんだ。いずれ寄席にも出れるかもしれねえからな。それを、あの野郎、自分はマジック一本でやっていきたいとかぬかしやがる。ちゃんちゃらおかしいや。そういう大口は百人、二百人のお客様の前に立てるようになってから叩けってんだ」

 どうやら逆鱗に触れたらしく、さらに口調がヒートアップする。

「ということは、西崎さんの腕前はまだ未熟だったと」

 途端に、ぴたりと、まだウイリアムの口が止まり、再度しげしげと均の顔を眺めてくる。

「刑事さん、あんたいくつだ?」

「え? はい? 二十七ですが……」

 不意の質問ではあったが素直に答える。

「刑事って仕事も、ああしろこうしろってマニュアルがあるわけでもない、その場その場で対応の違う実践的なもんだ、違うかい?」

「それはそうですね」

「だとしたら、その仕事も才覚が大いに問われるわけだ。そんで、あんたは自分が、今、その刑事って仕事を十分にこなしているといえるかい?」

「そんな、とんでもないですよ」

 謙遜も含んでいたが、新米刑事として均の偽らざる気持ちだった。

「じゃあ自分が未熟だから仕事が思うようにいかなくてもしかたない、そう思うってえのかい?」

「それは、そんなことはありませんが」

 途端、ウイリアムの声が高ぶる。

「それをうまくできようが、年齢がいくつだろうが、才能があろうがなかろうが関係ねえんだよ。お客様は楽しみたいと思って、銭出して舞台の前に座ってんだ。芸人はどんなやり方だって、それに応えるのが仕事だ。自分がその道で食ってくって決めた以上は、なにがなんだってそれで稼いでいかなきゃならねえんだ。おいらは、それをくどいくらいに、あの野郎にだって教え込んで、それを理解していると考えたから破門にもしねえで修行明けを許したんだ。なのに芸が未熟だ? 当たり前だ! あいつに限らず誰だって未熟も未熟だよ! この道に入りゃ死ぬまでずっとあと一歩、二歩、三歩足りねえのを思い知らされながらやっていくしかねえんだ! そんなことも知らねえで、人の腕前を上手いの下手だのもう一度いってみやがれ、承知しねえぞ!」

 廊下に響く大音声は、思わず寄席のスタッフがのぞきにくるほどだった。けれども、或る程度年配のその人物は、怒号を発しているのがウイリアムだと見て取ると、なんだとばかりに姿をひっこめたのだった。

「すみません! ぼくの心得違いでした! ですから、少し声を抑えていただいて……」

 舞台にまで聞こえているのではないかという騒ぎに、かえって均の方があわててしまって、とにかく場を収めようとそうとりなした。

「寝ぼけたことぬかすな! この声のどこが大きい! 舞台に立ったらこのくらいじゃ、最前列にだって届きゃしねえよ!」

 けれども、一旦火がついてしまったウイリアム相手では、それがかえって油を注いでいるのと同じ始末だった。

 処置の施しようがなく、頭を抱えそうになったその時、脇から萱が右腕を伸ばしてきた。

 その手には例のカードが握られていて、ウイリアムの鼻先に突きつける形となった。

「なんだい、こりゃ」

 咄嗟のことに流石に呆気にとられて目と鼻の先のものに視線を集中させる。

「カード、記憶」

「実は、これと同じ種類のものが、西崎さんが亡くなっていた周囲に散乱していたのですが、御覧になられたことはありますか?」

 萱の意図はわからないが、助けになったのは間違いなく、均はそれにすがるように説明を加える。

「見たことはねえな……」

 萱の動きと声、それに初見のカードを前にして、毒気を抜かれたらしいウイリアムはしげしげと見つめていたかと思うと、萱の手から一枚を抜き取った。

 そしてそれを表裏何度も見返し、裏面の統一されたデザインをほとんど眼球につきそうなほどに近づけて凝視したり、指で弾いたりにおいをかいだりと、真剣に確認をしていた。

「あ」

 つい均が声をあげた。

 ウイリアムは長方形のカードの短い辺にそれぞれ親指と人差し指をかけて、それらが接するように思い切り力をこめたのだった。

 たちまちカードの長辺がくにゃりと円を描いた。

「奇術にゃ使えねえな。柔らかすぎる。なによりちっちゃくてこれだと客席からよく見えねえだろう。それにごちゃごちゃと字が多くてぱっと見てなんだかわかんねえ」

 あずかったカードを人差し指で弾き飛ばすと、回転しながらカードは均の胸に当たった。落ちる前に思わず両手で受け止めると、カードはちょうど真ん中くらいで薄っすらと折れ目がついてしまっていた。

 マジックに使うものじゃないですからね。

 そういおうかとも思ったが、逆にまた機嫌を損ねる結果になりかねないので堪えることにした。

「カードマジック、やる?」

「あん?」

「いや、ドクターDの店長さんが、西崎さんがカードマジックはやらないといっていたと証言されているんですよ。それでウイリアムさんはどうなのかなと」

 萱の質問がまた発火させては大変だと、急いで均が脇から注釈を加えた。

「やらねえわけないだろうが! おいらは奇術師だぞ! それがカードも使えねえでどうするってんだ! 大体あの馬鹿、半端な腕前の癖しやがって、今からやる芸を選ぶなんてどういうつもりだ!」

 ところがそれは逆効果だった。

 きっかけを作った萱が後ろで涼しい顔をしているなか、均はなだめるのにひどく骨を折った。

「それでですね、西崎さんのことを憎んでいる人物や、恨みを買ったことがあるというような事態に心当たりはありませんか?」

 ようやくウイリアムのボルテージが下がると、話がまったく繋がっていないという自覚はあったが、また臍を曲げられてはたまらない、とにかく早いうちに聞くべきことを聞いておこうと早口でたずねた。

「ねえな」

 返ってきたのは一言だけだった。

「例えば同業者同士や客を交えてのトラブルや、契約などでのいざこざがあったとかは聞いていませんか」

 考える間もない回答だったので、均もつっこんでたずねなおさないわけにはいかない。

「ねえな」

 それでも返ってくる言葉も、要する時間も前と変わらなかった。

「人間どこで恨みを買うかなんて想像もつかねえ。千円二千円の貸した返したのやりとりで相手を刺し殺しちまうことだってあるんだ。そういうのは刺される側はもちろん、刺す側だって夢にも思ってなかったなんてこともざらだ。ましてや赤の他人のおいら達にわかるわけがねえや」

 なんとなく言いくるめられた感じは拭えないが、現状でこれ以上の追求は藪蛇にしかならないようにも思えた。

「えっと、それでですね、これは皆さんに聞いている形式的な質問でして、決して他意があるわけではありませんので勘違いのないようにお願いしたいのですが」

「ごちゃごちゃうるせえな、すっぱり話せ!」

 くどいくらいに念を押して断ると、それがまた癪に障ったらしい。

「昨晩の七時から八時にかけてどちらにいらっしゃいましたか?」

「おう、あれだな、アリバイってやつだな」

 けれどもウイリアムは特に気分を害した素振りも見せなかった。

「こちらに出演されていらっしゃいましたか?」

 喜らくの夜の部に出演していては、到底往復して間に合わない。

「いんや、今回の出番は一日おきの交代なんだ。だから昨日のその時間はずっと家にいたな」

「それを誰か証明してくれる方はいらっしゃいますか?」

「いねえよ。カカアも何年か前におっちんじまいやがったしな。家にはおいら一人だ」

「そうですか」

 事によるとウイリアムとまた顔を合わせないといけないかと考えると、ため息が洩れそうになる。

「刑事さん、早く犯人を捕まえてやってくれよ」

 それを突くかのようにウイリアムがいってきた。

「鋭意努めさせてもらいます」

 またなにか怒鳴りつけられるのかと、つい身構えてしまう。

「そうじゃなきゃ、あの野郎がいつまでも浮かばれないからよ」

 けれどもウイリアムの言葉は、これまでと異なり、つぶやくような気の弱いものだった。

 たちまち矍鑠としていた芸人ウイリアム照蔵の顔が、近しい人間を亡くし気落ちする近村佳男に変わったようだった。



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