X市にワスレグサは静かに咲く

山本楽志

前編



  1


 絵樟えくす市絵樟駅前公園は、駅前と名乗ってはいるものの、改札から出て高架をくぐり、並ぶ雑居ビルを抜けた先に設けられているため知名度はいまひとつで、さらにその少ない知る人からも駅裏公園の間違いじゃないかと口さがなくいわれている。

 けれども蓑和みのわ由加里ゆかりはそんな公園が嫌いではなかった。そりゃあ観光名所といわれるような名園と比べると見劣りはするけど、春には梅桃桜が順次花開き、夏は緑が木陰を広げ、秋は紅葉が鮮やかに色づくよう、四季ごとにきちんと管理され目を楽しませてくれる園路は、近所に暮らすひいき目を抜いても、散歩やジョギングにはもってこいの穴場だった。

 もっともそれは、燦々と日の降り注ぐ朝や昼間の話だ。

 日もすっかり落ちた後の、ましてや冬の木枯らしの吹く最中まで想定していたわけではない。

 まるで一斉解禁でもあったかのように師走に入るなりの事件事故の急増は毎年の恒例で、それは絵樟も御多分にもれず、むしろ東京よりはもちろん田舎だけれども他と比べたらさほど田舎でもないという関東の地方都市特有のひねくれたプライドだけは大いに持ち合わせているためか、こういうところばかり追いつけ追い越せと時々刻々件数を増し、傷害、盗難、放火などなどの犯罪が連日新聞やテレビを賑わせた。とはいえそれがローカル版オンリーというのが地方の地方たる所以でもあった。

 由加里が絵樟駅を出た途端に目にしたのも、そんな歳の瀬の光景のひとつだった。

 見ると自分と同じくらいの背格好の女性が、すっかり日も落ちた駅前ロータリーの片隅でうずくまっていた。コートやスカートには土汚れが付着して、なによりひどいのは脚で、ストッキングは引き破れて右の膝からは血がにじみ出ていた。

 思わず立ち止まり、由加里も遠巻きに取り囲む人々の一人となると、携帯で頻りに自分の目撃を伝える男、状況を話し合うカップル、自撮りしながら緊急動画配信を行っている実況者などの声がいやでも耳に入ってきて、自然と経緯が理解できた。

「バイクだよ、バイク。駅前のロータリー。そこに侵入してきたんだよ。すっごいスピードでさ」

「二人乗りだったよね、後ろの男が手を伸ばしてさ」

「あの女の人も、あんな端っこの車道沿いギリギリ歩かなくてもよかったのにね」

「いや、信号を渡ってからあっちに行きたくて、それで少しでも距離を縮めときたかったんだよ」

「それよりカバンだ。道路側にさげているのが言語道断。あれだと取ってくれっていってるようなもんだ」

「すれ違いにひったくろうとしたところが、女性が意外と抵抗。奪われまいとベルトを逆に引っ張り返したらしいんです。お姉さん、がんばった!」

「けど、そうしたらひったくりの方があっさり手を放しちゃったのよ。ほら、それだと、力んだ分だけ空回りしちゃうでしょ。そうなのよ、おかげでばたーって倒れちゃって」

「あれはプロの仕業だよ」

 老若男女の得手勝手な話し声がざわめくなか、やがて救急車とパトカーの二種類のサイレンが聞こえはじめると、それを契機に野次馬は散りはじめて、自然由加里もそこにまざって家路につくことになった。

 けれども歩きだし、事件のあらましを頭の中で整理していると、ふと思い浮かぶことがあった。不幸中の幸いでひったくりは阻止されたけど、それは言い換えれば、犯人からしたらあてがはずれたというわけだ。

 折角危険を冒してまで行ったことを、失敗しました残念でしたで済ますだろうか。むしろさらに気を引き締めて次の獲物を物色するのではないだろうか。

 そこで由加里ははたと先ほどの被害者が自分と同じような背格好だったことに思い至る。

 いや、同じなのは背だけで、服のセンスやメイクにアクセサリー、なにより容貌と、全体的なレベルはこちらの方がちょっと上だ。つまり、それって犯人からしたら、よだれが出るくらいに理想的なターゲットってことじゃない?!

 そんな都合のよいことを考えながら高架をくぐっていると、車やバイクの行き交う音がいつもよりも大きく響いているような気がしてきた。

 あわててカバンを車道側から反対に持ち替えるが、まだ安心はできない。それどころか不安は募る一方だ。

 歩道だからって気を許していたら、無理矢理バイクで乗り上げてくるかもしれない。いっそ裏路地を行くか。ダメダメ、それこそ向こうの思うつぼじゃない。

 夜空さえ遮る高層ビルで左右を挟まれた人気のない路地を歩く由加里、その足取りは恐る恐るでいかにも覚束ない。そこに突如前方から差し込む明かり。不気味にうなるエンジン音がバイクの存在を知らせてくる。あわてて後ろに逃げ出そうとするが、それよりも早くバイクは咆哮をあげながら殺到し、軋むタイヤの音に悲鳴までもが掻き消される。

 もちろん妄想である。

 そもそもそんな高いビル絵樟にはない。駅裏手のビルもせいぜい五階建てで、十分に星空をうかがえる。

 しかし、一旦脳に浮かんだ妄想はおさまらない。もうこのまま道路沿いを歩いて自宅まで戻るなんて考えられないというところにまで来ていた。

 そこで思い至ったのが、絵樟駅裏公園ならぬ駅前公園だった。ここなら各入り口に柵が設けられているので、バイクはもとより自転車だって侵入できない。

 流石わたし、こういう時にすぐ対策が浮かぶのが違うところよね。

 咄嗟の機転に気をよくして、意気揚々と歩を進めたのも、公園に入ってしばらくのことだった。

 後悔はすぐに沸いてきた。

 公園内はなにしろ暗い。それはそうだろう。多くは葉を落としているとはいえ木々が文字通り林立し、低木や茂みも園路に沿って育てられている。物陰は見渡す限りいたるところにあるのに外灯は定期的にぽつりぽつりとしかともされていない。

 自転車も入れないため通り抜けに使う人もほとんどいない、というよりも由加里が足を踏み入れてから、ただの一人でさえ通行人と行き会わなかった。

 近くに目をやると、茂みの影が怖い。遠くを見ると、枯れ枝がゆっくりと風に揺られていて怖い。

 足もとには落ち葉が積もっていて歩むたびにかさりと崩れる音が響く。それが怯えた心を刺激して、大股で歩くことさえ憚らせる。

 どうしてわたしがこんな目に……

 どうしてといえば逞しすぎる想像力が原因だと答えざるをえないが、そうして恐怖心に身をすくめていると、不安がまた鎌首をもたげてくる。

 考えてみたらひったくりに失敗した時点で、警察が来るのはわかりきっているわけだから、犯人はすぐ逃走に移るに決まっている。なによりバイクという足があるんだから。けど、本当に決まっているだろうか。バイクは確かに移動手段だけど決定的な証拠でもある。おまけに二人乗りという目立つ姿でそのまま乗り続けるだろうか。遠くまで逃げるというのも誰でも考えつくことだ。それならばあえて近場に潜んで、警察が引き上げるのを待ってから悠々と立ち去った方が捜査の盲点をついて安全なんじゃないだろうか。バイクはどこか建物の陰にでも隠して、本人は人通りのないどこかで潜んでいるとか。人通りのないどこか、例えば夜の公園とか……

 たちまち由加里の顔から血の気が引く。

 なんということだ。狡知に長けた犯罪者の手玉に取られて、まんまとこんな人気のないところにおびき寄せられてしまったのだ。

 ひったくり犯からは理想的なターゲットという発想をまだ捨てていない、むしろますますこじらせている由加里は、そのおいしい獲物である自分にいつ目の色を変えた犯罪者たちが襲い掛かってくるかもしれないと思うと、たまらず走り出してしまっていた。

 夜の公園に足音がこだまする。恐怖に憑かれた由加里には、それが自分のたてるものなのか、他人のものなのかを判断するゆとりもない。

 とはいえ近隣住民の憩いのスペースである公園だから出入口はそこかしこに点在している。

 やがて園路が二股に分かれ、片方が外へと向かうのが見えてきた。

 ほっと一息、安堵が洩れかけた途端、しかし、とうとう由加里は本当に叫びをあげてしまった。

「きゃああああああああああっ!」

 三叉路のわずか手前、外灯の下で、誰かが仰向けに倒れていた。



  2


 これといった特徴のない男だった。

 年齢は三十そこそこ。中肉中背。軽くウェーブのかかった髪をしているが、とりたてて異彩を放つというほどでもない。十人並みという形容が実にしっくりとくる。

 その男は目を見開いて両腕を広げ、コートを大きくはだけさせて、夜空を見上げるようにして倒れていた。

 その瞳からは光は失せて、隠れている後頭部のあたりから赤い液体がにじみ出してきている。

「死因は後頭部の挫傷か」

「ああ、他に外傷はないから十中八、九は。通報は八時十二分で、死亡推定時刻もそのあたり、多分一時間もさかのぼらないだろうな」

 遠目から観察していた先輩刑事の手塚てづか史雄ふみおが、遺体の状態を確認し終えた検視官と話をするのを、観音坂かんのんざかひとしは傍らで黙って聞いていた。

 鑑識課の業務の最中は、刑事といえども規制線の外側で野次馬の整理くらいしかすることがない。だが、真冬の夜の公園では、集まってくる人間自体皆無だった。吐く白い息が洩れてくる作業用ライトの明かりに照らされて、一層寒々とした印象を強める。

 それでも均はむしろ緊張で身を固くしていた。

 交番巡査の勤務を経てこの秋から絵樟署刑事第一課への配属を命じられ、晴れて刑事としての第一歩を踏み出したものの、これまでかかわったのは暴行・傷害が主で、他殺の疑いのある事件は初めてだった。

 だから不審死体と向き合うのも初めての体験だった。

 立入禁止が印字された黄色いバリケードテープの向こう、鑑識がせわしなく動きまわる中心で、でんと位置してまるで動かないその物体は、なんだかひどく現実味がなく感じられ、けれども逆説的ではあるが、薄暗い外灯の明かりがかろうじて届くか届かないかの場所で浮き上がっているような存在感を誇っているようでもあった。

 初めてがあまり無残なものでなくよかったと思う一方で、かえってこの方が生命活動を暴力的に停止させられた生々しさが伝わってくるともいえた。

「おい、どうした」

 不意に隣から野太い手塚の声で現実に引き戻された。

「死体見てがたついてるんじゃないだろうな」

 均より十歳は上だろう皺の刻まれたごつごつとした四角い顔に、やや苦笑を浮かべてそうたずねてくる。

「いえ、そうではなくて」

 顔も言動も武骨な先輩だが悪い人ではない。この数カ月指導役として色々教えてもらった手前、不甲斐ない姿を見せたくはない。何か適当な一言でも口にしておきたかった。

「あれです」

 しかし急なことでは、指をさしてそういうのが関の山だった。

「ああ、あれか」

 幸い優秀な先輩は勝手に判断してそちらに目を向けてくれたので、均は少し落ち着きを取り戻せた。

「そうですそうです。どうしてあんなものが掛かっているのかなって、思いまして」

 死体の上には枯れ葉ではなくカードが、しかも一枚や二枚でなく、無数にばらまかれていた。


「トランプ、じゃないよな」

 目を凝らして手塚は鑑識が作業をする隙間からカードを眺めながらつぶやく。カードは死体の顔に被さっているものもあった。

「TCGだと思います」

「え?」

「TCG。トレーディングカードゲームの略ですよ」

「ああ、ガキの頃流行ってたなあ」

 そうしてアニメにもなった有名なゲームの名前を挙げる。

「そうですね、でも、あのばら撒かれているのは、また違うみたいですが」

「詳しいな」

「いや、絵柄が違うじゃないですか」

 トレーディングカードゲーム。決まったルールのうえで、お互い集めたカードを持ち寄って対戦する対面式のゲームの総称だが、もっとも均の知識もその程度なものだった。

「あれがある以上、他殺の疑いが濃いといわざるをえないよな」

 検視官がそうつぶやく。

 脳挫傷だけならば事故の可能性もありえたが、その上からカードが被せられているとなると、第三者の関与が確定的だからだ。

「だから、あのバイクのやつらの仕業だっていってるじゃないですか!」

 その時、ひどく甲高い声が現場に走った。

 たちまち手塚の目に鋭い光がともり、検視官をおいて声のした方へと小走りで向かう。ほとんど条件反射のように均もその後に続いた。TCGのことにさらにつっこまれずに、ややほっとしながら。

「何ごとだ?」

 鑑識業務の邪魔にならないあたりで聞き込みを行っていた海老根えびねという刑事と、いっしょにいた女性はその声に向き直ったが、二人とも明らかにほっとした顔をしていた。

「ああ、手塚さん。こちら通報をくださいました蓑和さんです。今発見状況をうかがっていたんですが」

 海老根は身長こそ低めだがスーツ姿でも一目でわかるほどに、全身引き締まった筋肉質の肉体を誇っている。ただ童顔でいがぐり頭をしている愛嬌から、平時はあまり他者に威圧感を与えない。

「それは恐れ入ります。絵樟署刑事課の手塚と申します。長い時間ご協力いただきまして感謝いたします。しかも、このような場所で、さぞ心細かったでしょう」

 警察手帳を開いて見せながら、手塚は女性に深々と頭を下げる。強面ではあるが、こういうことも如才なく行える人物でもあった。

「そうなんです、わたし本当に恐くて。だって、いつ、わたしもあいつらに襲われるかわからなかったんですから」

「あいつら、といいますと、蓑和さんは誰か御覧になられたんですか?」

「そこなんです。最初に来たお巡りさんにも、こちらの刑事さんにもお伝えしたんですけど……」

 後ろで聞いていた均などは、つい体を強張らせて身構えてしまったが、手塚はあくまで自然体を崩さない。ほどなくして、その対応が正しいことを知らされた。

 手塚のやわらかな物腰で弾みがついたのか、一旦しゃべり出すと通報者でもある第一発見者――蓑和由加里は一気呵成に絵樟駅前公園に来るまでの事情を伝えてきた。

 それは簡潔にいえば自分の妄想に自分で怖がった挙句に深みにはまり込んでしまったという話だった。

「ですから、あの犯人たちは、わたしに襲い掛かる前に、あの方を先に手に掛けて、それを見せつけて十分過ぎるほどに怖がらせようという魂胆なんです。だからもう怖くて怖くて」

 いや、まだ自分の妄想を怖がり続けている。

 結論からいえば、由加里は死体発見の前後、誰一人として不審な人物を目撃してはいなかった。自分の脳内でをのぞいて。

「でも、蓑和さんは、その駅前のひったくりも実際に御覧になられたわけじゃ……いっ!」

 話の区切りがついたところで均がそうたずねようとしたところが、なんと手塚がその足を思い切り踏みつけてきたのだった。

 痛さに声が飲み込まれて、それ以上たずねるタイミングを逸してしまった。

「どうかなさいましたか?」

「いえいえ、なんでもありません」

 均の異変に気づいて由加里がたずねてきたが、代わりに手塚が答えた。

「とても参考になりました。大変お手数を取らせてしまい申し訳ございません。時間も遅くなっておりますので、警察が間違いなく御自宅までお送りいたします」

 そういって由加里の見ている前で、手塚は無線で婦警を一人呼び出して警護を指示した。

「何をするんですか」

 由加里の姿が見えなくなってから均は手塚に抗議をした。

「いらんことをいいそうだったからだ」

「いらないことって、ぼくは実際に目撃したのか確認しようと」

「それがいらんことだっていうんだ。自分を狙っているっていう二人組を目撃していないのは、さっきの話からも明らかだろ。それをいちいち指摘して態度を硬化させて、改めて証言をとりにいった時にやりにくくなったらどうするつもりだ」

 そういわれてしまえば、反論のしようもない。

「すみませんでした。でも、ということは、手塚さんはひったくり犯の仕業だと考えているんですか?」

「その可能性はなくはないだろ。もちろん、今の通報者の可能性もな。油断した相手を突き飛ばして仰向けにひっくり返すのは、女子供、年寄りだってできる」

 手塚はさも当然とばかりにさらりといってのけた。

「どちらにせよ、そういうのはもっと捜査が進んでからの話だ。海老根、第一発見者は被害者ガイシャとの面識についてはどうだって?」

「会ったことも見たこともないってことでした」

「ってことは、まずはあれが誰かが先決だな。おーい、ムロさん!」

 その時、近くを通りかかった、いかにもベテランという風貌の鑑識課員を呼びつけた。

「どうだい、作業の方は」

「まだしばらくはかかるね。なにしろタイミングが悪いや、駅前のひったくりの調べを終えて、やれやれと戻ったところで、今度は駅裏だろ、二度手間もいいところだよ」

 四十絡みと思しきよく陽に焼けた顔をしかめさせてそうこぼす。

「なにか身許のわかるもんは出てきたかい?」

「遺留品はなんにもなしだ。ポケットはからっぽ、カバンなんかもあたりにはなかった」

 手塚の顔も合わせてくしゃりと歪む。

「ただ、向こうの側溝でこいつが見つかった」

 差し出してきたのは保護用のビニール袋に入った財布だった。

「中身は?」

 袋越しに手に取って観察するものの、ありきたりな合皮製で、外見にこれといった特徴はない。

「現金にカード、免許証なんかの類はなし。綺麗に抜き取られたって感じだな」

 かぶせ蓋が開いた状態にして袋に入れられているおかげで中も確認はできる。十分とはいいがたい外灯の下でも、カード入れのポケットにはしっかり型が残っていた。

「ただ、抜き忘れかわからんけど、札を入れる内側のポケットにこれだけが残ってた」

 ムロさんという鑑識課員は、そういってもうひとつビニール袋を持ち出した。

 そこには歯科の診察券が入っていた。



  3


「推定被害者の氏名は西崎にしざき委恩いおん。三十四歳とのことです」

 翌日、そろそろ正午が近くなってきた頃、観音坂均はハンドルを握りながら助手席に座る相手に説明をしていた。

「財布や診察券の指紋は被害者のものと一致しています」

 絵樟駅前公園で見つかった遺体の検死や遺留品の調査は概ね終了し、朝イチで発見された診察券の歯科医を訪問、西崎の現住所およびカルテによる治療痕の確認が行われた。

 そこで均はその住所を訪ね、被害者の裏取りを命じられたのだった。

「死亡推定時刻は昨晩七時から八時の間。死因は後頭部への強い打撃による骨折からの脳挫傷で、倒れ込んでいた植え込みに組まれた石と傷痕の形状が一致していて、まず間違いないとのことでした」

 運転しながら淀みなく伝えていく。さすがにこの程度の情報は頭に入っている。

 しかし、隣からは質問はおろか相槌ひとつ聞こえてこない。

 均がしゃべり終えると、車内には沈黙が降りてきた。

 気まずい。

 助手席に座っているのは手塚でもなければ海老根でもなかった。ひったくりによる傷害致死の疑いもあるということで、ベテランは公園付近の聞き込み、防犯カメラのチェックなど、そちらの捜査にまわされてしまったのだ。

 そこで均が組むようにと指示が下ったのは、昨日たまたま非番だった助手席の人物だった。

 わすれくさかや。巡査長。勤務歴も階級も均より上の、一度目にしたら忘れられそうにない名前の女性刑事は、その風貌も強い個性を放っていた。

 まずなにより長身だった。均も平均より高いが、その彼が思わず見上げてしまうほどだった。それが男物らしいスーツのパンツスタイルで、上からは厚手のコートを重ねているから、さらに威圧感が増す。

 その萱は普通に座れば車の天井につきそうな頭を思い切りかがめて猫背になって、両手の写真を食い入るように見ている。

 ほのかにそばかすの残る頬の上で、ぎょろりと大きな目を半ば眼球が飛び出るほどに見開かせて。

 凝視という単語がこれほどしっくりくることもないだろうという勢いだ。

 前髪がかぶさって視界を遮っているようだが、それを払おうともしない。

『見えにくくないんですか?』

 当然の疑問もおいそれと口をつくことができない。

 均が刑事課に配属されて三カ月になろうとしている。もちろん転属の際に挨拶は交わしているが、これまで萱と直接いっしょに仕事をすることはなかった。機会がなかったといえばそれまでだが、意識的に遠ざかっていたというのもある。

 刑事課は誰も少なからず一癖ある人物揃いだ。法という社会生活の上で当然の規律を逸脱する犯罪者を、さらに出し抜かないといけないのだから、多かれ少なかれそういう人間になってゆく。

 しかし、それにしたって、ここまで癖で固められた人間が刑事なんて務まるのだろうか。

 自分の想像からも、もちろん理想からも完全に埒外の萱から距離をおいていた。

 ところが、よりにもよって初めての殺人事件の捜査で、その萱と行動を伴にすることになるなんて。

 せめて事務仕事の時にでも話しかけておいたらよかったな。

 小さくため息がもれそうになったところで、

「……ん」

 エンジン音に紛れてなにか小さな声が聞こえてきた。

「すいません、なにか仰いましたか?」

「指紋」

 車内には均を除けば萱しかいないのだ。たずねかえすと、もう少し大きく、それでも耳をすましてなんとか聞き取れるほどの声でそう返ってきた。

「指紋でしたら、先ほど申しました通り、財布や診察券のものとは一致……」

 言い終えるよりも早く、何かが目の前を遮った。

「うわわわわわわっ!」

 進路が見えなくなりパニックを起こしかけたのを、辛うじて堪えて目の前に突き出された萱の手をつかんで払いのける。

 近くに車や歩行者がなくほっとして、そして横目で萱をにらみつけて大声で叫ぶ。

「なにをするんですか! 事故ったらどうするつもりですか!」

「違う……こちら……」

 声量というよりは声質の方が原因で聞き取りづらい。萱は掠れた声でそういう。

 会話が成り立っていないが、その右手は一枚の写真をつまんだまま均に見せつけている。

 それは昨夜の現場写真で、被害者の顔を中心に撮られたものだった。顔には例のカードが何枚か掛かっている。

 それで均はようやく萱の質問の意図を覚った。

「現場で回収されたカードは、トレーディングカードゲーム『セレクティング・アルカナ』のもので約二百枚、指紋は検出されていますが、不特定多数のものが入り混じっている状態で、被害者のものや本庁のデータベースのものと合致するかどうかは現在調査中とのことですよ」

 よくこの状況で受け答えできるものだと、われながら驚き呆れつつも、さすがに言葉尻は乱暴になりながらもそう伝えた。

「そう」

 それに対する返答は極簡素なものだった。

「そうって、今のに対する答えがそれだけですか」

 ついつい気分がささくれだって言葉が刺々しくなる。

 再び車内に静寂が訪れ、十分に間をおいて萱が発したのは、

「わき見は禁物」

「その通りですね! もちろんですとも!」

 観音坂均はできればアクセルを思い切り踏み込みたかった。


 被害者の推定西崎委恩の住居は絵樟市南東の希悠きゆうにあるワンルームマンションだった。

 オーナーの名前をとっているのだろう浪谷なみやレジデンツは、ありきたりな外観をした築十年はくだらないだろう四階建てだった。

「渡邊さんですね、おそれいります」

 普段は常駐していないという還暦を過ぎていそうな小男の管理人とはエントランスで待ち合わせ、部屋の案内を依頼していた。

 写真による確認も試みたが、

「三〇四号室の方は家賃の振り込みも正確で、これまでトラブルなんかも無縁でしてね、顔を合わせたのだって内見と契約の際だけ。名前も改めてその書類を見て思い出したくらいですから、こんな顔だったかといわれたらそうだったようなって感じなんですよ」

 いかにも卑屈そうに笑ってみせるばかりで、証言として役に立ちそうになかった。

 ちなみにそうした管理人の渡邊とのやり取りは全て均が行い、萱はその後ろで立っているばかりだった。とはいえ、極度の猫背でほとんど均の肩から首を突き出すばかりの態勢はかなり不気味で、無言のプレッシャーを相手に与えていたのは間違いない。

 西崎の部屋は三階の角部屋にあたった。エントランスでも呼び掛けは行っているが、念のため玄関ドア脇のインターフォンを鳴らしてみてもやはり返答はない。

「それではお願いします」

 表情をやや強張らせて、渡邊がマスターキーを差し込もうとすると、

「あっ! やっぱ、なんかあったんスか!」

 唐突にそんな声が背後から聞こえてきた。

 あわてて振り返った均はぎょっとして言葉を失った。渡邊もドアノブを握って鍵を掴んだ態勢のまま固まってしまった。

 そこには逆立った髪を赤と青に半々に染め上げ、十二月に入ったというのに半袖シャツにダメージジーンズの青年が立っていた。

「なんかごそごそ聞こえてるなって思って見てみたら大当たり! やるねえ、俺!」

 隣室にあたる三〇三号室のドアから半ば体を突き出しているため、どうやらそこの住人らしい。

「やっぱり?」

 けれども均や管理人の渡邊が呆気にとられているなかでも、萱は動じなかった。ゆらりと首を突き出しながら一歩前に出た。

「うおっ! お姉さん、でっかいっスね! 一九〇? もしかしたら二メートルあるんじゃね? すげえ!」

「一八〇」

「んなわきゃねえ! おもろいっスよ、お姉さん! え? もしかして、芸人? テレビ?」

 萱はロングコートの内側から警察手帳をつまみ出して、文字通り腹を抱えて笑っている青年の鼻先に突きつけた。

「近い! 近いっス! でもアップで警察手帳見せてもらったの初めてっス! ありあーっス! へへえ、やっぱり警察の人って大きいんスねえ」

 けれども青年はまるで委縮もせず相変わらず喜びの声をあげている。

「やっぱり?」

 それを萱はまったく受けつけず、淡々と同じ質問をくり返した。

「そうそう、やっぱりなんス。昨日。夜。だから昨晩か。お隣さんのドア? ガンガンガンガン叩いているのがいたんスよ。『開けなさいよ!』『いるんでしょ!』やべえ! 俺似てなくないすか? で、またガンガンガン! ありゃあ、両手だけじゃなくて足も使ってたね。キックキックローキック」

「女の人?」

「やっぱわかりました? イケると思ったんスよ。似てたっしょ。『開けなさいよ!』『開けなさいよ!』」

「どんな人?」

「いやいや、勘弁! 夜に人の玄関ぶん殴ってるンスよ。うっかり出て因縁つけられたら怖いっしょ。『ツラァ覚えたからね!』うわ、いいそうー!」

 裏声を使ったものまねらしきものが余程気に入ったらしく、何度もくり返してくる。

「ありがとう」

 その女性の声音が響いている合間に萱はそう礼を告げた。

「なんのなんの。俺、桐丸きりまる。三〇三。よろしくっス! ミナミの『キャラバン』でホストやってるんで、是非来てくださいよ! お姉さんに指名もらえたら箔つくっスから!」

 ミナミは南部のJRとの乗換駅周辺の一帯の繁華街で、比較的東京に近いことを絵樟市の他の地域とのアドバンテージと思い込んでいる。

「わかった」

「マジ! ヤリィ! アイツらマジビビるし! 早速教えてやらにゃ!」

 青年はたちまちドアを閉めて室内に戻ってしまった。おそらくこれからアイツらという面々に連絡をするのだろう。

 萱は感情のこもらない表情のまま均と渡邊に向き直ると、

「じゃあ」

 とだけつぶやいた。

「はい、ただいま!」

 管理人はそれまでよりもきびきびとした動きで西崎宅のドアを開錠した。


 異質な臭い。

 悪臭ではないが、明らかに嗅ぎ慣れない、自分と区別する、他人のパーソナルスペースを意識せざるを得ない臭い。

 他人の家に足を踏み込むたびに覚える臭い。

 警察官になり均も数限りなく嗅いできたそれが、この時は、一層濃いように感じられた。

 西崎宅は物で溢れ返っていた。ただし乱雑ではない。スペースの限られたワンルームに、戸棚を置いて、ベッドの上には棚さえ吊るしている。

 けれども、そこに置かれているのは、均にはなんとも判断のつきかねる品ばかりだった。

 シルクハットに造花の花束、シャッターがついて中身を確認できるようになっている大きめの箱、中にはオレンジや赤、白のボールが詰め込まれている。壁には模造品とはわかるが刃の部分を磨き抜かれてきらきら光る剣が掛けられている。

「なんだこりゃ」

 思わず口をついた均の後ろで、萱は何事もないようにつぶやく。

「手品」

 そういわれてみると、確かに、たまにテレビなどでマジシャンが披露する大袈裟な道具に似ているように思われた。

「ということは西崎氏はマジシャンだったってことですか」

 萱に振り返ってそうたずねた矢先、鋭い音が室内に鳴り渡った。

 それは単調な電子音で、携帯電話の呼び出しと思しかった。

 均はポケットを探りかけたが、自分の電話のものとはそもそも異なっていることにすぐに気づいた。

 そしてその時には既に萱が動いていた。するりと靴を脱ぎ、まったく躊躇いも迷いもなく室内に踏み入ると、一直線で部屋の中ほどに設えられた机に滑るように大股で歩み寄り、いつの間にかつけていた手袋で置かれたままになっていたスマートフォンをつまみ上げた。

 ちらりと待ち受け画面に一瞥をくわえただけで、呼び出しが鳴り続けているそれを持って戻ってくると、均へと差し出した。

 思わず人差し指を自分に指して「俺が?」とジェスチャーで示してみるが、萱はただ首を縦に振るだけだった。

 感情のこもらない三白眼が狼狽する均を冷たく見据える。こうなると選択の余地などない。

 仕方なく携帯を受け取る。ロックは掛かっていない。覚悟を決めて指を強張らせながら通話ボタンを押す。

「はい」

 そうして耳に電話を傾けた途端、スピーカーからは怒涛の如き轟音が奔流となって氾濫してきた。



  4


 扉が開き、リノリウム張りの廊下に、改めて係の人間とともにショートボブの女性が姿を現わした。職場から慌てて駆けつけたためスーツ姿で、さすがに顔は真っ青になり、目のまわりは腫れ上がっていた。

「お疲れ様でした。ご協力感謝いたします」

 歩み寄り均は頭を下げる。後ろでは萱もいたが、こちらは会釈したかしていないかくらいの動作で済ませた。

 短い静寂が訪れた。案内の係の人間はすぐにその場を離れていった。

 均はあえて促すことはせず、女性から口を開くのを待った。それに気づいたのだろう。憔悴しきった顔を、それでもなんとか力を入れ強張らせて、答えた。

「間違いありません。彼、西崎委恩です」

 懸命に歯を食いしばってまっすぐこちらに眼差しを向ける彼女の表情を前にして、均はたいしたものだと思わないわけにはいかなかった。

 少なくとも一時間ほど前の、電話での受け答えとはまったく様子が違う。

『いったいどういうつもりよ、何度も何度も電話しているのに、ずっと無視するなんて! あんたあたしがどれだけ心配したかわかってるわけ? いいえ、聞きたくない! どうせわかってなんかいないんだから! そうじゃなきゃ、最初に電話した時にすぐに折り返してなきゃおかしいでしょ! なのに、ずーっと返事もしないなんて。つまんない言い訳だったら許さないわよ! さあ、どこで何をしていてどうして返事ができなかったのかすぐにいってみないさいよ! さあ! さあ!』

 訪れたワンルームマンションの一室で発見されたスマートフォンに、萱から促されるままに出た均の耳に、通話ボタンを押した途端に叩き込まれたのは、強烈な金切り声によるそんな非難の嵐だった。

 キーンと耳の奥に痛みさえ伴うエコーが残りながら、自分がこの携帯の所有者ではなく警察官であることを説明し――そこからの大騒ぎも一層凄まじかったが――その当人が事件に巻き込まれた可能性がある旨を伝え、知り合いならば被害者の顔の確認をお願いできないかとなだめなだめ切り出したのだった。

 そしてその結果、ここ絵樟警察病院にて落ち合うことで話がまとまったのだった。ちなみに霊安室にて遺体との対面で確認をするようにと提案したのは萱だった。

「どうして、こんなことに」

「現在、我々も鋭意捜査中です。つきましては、被害者のことをお教え願えませんでしょうか」

 女性の顔がさっと強張るが、それでもすぐに小さくうなずいて、

「わかりました」

 先輩の刑事達から、遺体の確認に立ち会う辛さ、やるせなさは何度も聞かされてきていた。悲嘆にくれる相手から必要な話を聞き出さないといけない時には自らの仕事の因果さを思い知らされるし、心ない言葉を投げつけられて刑事自身が精神的に病むこともあるという。

 そうした体験談を均も身につまされながら聞いていたから、この時、西崎委恩の確認を了承してくれた女性の気丈さはには感心させられていた。

 ただ、ひとつ引っ掛かったのは、この女性が首には金色に輝くドクロをつけたネックレスをはじめとして何本も掛けて、さらに両手には数珠を幾重にも巻いて、そのうえお守りらしきものを握りしめたりあちこちにぶらさげていることだった。


 地下の霊安室を後にして、こうした際に聴き取りを行える小会議室に場所を移した。

「それではもう一度お名前をおうかがいいたします。天知あまちひよりさん、でよろしかったですね」

「はい」

 遺体の確認を行った女性――ひよりはまっすぐ均の目を見ながら、両手で数珠とお守りを握りしめて答える。

「恐れ入りますが、御対面されました方のお名前、年齢、電話番号など、ご存知の範囲で結構ですのでお教えいただけますか」

「彼の名前は、西崎委恩。職業はプロマジシャンでした。自称ですけど」

 浪谷レジデンツの部屋にずらりと並んでいた品々が改めて腑に落ちた。

「生年月日は平成〇〇年九月十三日で、今年三十四歳になりました。血液型はA型。実家は新潟県だと聞いています。電話番号は……」

 ひよりは西崎のプライベートな情報をぽつぽつと語っていく。それは殺害現場で発見された財布の中の診察券の発行元の歯科医院や、暮らしていたワンルームマンションの契約書類から受け取っているものとも一致していた。時折お守りを額に押し当てたり、数珠でばしばしと叩いて記憶を正そうとする以外は、おおむねスムーズに聞き取りは進んだ。

「結構です。ありがとうございます」

 遺体が西崎委恩でほぼ間違いはないだろう。

 そこで均はもう一歩踏み込んだ質問に入ることにした。

「それで、よろしければ、天知さんと西崎さんのご関係を教えていただけませんでしょうか」

「恋人です、でした……」

 特に躊躇いもなく、ただし過去形にしないわけにはいかないことに気づいた瞬間には、ひどく切なそうに眉を寄せた。

「かんたんにで結構ですので、きっかけなどをお教え願えますか」

「もともとは、彼、委恩君は私の職場の――ハタタ出版の先輩社員だったんです。仕事を教えてもらっていたんですが、それも一年ほどのことで。突然、仕事を辞めるっていいだして。子供の頃からマジシャンになるのが夢だったらしくて、サラリーマンをしてた時もそれを捨てきれなくて、ある日いきなり。私びっくりしてしまって。毎日いっしょにいてくれた先輩がいなくなってしまうのが、考えたらすごく嫌だなって思えて、気がついたら私の方から。それからでした」

「脱サラをしてプロマジシャンにということですか」

「プロっていっても仕事なんて月に数える程度で、居酒屋のアルバイトが主な収入でしたけどね」

 寂しげにひよりは笑う。

「アルバイトですか、店の名前はご存知ですか?」

「ええ。駅前の『土瓶どびんそん』です」

 均はペンを握る手が強張っているのを感じずにはいられなかった。扱いの難しい質問が控えていたからだ。

「天知さん、あなたは昨晩、西崎さんのお宅へいらっしゃいませんでしたか?」

「はい」

 けれども、ひよりはあっさりとそれを認めてしまった。

「え? 行かれたんですか?」

 あまりに拍子抜けの事態に、思わずたずね返してしまうほどだった。

「はい、行きましたけど」

 むしろひよりの方が訝しげな表情を見せる。

「西崎さんのお宅の玄関を叩かれた?」

「もしかして、聞かれてしまっていましたか。やだ、すいません、インターフォンを鳴らしても返事がなかったもので、つい何度かノックをしてしまったんです」

 青かった顔に照れたように朱が薄く差す。あの桐丸という赤青のホストの話だとノックどころではなかったようだが。

「失礼ですが鍵は?」

「預かっていません。オートロックのナンバーは教えてもらったんですが。委恩君はすごく生真面目で神経質で、部屋の物の配置が少しでも変わったら落ち着かないっていって、いっしょじゃないと部屋にも入れてくれなかったんです」

 確かに、西崎宅は物こそ多かったものの、全て綺麗に整頓されていて乱雑な印象は受けなかった。

「なるほど。それで話を戻しますが、西崎さんのご遺体の発見が通報の記録から午後八時十分頃となっておりまして、その西崎さんのお宅の前で天知さんが扉を叩いていられたのが午後九時少し前と、こちらも証言をいただいております。そこで天知さんはしきりに西崎さんの在宅を確認されようとしていましたよね。昨晩から電話も何度となくかけていたようで。これはどういった理由によるものなのですか?」

 机の上に置かれていた西崎の携帯の履歴には「天知ひより」と登録された名前と電話番号がずらりと並んでいた。ただし、まだ最終的に遺体が西崎本人だと断定されていないため、電話自体は元の場所に戻されている。

 殺害時刻付近から被害者とコンタクトを取ろうと努めている事実は、彼女が何事か事情を知っているという容疑を濃いものにしていた。

「昨晩は日が悪かったんです」

「はい?」

「委恩君の命運は昨日の夕方から夜須已劫塵宮やすみごうじんきゅうに入り過去八年で最悪を迎えました。ですからその初卦は星辰の遷移するまで外出を控えるようにとお願いしていたのです。彼もそのことは承知しているはずですから、昨晩はおとなしく部屋に篭もってくれていると信じていました。なのに仕事帰りに電話をしてみたら出ないじゃありませんか。それで私もその足でまっさきに彼の部屋に向かいまして……」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 片手を挙げて慌てて話を遮る。肝心の前半部分がさっぱりわからなかった。

「その仰ったやすみなんとかというのは」

「夜須已劫塵宮ですよ」

 けれどもひよりはいかにも一般常識だとばかりの口振りだ。

「それはいったいどういう意味なんでしょうか」

「万物は誕生以来カルマを蓄積していきます。気脈の働きにより減少することもあるのですが、全てとはいきません。生きている限り必ずその量は増え続けます。つまりこの宇宙にエントロピーが増加し続けるのと同じ原理です」

「はあ、エントロピーが」

 噛んで含めて諭すような口調のひよりに言葉を合わせるが、もちろん均にはちんぷんかんぷんだ。

「そうです大宇宙のエントロピーの増加同様の、カルマの過負荷にも人間の肉体は耐えられません。そうした際に運気は乱れ、体調は悪化し、とりかえしのつかなくなることもままあります。そのカルマの膨張が危険水域にまで達し、大きな不運や事故などが起こる期間が夜須已劫塵宮です。個人個人によって異なるカルマの蓄積を、特別な計算式を通して計測したところ、まさに委恩君は昨夜から夜須已劫塵宮に当たっていたのです」

「えっと、それはつまり、占いなどで縁起のよくない日が続くみたいな?」

 説明してもらっても結局一切理解は深まらなかったが、精一杯均のわかる言葉で置き換えたのがそれだった。

「占いとは根本的に異なりますが、刑事さんの仰りたい意味ででしたら近いものがあります」

 そういわれてほっとした。つまりひよりは、昨日が西崎の運のよくない日だったので、外出を控えるように伝えていたにもかかわらず、それに反して連絡がとれなくなったためにくり返し電話をかけ続け、それでも飽き足らずに玄関先にまで押しかけて大騒ぎを起こしたというのだ。

「冗談を仰られては困りま……」

「何が冗談ですか!」

 均が窘めようとすると、それが言い終わるよりも早く、ひよりは食って掛かってきた。

「あなたこそ、崇高な古来よりの知識を冗談にするだなんて、ましてや人が一人亡くなっているのに、不謹慎だとは思わないんですか! 冒涜にもほどがありますよ!」

 並んで座っていたベンチに片膝をつき、手にはあのお守りを握りしめて、ずいと身を前に寄せて迫ってくる。吊り上がった目の色は完全に変わり、肌も蒼白になっている。

『マジモンだこれ!』

 均はひよりがなにか都合の悪いことをはぐらかすために適当なことをいっているとばかり考えたのだが、それがまったくの見当違いだと思い知らされた。

「も、申し訳ありません! そういうつもりではまったく!」

 迫ってくる顔を押し止めるようにして、均は平謝りに謝るほかなかった。

「わかってくださったんなら結構なんです。あの、病院内ですから大声は……」

 途端にひよりは沈静化して、まるで自分は騒いでいなかったかのような態度に変化した。

 均はぐったり疲れてしまった。

「それで、ですね、皆さんにおうかがいしているんですが、昨晩の七時から八時にかけて、どこにいらっしゃいましたか? あくまで、形式的にということでして」

 アリバイの聴取だが、また興奮させてはと構えてしまい、つい及び腰になってしまう。

「でしたら、仕事を終えまして一旦自宅に帰ったところで、委恩君に連絡をとろうとしても返答がなかったので、それから彼の家に向かっていました」

「それを誰か証言してくださる方とかは。例えば途中で電話がかかってきたとか」

「いいえ。携帯はずっと彼にかけていて使っていましたから」

「そうですか、結構です」

 それで切り上げる。

「萱さん、なにかありますか?」

 それまでの間、均の隣の席で、組んだ両手を腿の間に置いて猫背の態勢で屈み込んでいた萱は、そう聞かれると左腕を突き出した。その手の先には一枚の写真がつままれている。

「見覚え、ある?」

「カードですか? トランプじゃないみたいですね。初めて見ました。なんですか、これ?」

 それは現場に散乱していたカードの写真だった。無造作な仕種と掠れた声に、目を丸くしていたがひよりは素直に答えた。

「絵樟駅前公園、思い当たる?」

 ひよりの疑問は無視して、腕を引っ込めると萱は別の問いを続ける。

「委恩君の見つかった場所でしたよね。いいえ。デートに使ったことも、待ち合わせに使ったこともありません。委恩君との話題に出たこともなかったと思います」

「新潟」

「はい、委恩君の実家ですね」

「関東、知り合い」

「委恩君は、ほとんどが仕事上のつきあいばかりで、親しい知り合いや友人はほとんどいないといっていました。私でも知っているのは、高校時代から唯一切れずに続いているお友達が一人いるだけです」

 萱の、ぽつりぽつりと一言一言を投げ掛けてくる聴き取りは、聴かれる側がそこからの連想を口にして、知らぬ間に多くの情報を与えていた。

「誰?」

 この時も、被害者西崎委恩の関係者の氏名を聞き出したのだった。



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