騎士と従者

野鳥倶楽部

第1話 カエルのカスタネット

 僕のあらゆる判断は、僕個人で行っているのではない。

 常にトイ君の意見が珍重されている、正直に言えば、トイ君の意思に従っている。


 僕、甲野杜鵑はパン一個として、己一人の決断では購入に踏み切ることができない。

 僕は買い物カゴにクリームパンを入れようとする時、トイ君が何か言うだろう間を与える。

 トイ君が無言であれば、しばし静止していた手はクリームパンをカゴへと落とす。しかし、わざと開けておいた隙間に、

「ちょっとは栄養ある総菜パンにした方が良いと思う」と、トイ君が上手いこと口を挟めば、僕は今まさにカゴへ落そうとしていたクリームパンを商品棚へと戻す。


 僕の行動をトイ君がどう思うかが肝心であり、行動がもたらす結果はさほど重要ではない。

 この世に生まれて二十五年、何百回何千回と繰り返していることでさえ未だ不慣れな様子で、僕は何かする都度、絶妙な間を作っては、これで合っている? とトイ君に問うているのだ。

 もし、トイ君の意思の作用が途切れたら、僕は凍り付いたように静止するより他ないだろう。


 台風が接近しているので、トイ君と僕は百円均一店に防災グッズを買いに行った。

 電池やらランタンやら即席麺やらをカゴに入れた後、おもちゃコーナーへと姿を消したトイ君を探しに行った。

 トイ君はすっきりと直立し、図書館の文豪コーナーの本棚を物色している面持ちで、おもちゃの棚を見つめていた。

 緑色のカスタネットをカタカタ鳴らしている。カエルの頭を模したカスタネットだ。

 棚にはブタやネコやウサギの頭もあったが、トイ君はカエル頭を叩き続けている。三文オペラに贈るおざなりの拍手のような、尊大な叩き方であった。


 僕はカゴを掲げて見せた。「もうレジに並ぼうよ」


 トイ君はカスタネットを叩きながら、長い目の端でカゴの中身を確認した。

 僕はトイ君が何か言い出す間を作るため、数秒カゴを持ち上げていたが、トイ君が何も言わなかったため、さりげなくカゴを下ろし、レジへと歩き出した。

 トイ君はカスタネットをカタカタ鳴らしながら後に付いてきて、カゴがレジの台に置かれると、ポンとカスタネットを放り込んだ。

 料金を支払うと、トイ君は素早くカスタネットを取り上げ、またカタカタ鳴らし始めた。


 台風は明日接近だと予報されているが、店を出るや強い風が二人の髪を乱した。

 風に押されるように歩きながら、僕は肩越しにトイ君が付いて来ているかを確認した。

 母親の前を行く幼児さながら、数歩進めば不安になって振り返る僕に、ちゃんと後ろに付いていますよと知らせるためか、トイ君はカスタネットを叩き続けている。

 僕は安心させられるどころか、背後から迫る音に急かされているようで、落ち着かない。

 しかし自分が我慢すれば良いことで、注意などしてトイ君の機嫌を損ねてはいけない。カタカタカタカタ耳に付くが、どうせ行き交う人々には聞こえていやしまい。


 トイ君が自分にしか認識できない存在であることは保育園年中時代に感づいた。

 保育園の事など、正真正銘の思い出なのか、でっちあげた想像なのか、判然としない記憶ばかりなのに、その瞬間のことは衝撃的事象として僕の脳に刻み込まれている。

 それは一人一個ボールを取りに行く時だった。何のために取りに行ったのかは、もう忘れた。僕は自分とトイ君の分、二つを取って来た。両脇に二つのボールを抱える僕に、先生は言った。

「一人一個よ」


 僕は幼児言葉で以下を伝えた。「トイ君の分」


 先生は困ったような表情で首を傾げ、今思い返すにひどく不気味がっていたような気もするが、幼い僕の腕から一個のボールを取り上げた。

 この瞬間、トイ君は己一人だけの存在だと悟ったのである。

 おそらくそれまでにも、トイ君に関しておや? と思う事柄は何度となくあったはずであり、ついに気付いたとも言える。それでも、しばらくは半信半疑であった。

 家庭内ではトイ君の存在が認められていたからである。

 家族はトイ君を幼子の頭の中の住人として尊重していたのだと、少し大きくなってから解釈した。


 トイ君が他者にとっては幻の存在であると悟ったあの当時、トイ君は僕と同様幼児であった。

 僕たちはこの世に誕生した瞬間から、双子のように隣同士にいたのだ。

 二人は二十五歳になる今日まで共に成長を遂げた。

 自分とほぼ同じ背丈で、自分より数段端正な顔つきで、声質もなかなか素晴らしいトイ君は、脳が作り出した幻影であろうと認識している。

 それにしては、いたく存在感があり、腕を掴めば掴めるし、淹れてやったお茶は飲むし、買い物カゴにいらぬおもちゃまで投げ込んで来る。

 注文した覚えのない宅配物が届いたりもする。

 それもこれも己の並外れた想像力が成せる技なのだろう。


 僕はまたトイ君へと振り返った。

 そして心の隅で、学生風の男がカエル頭のカスタネットを叩きながら表通りを堂々と歩いていたら、僕はきっと見ない振りをする、と考えていた。

 真横を通り過ぎても、ちらとも見ないし、通り過ぎたとしても振り返って確認したりしない。

 こんな怪しい男とは絶対に関わりたくないからだ。

 もしや行き交う人々の心境も、同様ではあるまいか。


 僕はすれ違って行く人々を観察した。

 皆一様に、僕の背後はブラックホールであるかのように、目を向けたとしても何も見えていないような素振りだ。


 やはりトイ君は己だけの存在なのか。

 それとも世間の人々が見て見ぬ振りを見事完遂しているのか。


 解けぬ謎が入道雲のように沸き上がった。

 この雲は割合頻繁に僕の脳裏に出現する。

 トイ君の存在に関する謎は、僕の人生のテーマと言っても良い。

 雲は立ち込め、思考は混沌とする。

 ぼんやりとした頭を無理矢理働かせ、僕は自らを訂正した。

 解けないのではない。解いてはならぬ謎だ。


 ふいにカスタネットが激しく鳴った。

 はっと我に返って、振り向くと、トイ君が陽気に尋ねた。

「ねえ、杜鵑。台風は一体何がしたいのだろう」


 僕は謎の考察が邪魔されたことを有難く思い、さっさと思考を切り替えた。「台風に意思はないんじゃないかな」

「意思がある動きをしている」

「気象現象だよ。生き物じゃない」

「それは生物の定義によるだろう」

 トイ君は少し見開いた目で僕を見つめた。


 これは僕にとって魔術的効果のある視線であった。

 こんな目で見られると、僕はそうかもしれない、という気にさせられる。

 物心ついた頃からこの魔術に惑わされてきた結果、自分の思考は、少々平均から外れてしまった。

 加えてトイ君は幻惑しておくだけで、確固たる価値観を植え付けてくれるわけではないため、僕には取り留めない疑問だけが残る。


 生物の定義とは何だっけ? 

 細胞に膜があること? 

 しかし地球を一個の生命体として捉えるガイア理論を聞いたことがある。

 それなら台風を生き物として考えることも有り得る、のだろうか?


 台風生命説を頭の中で捏ね繰り回している間に、二人は下宿先に帰り着いた。

 トイ君は金属の階段を軽快に上がって行く。

「鍵」


 部屋の前に付くなり、カスタネットをぶらさげた片手を差し出した。


 トイ君は僕が渡した鍵でドアを開け、さっさと中に入るとテレビをつけた。

 壁にもたれて台風情報を確認しながら、カスタネットをおざなりにカタカタ鳴らしている。

「気圧が上がっている!」

 トイ君が特別な発見でもしたように言った。「明後日には死ぬのだろうか」


「そうかもしれない」

 僕は買ってきた電池を、ゆっくりと引き出しに入れながら横目でトイ君を伺った。

 台風情報に見入っている。

 電池の置き場所に問題はないようだ。

 安心して閉めかけた引き出しを、僕はまた開けた。

 入れておいたはずの工具セットがない。

 以前、百円均一店で買った簡易的なもので、ドライバーやペンチが手の平に乗るサイズのケースに収まっていた。

 僕はトイ君をちらっと見た。

 相変わらず台風情報に夢中である。夢中の振りかもしれない。


「トイ君」


 呼び掛けると、トイ君はおもむろに振り向いた。


「ここに入れておいた工具を知らない?」

 そんな場所に工具が入っていたことさえ知らないのだが、というようにトイ君はやや不満げに眉をひそめた。

「見つからないんだよ」

「また百円均一で買えば」

「うん……」


 この時のことを思い返す度に、もっと追及しておけば良かったのだと過去の自分を歯痒く思う。

 トイ君がカスタネットを買い物カゴに放り込んだ時点で、不思議に思うべきだった。

 成人男子がおもちゃのカスタネットなど、どうするつもりなのだ。

 トイ君を己だけの存在と位置づけていたために、どうせ空想上の出来事と、彼の取り扱いが粗雑になっていた。


 しかし、この瞬間の僕はトイ君に疑念を抱かなかった。


 突然、耳につく電子音とともに、テレビ画面上部にテロップが流れたからだ。

「ついに連合軍が動き出す」

 トイ君はテロップを上目遣いに見やりながら、声をひそめた。「戦争だ」

「最初は隣国同士の小競り合いだったのにな」

 僕は掴みどころのない不安を持て余し、どうでも良いことを言った。


 三年程前に、小さい国同士で国境を巡る闘争が起こった。


 今まで聞いた覚えのなかった二国の名前を、日々、新聞やニュースで目にし耳にするようになった。

 夕飯を食べながら、爆撃で破壊された街や食糧危機に瀕する人々の様子を、これはひどいな、とテレビで見ている内に、戦争は坂を転がるように激化した。

 まさか連合軍が参戦するまでになるとは。


「この国はいつかね」

 トイ君が何気ない調子で言った。

「何が?」

「参戦だよ」

「まさか!」

 僕は明朗に否定した。「我が国は平和憲法を掲げているんだから。戦争はしないよ」


 トイ君は長い目の端で僕を見つめ続けながらテレビへと向き直り、顔が正面を向いたところでやっと目を逸らした。

 彼はカスタネットを叩くのを止め、難しい顔つきでしばらくテレビを眺めていた。

 やがて僕の通学用リュックサックへと手を伸ばし、地図帳を取り出した。

 そんなものをリュックサックに入れておいた記憶はない。

 横目に観察すると、背表紙に大学図書館のシールが貼ってあった。

 カエル頭のカスタネットを買い物カゴに放り込んだ時と同様、僕が借りる本の中に紛れ込ませたのだろう。


 トイ君が地図帳をめくり、

「ほら、ここ。ここで今まさに、戦争が起こっているんだ」と、震える手で引いたような線が分かつ小さな国の集まりを指先で示した。

「ふうん」


 紙に印刷された国は、それぞれお伽話に出てくる架空の国のように思えた。

 色分けされた国を拡大して行けば、そこには山河があり、人が住み、爆弾が落ちているとは、実感を持って想像できない。

 故に僕は気のない返答をし、トイ君の作業をぼんやりと眺めていた。


 彼は地図の縮尺に合わせてコンパスの足を広げ、我が国から先ほど指差した国までコンパスをくるくる回転させた。そして、レポート用紙に我が国から戦地までの距離を計算した。


 僕は大学院で人工衛星の翼の研究をしている。

 トイ君は僕の中の存在であるから、僕と興味の方向は共通しているはずであるのに、彼は国際情勢で頭が一杯のようだ。

 さらに何か計算し、図面のようなものを描き始めた。

「それなに?」

「うーん」と、トイ君は上の空で計算と図面描きに没頭している。


 僕もそろそろ材料力学のレポートに着手せねばならない。提出日が迫っている。

 そう思いながらも、つけっぱなしのテレビへと顔を向けた。

 台風は我が国の南西地域に上陸したようだ。

 画面の中では荒れ狂う風雨に、街路樹が激しく揺さぶられていた。

 風にもぎとられそうな枝葉のように、僕の心もざわめいている。


 連合国が参戦したことによって、戦争が己へと一歩にじり寄った。

 輸入品の穀物が値上がりしているが、今後、さらに品薄となり値上がりするかもしれない。

 心配すべきはこのことだろうか。

 懸念せねば成らないことが別にあるように思う。しかし、連合軍に引き続き我が国も参戦などはあり得ないため、これ以上の影響は思いつかない。

 それなのに妙な気味悪さが拭い切れない。

 僕の一部であるトイ君が、戦場と我が国の距離を計算したりするから、僕までもが不安に陥るのだ。


 腕を伸ばして、僕は畳の上に放り出されたカスタネットを取り上げた。

 カエル頭を叩いてみると、軽快な音がした。

 気分を紛らわそうと、何度か叩いた。

 こんな愉快なカスタネットを鳴らしている日常の先に、戦争が待ち受けているとは思えない。

 不安を蹴散らすように、僕はいつまでもカスタネットを叩き続けた。

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